道徳的な釣り人
河童
とある堤防で
町の港から出るフェリーに揺られること20分、青い海に浮かぶ夏の大島が見える。数年前にそれまで禁止されていた釣りが解禁されたことを理由に、ここらでは有名な釣り場になった。僕は堤防の中程に今日の釣り場所を決めたが、隣には先客がいた。
サングラスをかけたおじさんが釣り竿を握って遠くを見ていた。歳は四十半ばといったところだろうか。クーラーボックスに腰かけて、仕掛けを投げた方角を見つめてはいる。が、そのサングラスの奥から見つめる視線はそのもっと向こう、水平線の向こう側にあるようだった。
「ここは釣れないよ。魚がいない。今日は帰ったほうがいい」
僕はドキリとした。ずっと無言だったおじさんが急に話しかけてきたのだ。
彼がどうしてそんな言葉を放ったのかわからなかった。一人で釣りがしたいのか? しかし、邪魔になるようなことをしたわけではないだろうし、隣といっても距離は十分離れている。
僕は何か言い返さなければいけないような気がした。
「じゃあ、どうしてあなたはここで釣りをしているのですか?」
「私は魚が釣れなくてもいいんだよ」
ますますわからなくなった。釣りをしているのに釣れなくてもいいとはどういうことだろうか? 僕はこれ以上考えても埒が明かないだろうと思い、堤防に腰を下ろした。
僕は場所を変えずに釣りの準備を始める。手を動かしながら、僕は彼の様子を伺った。こちらが言われたことを無視して釣りをしようとしていることはわかっているだろうけど、彼の視線は水平線から動かない。
一時間ほど粘ってみたが、これといった成果は上げられなかった。それはおじさんも同じで、僕らはずっと無言で海を眺める時間が続いた。彼はあれ以降、僕に対して何も言わなかった。
「君はこの島についてどう思う?」
彼はやはり海を見たまま、またも唐突に沈黙を破ってきた。一応周りを確認するが誰もいないので、話しかけられているのは僕なのだろう。
「どういうことですか?」
僕は質問の意図がよく分からなかった。彼は少し考えた後、「この島で釣りをしていて何かおかしいと思うことはなかったか?」と言った。
それでもよく分からなかったので、「特には」と答えた。彼は腕を組んで空を見上げる。
「ここの海とか、空気とか、釣れる魚は普通か?」
「普通だと思います」
「そうか……。ああ、悪かったな。何でもないんだ」
おじさんが何を考えているのか、僕には見当もつかなかった。僕らが釣りをしている大島は釣り人の中では有名な釣り場で、何か特別な場所だというようなことは聞いたことがなかった。強いて言えば、こんな田舎なのにそれに似合わないほど大きな港があることぐらいだろうか。ときどき、とても大きな船が停泊していることがある。
おじさんのことについて考えていると、彼は海に投げ入れた仕掛けを回収して立ち上がった。水汲みバケツにたまった海水を捨てて、クーラーボックスとロッドケースを手に提げて歩き出す。
「私はもう少し向こうで釣ってくるよ」
彼は僕の後ろを通り過ぎようとしたときそう言った。
「僕が来る前に何か釣れたのですか?」
僕はクーラーボックスを持つ彼の手が緊張しているのを見逃さなかった。あの中にはとても重いものが入っているように見えたのだ。彼はまた何かを考えるような仕草を見せた。
「ああ、まあね」
「見せてもらってもいいですか?」
「……悪いが、それは出来ないんだ」
おじさんはそう言うと、再び歩き出した。
「明日はこの島以外の釣り場に行くといいよ」
彼は背中を向けたまま、僕にそう伝えた。
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