夏の夜話

バニラダヌキ

第一夜 猫のいる夜



 夜半、店の棚卸しを終え、越して半年ほどの安アパートの部屋に戻ると、見知らぬ猫がいた。

 茶卓の上の紙箱をひっくりかえし、しまっておいた米沢牛の燻製くんせいを、ひたむきに咀嚼そしゃくしている。

 田舎から送ってきた、貴重な食糧である。

 この野郎よくもよくも。

 食いかえしてやろう、そんな意気込みでつかみかかったが、年季のはいった猫らしく、ほんのひと皮のところで、するりとすりぬける。

 わずかにてのひらに触れた毛先が、しゃくにさわるほどなめらかな、漆黒の、いわゆる烏猫からすねこである。

 うっかり閉め忘れた窓の隙間から、忍びこんだのだろう。

 逃げ出すでもなく、机の下にもぐりこみ、あわてて紙箱をかたづける僕の手元をうかがっている様子は、あきらかに箱の中身に対して、いまだなにがしかの権利を主張しているらしい。

 よくよく見れば、かわいくなくもない。

 米沢牛に関しては譲歩の余地はないが、帰りがけに仕入れてきた勤め先の食料品売り場の処分品ならば、多少の譲歩が考えられる。

 猫はよほど空腹だったらしく、総菜の半分をたいらげ、牛乳も半分飲んだ。

 そのまま寝ると、俺みたいに際限なく太るぞ、などと言いつつ、いそいそと猫じゃらしの紐を探しはじめた僕を尻目に、軽く跳躍し、それきり窓外の闇に消える。

 無礼な猫だ。



          ◎



 いささかの憤りと大いなる失望をもって、風呂で体をこすっていると、電話が鳴った。

 僕の部屋の電話が鳴る時は、店がらみの急用か、まったくの間違い電話か、ふたつにひとつである。

 ――あなたのところに帰りたい。

 その声で、かつて三つめの種類の電話があったことを思い出した。

 昔、都内でいっしょに住んでいた女からだった。

 ――もうこんな暮らしはいや。

 泣いている。

 一瞬にして彼女を許している自分に、なんとまあふがいない男だとあきれはてながら、僕はいそいそと新しい住所を告げ、明日の夕方、駅で合おうと約束した。

 してみると、あれは幸運の黒猫だったか。

 風呂の続きをやりながら、ふと、その猫が、僕自身には一度も興味を示さなかったことに思い当たった。

 まあいい。無礼でこそ猫だ。



          ◎



 翌日の接客は、我ながら愛想良くできた。

 部下、といっても二人だけだが、彼らもいつになく良く動いた。

 定時で店をひきあげ、駅で彼女を待つ。

 言いたいことは山ほどあった。

 ――だから言ったじゃないか。確かにあれはいい男だ。ことによったら僕より数段上かもしれない。でも、あの家は、無理だ。君のような甘えん坊が、嫁として根づける家じゃない。まして同棲歴のある女など、お姑さんが。

 まあ、言わないでおこう。彼女が相当に理不尽な苦労を強いられているという噂は、人づてに聞いている。

 今夜はただ共に時を過ごすだけでいい。

 そして、彼女と別れてから知った悪所の女たちからはとうとう見出せなかった、あのしっくりとくる肌の弾力を、夜着ごしに楽しむだけでいい。



          ◎



 郊外の駅の夜のこと、たっぷりの間をおいて、家路につく人々の群れが幾度か流れた。

 終電が過ぎても、彼女は現れなかった。

 部屋に帰るまで待てず、僕は人影も尽きた駅前の電話ボックスに入った。

 相変わらず自信に満ちた亭主の声の後、彼女は照れくさそうに言った。

 ――ごめんなさい。もう済んだの。

 夫婦だけの家を持つことにしたらしい。

 嬉しさを隠そうともしない、そんな無邪気な身勝手さもまた、僕の好むところだった。

 すべては丸くおさまったのだ。

 僕は奇妙に軽い気持ちで、電話ボックスを出た。

 もう思い悩むことは何もない。

 いつも五分は待たなければ渡れない、深夜トラック天国の国道も、僕は考えもなく楽々と渡りきった。



          ◎



 部屋に帰ってパジャマに着替え、にこにこと米沢牛をかじる。

 やがて、猫の声が聞こえた。

 機嫌良く窓を開けると、今夜はこの部屋ではなく、隣のアパートに上がりこんでいた。

 向かいの若夫婦は、相変わらず仲睦まじく、茶卓を挟んで談笑している。

 いつか隣の管理人に、あの夫婦は事故で亡くなったと聞いたような気がしたが、それはどこか別の部屋の話だったのだろう。

 猫は、茶卓のまんなかで置物のように座りこみ、何か言っては笑いあう夫婦の顔を、かわるがわる、食い入るように見つめている。

 そのとき僕は、隣の部屋の電灯が、点いていないのに気がついた。

 同時に、自分がまだこの部屋の電気を点けていないことにも気がついた。

 国道の方角から、なにやら人の騒ぐ声が聞こえる。

 サイレンの音が、遠く、かすかに響きはじめる。

 僕の耳に、昔、彼女が寝物語に聞かせてくれた、猫の話が蘇った。


 ――ほら、猫って、ときどき、何もない暗いところを、じっと見てることがあるでしょう? あれはね、死んだ人を見てるんですって。


 妙なことを思い出してしまったな、そう思ったとき、猫はおもむろにこちらを向いた。

 そして僕の瞳を覗きこみ、親しげに、にゃあ、と鳴いた。



                         【終】


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