第21話 先生とハグがしたい
放課後の部活の時間、龍人がいつものようにパソコンでカタカタとネットサーフィンをしていた。龍人曰く、プランナーにはインプットの能力も必要だのこと。
「へー。おい、ミコト。ハグすると幸せホルモンが分泌されてストレス低減効果があるらしいぞ」
龍人がネットで見つけた記事で得た情報をミコトに伝えた。龍人はこういった、ネットで見つけた信ぴょう性があるのかどうかわからない情報が好きなのである。
「なんだよいきなり。ハグする相手もいなければ、ストレスも大して溜まってないぞ」
ハグする相手がいないというのは嘘である。ミコトの立場ならば、明菜に頼めばハグはしてくれるのである。
「ああ。俺も可愛い女子とハグしてえな」
龍人が頭の後ろで手を組み、椅子の背もたれによりかかる。椅子がミシィという音を立てる。
「彼女作ってやってもらえばいいじゃない」
絵麻がミコトと龍人の会話に入ってきた。
「それができたら苦労しないんだよな。あーあ。どこかに可愛い女子いないかな」
「それ、女子の私を前にして言うセリフなの?」
絵麻は龍人のデリカシーの欠片もない発言に少しカチンと来た。
「藤林は……ほら、女子っていうより、仲間って感じだからさ。性的な目で見れないんだよ」
「なにそれ。別に性的な目で見られたいわけじゃないけど、ムカつく」
エマのペンタブを握る握力が強くなる。
「龍人。一言余計だよ」
「へーい」
ミコトの言うことを素直に聞きいれる龍人。
この一連の会話の流れも終了して、各々がまた作業に戻る。その時だった。ミコトのパソコンがエラーを吐いて画面がフリーズしてしまった。
「げ、フリーズだ」
ミコトのパソコンが不意に固まってしまった。そして数秒後に、パソコンがぷつっと切れて再起動を始めた。
「おいおいマジかよ……」
ミコトは頭を抱えた。ミコトが長い長いコードを記述している時に起こった出来事だ。残念ながらミコトはこの作業を保存していない。コーディングのノリがいい時には、保存を忘れるのはミコトの悪い癖であった。
「うわ、今日の作業が全部パーだ」
ミコトはそれでも挫けなかった。今日の作業が全部徒労に終わるなんてことは、プログラマーにはよくある出来事なのだ。これくらいで挫けていては、プログラマーとしてやっていけないのだ。
しかし、ミコトは次の瞬間絶望することになる。立ち上がった画面。それはパソコンのエラー画面だった。ミコトはその場面を見て顔が真っ青になった。
「あ、ありえない……」
「どうした? ミコト」
「ハードディスクのデータがぶっ壊れた。今までの作業が全部パーだ」
「な、なんだって!」
「うぅ……くそ。最後にバックアップ取ったのいつだったかな。確か1週間前か? うわ、あれ重大なバグを修正する前のデータだ。またバグ取りしなきゃならないのか」
1週間前分の作業が全部台無しになった。流石にこれにはミコトもダメージを受けた。結局のところ、これはバックアップを怠った自分が招いた因果である。いつ、事故が起きてもいいように備えておく。痛みで経験して覚えないと中々身に付かないものである。
自分が悪いってことがわかっているからこそ、誰にも八つ当たりできないミコトのストレスが溜まっていく。1週間前のバックアップがあったから、まだ軽傷で済んだとポジティブに捉える。もし、バックアップを全くしてなかったら数ヶ月単位でやり直さなければならなかった。それに比べればマシだと自分に言い聞かせても、やはりショックなことはショックだ。
ミコトは結局、遅くまで残ってパソコン室に居残っていた。龍人と絵麻はさっさと帰ったが、最終下校時刻ギリギリまで粘っていた。
今日、発生した事故による遅れを取り戻さなければ、そういう思いでミコトは必死でがんばった。
「今日はここまでにしておくか」
ガラっとパソコン室の扉が開いた。中に入ってきたのは明菜だった。
「なんだ。宮垣が残っていたのか。パソコン室のカギがこの時間帯まで帰ってこないのは珍しくてな。ちょっと様子を見に来たんだ」
ミコトは明菜の姿を見てある考えがよぎった。龍人が言っていたハグによる効能。幸せホルモンを分泌して、ストレスを低減する効果がある。もし、その効果があるなら……今のストレスを感じている自分に効果があるのではないか。
「蜂谷先生。あの、すみません。ハグしてくれませんか?」
「は!? ハグだと!」
明菜は驚いた。まさかこの状況でハグを要求されるとは思っていなかったからだ。明菜もミコトも日本生まれの日本育ちの日本人である。諸外国にあるハグの文化というものはない。日本人には馴染みのない濃厚接触行為に明菜は戸惑いを隠せない。
「あ、い、いや。その、別に宮垣が嫌いとかそういうわけじゃないけど……ハグはちょっと……」
「先生……僕、ちょっと今日辛いことがあって」
明菜はミコトの暗くなっている表情を見て、色々と察した。ミコトは今、癒しを求めているんだと。明菜も教師になった時は生徒に寄り添える先生になりたいと思っていた。思春期特有の悩みを抱えている生徒に対して、その苦しみを少しでも緩和してあげられる存在になりたいと。
恥ずかしがっている場合ではない。ミコトが今、自分を求めてくれている。明菜は決心した。
「わかった。宮垣……そ、その。正面からは流石に恥ずかしいから、後ろから抱き着く感じでいいか?」
明菜は頬を赤らめながらそう言った。明菜自身、ミコトをかなり意識している存在であるから正面から抱き合ったら、明菜は恥ずかしすぎて死んでしまう。嫌いな相手ならハグはしたくないし、意識しすぎている相手だとハグをするのは恥ずかしい。なんとも難しい心境である。
「わかりました。それで我慢します」
ミコトは椅子から立ち上がり、明菜の方に歩いていく。ミコトが近づく度に明菜の緊張感が高まっていく。
ミコトは明菜の前で振り返り、背中を見せる。改めて見る男子の背中。明菜は成長途中のミコトの背中から、微かな頼もしさを感じ取った。完全に成熟しきってはいないけれど、かと言って頼りないわけではない。そう言ったアンバランスさを感じ取れるこの年代の男子特有の魅力のようなものを堪能した。
「じゃ、じゃあいくぞ」
「はい」
明菜はそっとミコトに抱き着いた。まずは明菜の出っ張っている部分である胸が触れる。ミコトの背中にむにゅっとした何かが当たる。服越し、ブラ越しではあるが明らかに胸だとわかるそれ。明菜が更に密着することでそれが押しつぶされる。
明菜の腹面もミコトに密着する。ミコトは明菜の体温、気配、鼓動、匂いを後ろから感じ取った。その感触は想像以上に凄まじいものでミコトの脳内からホルモンがドバドバと分泌される。
最初は龍人の話を小馬鹿にしながら聞いていたミコトだったけれど、実際に明菜と密着してみて、頭が真っ白になるくらいに幸せな感覚に包まれた。
一方で明菜もミコトとくっついていることで胸のトキメキがどんどん加速していくのを感じている。幸せを感じている。けれど、どこか切なくて苦しい。なにか、大きい存在にしがみ付きたい。そういう思いが明菜の中に芽生えた。明菜はそのまま特に意識することなく、背後から手をまわしてミコトに抱き着いた。
ぎゅっとミコトにしがみ付いていると安心する。まるで童心に帰ったかのような感覚だ。抱き着かれているミコトも憧れの明菜に抱きしめられて、頭の中にたまっていた白いもやのようなものが全身に回っていく感覚に襲われる。
2人共、これまで感じたことのない幸せな気分に浸ってしまう。このままこれを続けていたら、もう戻れないところまで行ってしまう。理性が吹っ飛んで、お互いを求めあうのが止まらなくなる。そんな気がした。
不意に学校のチャイムが鳴る。最終下校時刻手前を知らせる鐘だ。その音に明菜とミコトは正気に戻った。明菜はゆっくりとミコトから手を離して、体を離した。
正直言えば名残惜しい。だけれど、このまま続けたら確実にハマってはいけない沼にハマってしまうような気がした。
「あ、あはは。た、たまには悪くないもんだな。ハグも」
「そ、そうですね」
2人は目を合わせることができなかった。伏し目がちでお互いの顔もまともに見られない。下校時刻が迫っているということで、ミコトと明菜は一緒にパソコン室を後にした。お互い無言のまま、職員室へと向かい、パソコン室の鍵を返した。後に、2人はそれぞれ自分の家へと帰宅した。
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