空に走る

野森ちえこ

本編 太陽と雨と

 おれがツカサの世界に引きずりこまれたのは、高校一年生のときだった。


 ツカサは天野あまのつかさ、おれは仲尾なかおつむぐというのだけど、当時はツカサとツムグでツーツーコンビとか、意味のわからない呼ばれかたをしていた。


 おれがコンビなんておこがましい。よくてサポーターだ。

 才能とか天才とか、言葉にしたとたん陳腐になってしまうから、あまりつかいたくはないのだが、そうとしかいえない人間はたしかにいる。

 ツカサも、そういうたぐいの人間だった。



 ✴



 音楽、演劇、映像――世の中には、たくさんの芸術、無数の表現手段がある。


 プロを目指すにしろ趣味にしろ、たいていはメインをひとつえらぶものだ。そこからさらにこまかく選択していくことになる。

 たとえば音楽をえらんだとして、クラシックなのかロックなのか、楽器はなにをえらぶのか、それとも歌で勝負するのか。自分の好みや適性などで枝わかれしていく。


 しかし、ツカサは枠にこだわらなかった。ジャンルにもこだわらなかった。よくいえば自由。悪くいえば無節操。時代劇にロックを。おとぎ話とヒップホップを。自分のイメージに必要だと思えば、どんなものでもとりこむし、融合させる。それが天野詞という人間だった。そして、男にしてはかわいらしい見た目に反して、一度こうだと思ったらけっして妥協しない、頑固で激しい人間でもあった。


 ただツカサ自身は、イメージをもとにシナリオや絵コンテはつくれるのだけど、それを具現化する『演者』にはなれなかった。

 だからそのときどきで、必要な人間を集めることになるのだが――問題は、やつの要求にこたえられるだけの力を持った人間がなかなかいなかったということである。

 金もない無名の若造が、すでに第一線で活躍しているような人間を呼べるはずもなく、手近なところから探してくるしかないのだから、当然といえば当然だ。

 発表の場にしても、どうしたって路上とか動画サイトが多くなる。ギャラも出ないのに長時間拘束されるし、プロへの道がひらけるわけでもないのに、高いレベルを要求される。出演者にとってはうまみがほとんどないわけで、よほどの暇人か、よほどの物好きしか集まってこなかった。


 高校の同級生だったおれはといえば、カメラマンとして声をかけられた。きっかけは、一年生のときの文化祭。写真部の展示写真だった。


 ――すごいな、これ! 町が生きてる!


 それが、写真を見たツカサの第一声だった。


 特別なものではない。雨あがりの一瞬を切りとった写真だった。水滴が太陽に反射していただけなのだが、町そのものが光っているように見えて、夢中でシャッターを切ったのだ。


 ツカサは雨が好きなのだといった。

 雨が降ると、いつも見ている景色のいつもとはちがった表情が見えてたのしいのだと、男にしておくのはもったいないようなかわいらしい顔で、キラキラと瞳を輝かせていた。


 写真をほめられて悪い気はしなかったものの、最初はそこまで乗り気ではなかった。それがどうしたわけか、気がついたら自発的に映像の勉強もしていたのだから、我ながらなかなかの物好きである。

 どうにかあいつの世界をカタチにしてやりたい。一緒にいるうちに、自然とそんなふうに思うようになっていたのだ。


 しかし、出演してくれる人間がいなければどうにもならず、カタチにならないままお蔵入りになったアイデアは数知れず。そんな高校生活をおえてしばらく。大学一年生の初夏のことだった。あいつがアオイをみつけてきたのは。


 ――ツム! みつけた! みつけたよ! あの子はおれのミューズだ。


 そのときはツカサがあまりにもうれしそうだったからツッコミそこねたけれど、ミューズとか、現実であんなセリフをいう人間がいるとは思っていなかった。

 

 だが、そのミューズとやらに実際会ってみれば、ツカサが興奮するのもわかるような気がした。

 人材を物色するためにのぞきにいった演劇サークルでみつけたらしいのだが、いっけん地味な彼女は、ツカサのイメージを的確にとりこんで、より豊かにアウトプットしてみせた。聖女にも娼婦にも、少女にも老婆にも化けられる。

 あおい日向ひなたは、そんなたぐいまれな能力を持った人間だった。


 年齢も学年もおれたちとおなじだった彼女は、表現者になりたいのだといった。女優でも俳優でも役者でもなく、また歌手でもダンサーでもなく、『表現者』になりたいのだと。


 ツカサとアオイ。

 徹底的に表現にこだわる、本物のコンビが誕生した瞬間だった。


 そして、アオイが加わったことで、演劇サークルのメンバーもコンスタントに協力してくれるようになったのは思わぬ収穫だった。



 ✴



 ――アオイを見てると、言語化できない言葉が無限にあふれてきて、おれはいつも溺れそうになる。ひとつでも多くひろいあげようって必死になる。こんな感覚、あいつに会うまで知らなかった。


 ツカサはよくそういっていたけれど、おれの中には、つねにふたりで走っていたようなイメージがある。

 抜いたり抜かれたり、競っているようで、お互いの能力を引きだしあっている。

 もっといえば、それぞれが無茶しすぎてつぶれないように相手のペースをつくる――マラソン競技などでいう、ペースメーカーのような関係にも思えた。


 親友のような、兄妹きょうだいのような、夫婦のような。

 あいつらを見ていると、いわゆる魂の双子というものが、ほんとうに存在するのではないかと思えた。


 でも、というか、だからこそ、というか。衝突するとけっこう大変なことになった。たいてい、よりよい作品をつくろうとするがゆえの衝突なのだけど、どちらも我が強いために一歩も引かないし、お互いを理解しているぶん、すべてが急所攻撃になるのだ。血みどろのバトルである。もちろん比喩だけども。

 最終的に泣かされるのは、だいたいツカサのほうだった。そしてそんなとき、いじけるツカサにつきあわされるのは、いつもおれだった。

 アオイはアオイで隠れて落ちこんでいたりするから、こちらのフォローにも走ることになる。

 損な役まわりだと思うこともたまにあったけれど、それも含めてたのしんでいたような気がする。

 あいつらは、化け物だ。

 才能がものをいう世界で勝負できる、えらばれた人間だ。そのふたりのあいだでおれにできることといえば、せいぜいが緩衝材になるくらいだった。そしてそのポジションが、おれはキライじゃなかった。


 なのに。


 大学二年生の春休み。ツカサから、アオイには内緒で大切な話があると呼びだされたのは病院――がんセンターの病室だった。


 軽く転倒しただけで骨折。検査してみれば骨のがんで、もう手のほどこしようがないくらいに転移、進行しているみたいだと、ツカサは他人ごとのようにいった。

 痛みだってあっただろうに、なんでもっとはやく病院に行かなかったんだと、そんなところでがまん強さを発揮してどうするんだと、悲鳴のような言葉をぶつけたおれに、あいつは一生のお願いだと頭をさげた。


 ――たのむ。アオイには黙っててくれ。


 怖いのだと、ツカサはいった。


 ――なんだろうな。理由はいろいろ浮かぶんだ。あいつの気持ちを乱したくないとか、弱っていく姿を見せたくないとか。どれもそのとおりのような気もするし、ちがうような気もする。自分でもわからない。なんなんだろう。ただ、知られたくない。知られるのが、たまらなく怖い。


 ツカサは今にも泣きだしそうな、見知らぬ町にほうりだされた子どもみたいな顔をしていた。

 あんな顔で懇願されたらもう、うなずくほかなかった。



 足を骨折してツカサが入院した。

 見舞いに行くひまがあるなら、そのぶん稽古しとけ。

 アオイには、そう伝えた。



 ✴



 ツカサ不在のまま三年生になってしばらく。空は雲におおわれ、近く梅雨入りが発表されそうな天気がつづいていた。


 病気のことを知らされて以来、ツカサとは数日に一度はスマホやパソコンでやりとりしていたのだけど、お見舞いにはこないでくれときっぱり拒絶されていた。記憶の中でくらい元気な姿でいさせてほしいといわれ、おれは、引きさがってしまったのだ。


 そして――


 その日も朝から静かな雨が町を濡らしていた。

 大学に向かう道すがら、植栽の葉の上をすべり落ちていくこまかな水滴を見て、そういえばツカサは雨が好きだといっていたなと、考えるともなく考えていたことを、やけに鮮明におぼえている。


 やつの訃報がおれのスマホに届いたのは、そのわずか数時間後のことだった。


 周囲の音が消えるという感覚を、おれは生まれてはじめて経験した。

 昼休みの学食で、アオイも一緒にいたのだけど、彼女にとっては寝耳に水だったろう。当然だ。病気のことを聞いてから約三か月。ちょっと厄介な骨の折れかたをしていて、リハビリにも時間がかかっているらしいと、そうごまかしていたのはおれなのだから。

 それでも、アオイはおれのようすから冗談ではないのだと察したようだった。相当ひどい顔色をしていたのではないかと思う。


 たった、二十一年だ。

 なんで、ツカサだったんだろう。

 毎日だらだらと時間を消費している連中がいくらでもいるのに。

 なんで、よりによってあいつがえらばれてしまったんだろう。


 おれはたぶん、信じていなかったのだ。いや、ある意味信じていたのか。『なんか知らんけど治ったー』とかいいながら、けろっとした顔で戻ってくるのではないかと、あいつが死ぬわけがないと、心のどこかでそう思っていた。


 どうして、あのとき引きさがってしまったのだろう。拒絶されようが怒られようが、会いに行けばよかった。もっとたくさん話せばよかった。なにをあきらめてんだと怒ればよかった。

 あとからあとからこみあげてくる後悔は、数えだしたらきりがない。

 ある程度心の準備ができていたはずのおれですら、後悔と自責に押しつぶされそうだった。アオイが受けた衝撃はどれほどのものだったか。


 駆けつけた通夜の席で対面したツカサは、きれいな顔をしていた。やりきったような、おだやかな表情だった。もう息をしていないなんて、嘘みたいだった。そして、それを見たアオイの顔からは表情という表情、感情という感情がごっそり抜け落ちた。

 なぜ黙っていたんだと責めてくれたならまだよかったのに。

 それもできないほど、アオイはショックを受けていた。



 ✴



 あの日以来、アオイの顔からは感情が消えたままだ。そろそろ二か月になる。話しかければふつうに受けこたえするし、いっけん笑っているようにも見える。

 でも、ちがう。まる二年以上、ずっと見てきたからわかる。光を失った目はなにも映していない。今のアオイは演技すらできていない。温度のない仮面をはりつけているだけだ。もしツカサが見たら激怒しそうな薄っぺらさだった。


 もっとも、そうなってしまったのは、ほかでもないツカサのせいだ。そして、おれにも責任がある。


 おれはふたつ、ツカサから大きなあずかりものをしていた。

 アオイ宛ての手紙がそのひとつだ。

 もしアオイがダメになりそうだと思ったら渡してくれと、短いメモとともに郵送されてきたのだ。


 四十九日もすぎて、大学も夏休みにはいっている。これ以上待っても、回復する可能性は低いように思えた。むしろ休みのあいだに、よりふさぎこんでしまうかもしれない。そう判断したおれはこの日、大学の中庭にアオイを呼びだした。

 大学をえらんだことに特に意味はない。少々暑いが、おれとアオイの住まいの中間地点にあるので、待ちあわせには都合がよかったのである。



 ✴



 おれが差しだした手紙を、アオイはおっかなびっくり受けとった。ふれた瞬間消えてしまうのではないかというように、そろそろと、呼吸すら止めていたのではないかと思う。


 薄曇りの午後。中庭を囲むように設置されたベンチのひとつに浅く腰かけ、アオイはじっと便箋の文字に視線を落としている。となりにこっそりと腰をおろしたおれも息をひそめていた。

 空気を読まないセミたちは、ミンミン、ジージーやかましい。


 やがて、アオイは低くうなるような声をだした。手紙を持つ手がぷるぷるとふるえている。


「むかつく」

「え」

「むかつく……!」


 バシンと、アオイはおれの胸に手紙を叩きつけた。地味に痛い。


「え、読んでいいのか?」

「知らないっ!」

「ええ」


 とりあえず、しわくちゃになった手紙をやぶかないように、そっと膝の上に広げてしわを伸ばす。


 すげーなと思う。


 たった便箋一枚の言葉で、ツカサはアオイに感情をとり戻させた。


 言葉どおり、アオイは怒っていた。プリプリと、目を真っ赤にして。それからすっくとベンチから立ちあがると、空をにらみつけた。と思ったら、いきなり空に罵声をあびせはじめた。


「ツカサのバカあー! アホおー! 意気地なしいー!」


 さすがの腹式呼吸である。よく響く。

 タイミング悪くとおりかかった、おそらく学生だろう若い男がギョッと振り返った。そそくさと逃げるように走り去る。

 ごめんよと心の中でわびつつも、アオイを咎める気にはなれなかった。

 その目からは、ボロボロと涙がこぼれている。

 やっと、泣けたのだ。

 ツカサが死んでから、アオイはたぶんはじめて、涙を流せた。


 アオイの罵声のせいではあるまいが、先ほどまで空をおおっていた雲がわれて太陽が顔をのぞかせた。どうやら上空は風が強いらしい。目に見えて雲が流れていく。


 ふたたびツカサに文句をいってやるつもりなのか、アオイがすうーっと息を吸いこんだとき。

 ぱらぱらと、青い空から水滴が落ちてきた。


 天気雨だ。


 大粒の水に太陽が反射して、まぶしいほどに視界がキラキラときらめく。


「ツム! 撮って!」


 アオイはハッと我に返ったようにそういって、勢いよく中庭に駆けだした。白と紺のバイカラーワンピースが風になびく。


 光が、降っていた。

 その粒を受けとめるように、アオイは両手を空に広げる。


 アオイにいわれるまでもなく、おれはほとんど無意識に専用バッグからカメラをとりだしていた。同時にツカサの手紙をバッグに避難させる。


 なんだよこれ。

 こんなの、反則だろう。


 ツカサと出会って以来、いつどこで『撮れ』といわれるかわからなかったものだから、いつしか出かけようとすると、手が勝手にカメラバッグをつかむようになっていた。

 今日だって、アオイに手紙を渡すだけのはずが、なにをわざわざ持ってきてんだよって内心苦笑していたのに。


 アオイではないが、つくづく憎たらしいやつだ。

 このタイミングでこんなことをするなんて、犯人はおまえしかいないだろう。ツカサ。


 もうひとつのあずかりもの。それはツカサの、ラストシナリオだ。息を引きとる数日まえ、パソコンにデータが送られてきた。

 内容は歌手を目指す女子大学生とバンドメンバーたちの交流を描いた青春ストーリーだったのだけど、その作中、天気雨、狐の嫁入り、日照り雨、いろんな呼びかたがあるその現象が要所要所で印象的につかわれていたのだ。

 そして、こんなメッセージがそえられていた。


 ――自然に撮るのはむずかしいかな。でも、おれたちの集大成にぴったりだと思うんだ。太陽と雨。そこに虹でもかかったら完璧だな。


 ――紡。いろいろありがとう。このシナリオをどうするかは、おまえらにまかせる。負担になるようなら、遠慮なく捨ててくれ。それと、これまでお蔵入りになったシナリオも、ぜんぶおまえの手に渡るよう手配してある。これも、煮るなり焼くなり捨てるなり、好きにしてくれ。


 ――葵のこと、たのむな。


「アオイー! 走れえー!」


 シナリオは、主人公の女の子が天気雨の中、空に向かって走っていくカットでおわっている。

 どうしてくれんだよ。

 アオイ以外の役者もスタッフも、まだなにもきまってないのに。

 アオイにしたって、まだシナリオのことは知らないはずなのに。

 ラストシーン、撮れちまったじゃねえか。


 キラキラと降ってくる光の粒。


 ボロボロと涙をこぼしながら、アオイは笑っていた。

 はじけるように、空に向かって。

 両手を広げて、たのしそうに。

 身体からだぜんぶをつかって、広々とした中庭を目一杯走っている。風になびく白と紺のワンピースが空にとけていくようだ。


 遠く澄んだ青空に、大きな虹が見えた。



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