[11-3]王女、告白する

 目からあふれた涙が頬を滑っていくのが分かった。

 慌てて指先で拭っていると、キリアにそっと声をかけられる。


「姫様、大丈夫?」


 穏やかな低い声と同時に差し出されたのは、シワひとつないハンカチだった。

 紺色の刺繍があしらわれた、触り心地のいい絹の生地。


 受け取ってそのまままぶたに押し当てる。


「ありがと、キリア」

「どういたしまして」


 そっと目を開けると、だいぶ視界が良好になっていた。

 顔を上げた途端キリアの目とばっちり合って、一気に恥ずかしくなった。

 うう、耳まで熱いかも……。


「さて、儀式をするからクロの遺体のある場所まで案内してくれないか」


 俯いていたら、不意に青藍が言った。父さまに話しかけてるみたい。

 もう一度顔を上げて父さまを見ると、笑顔で頷いていた。


「ああ、よろしく頼むよ。辛いかもしれないが、クローディアスも付いて来てくれないかな」

「分かりました」

「陛下、ロディ様はいかがいたしましょう?」

「彼にはしばらく服役してもらうことになる。きみ、ひとまず牢に戻してくれないか?」

「かしこまりました」


 とんとん拍子に会話が進んでいって、父さまと青藍とクロに続いて、ロディ兄さまと兵士たちまでいなくなってしまった。

 シンと部屋の中か静まり返る。

 よく考えれば、今、応接間にいるのはわたしとキリアだけだわ。


 ということは、わたしたち、今この部屋で二人きりってこと……?


 どうしよう。

 緊張してきちゃった!


「姫様、部屋まで送るよ」


 キリアってば、相変わらずクールだわ。

 顔色ひとつ変えずに、さらりとわたしの手を取って歩き始めちゃった。


 まあ、応接間にはもう用がないし、さっさと部屋に戻るのは自然な流れなのだけれど。


 このままだと、いつもと変わらないまま。

 なにか行動を起こさないといけないわ。






 久しぶりに二人だけだというのに、わたしは何も話せなかった。

 思いつく話題は他愛のないものばかりで、嫌になっちゃう。

 今度キリアに会ったら、絶対に伝えたいことがあったはずなのに……。


「よく思いついたね。青藍の力で、墓守犬とクローディアスを元に戻せるなんて」


 突然キリアが話しかけてくれた。

 反応がちょっとだけ遅れて、思わず立ち止まる。


「あ、ああ、そのことね! リシャさんとシロちゃんも元に戻せたから、同じことをクロにもできるんじゃないかって思ったの。チャーチグリムだって魔物だし」


 胸がドキドキする。

 でも大丈夫。なんとか気持ちを落ち着けるわ。


 止めていた足を踏み出して、再び歩き始める。


 そうしたら、キリアはくすりと笑ったあと、こんなことを言い始めた。


「あいつ、いつか自分がいなくなるかもしれないから、俺に姫様のことを頼もうとしていたんだよ」

「え!?」


 クロってば、わたしがいないところでキリアにそんな話をしていたの!?

 どういうことなの? 青藍に協力をあおがなかったら、クロは何も言わずに姿を消そうとしていたのかしら。


「ふざけてるよね。自分が消える前提で話を進めるなんてさ。目の前で姫様が突き落とされた時はあんなにショックを受けてたくせに」


 たしかに、そうね。


 わたしはクロに消えて欲しくなかった。人間の騎士だった〝クローディアス〟に、どうしても帰ってきて欲しかったの。

 こうしてる今、青藍の力に頼って心からよかったと思ってる。


 だけど、キリアは?


 事件は解決して、わたしはお城に戻ってきた。

 国を取り戻すというわたしの目的は達成されて、もうキリアがそばにいるべき理由がなくなってる。

 騎士の誓いはまだ続いてるけど、クロがもうすぐ人間の騎士として戻ってくる。そうするとキリアはいつかわたしの前からいなくなってしまうかもしれない。


「クロにわたしのことを頼まれて、キリアは何て答えたの?」


 キリアはすぐに答えてくれなかった。

 しばらく沈黙が続いたあと、急に足を止める。


「……部屋についたよ。姫様」


 キリアの指がわたしの手から離れていく。

 さっきまで感じていたぬくもりが一緒に離れていって、急に不安になった。


 どうして、なにも答えてくれないのだろう。


 このまま部屋に入ってしまっていいのかな。

 今度はいつ会えるのだろう。今日ようやく、一週間ぶりに顔を合わせて話すことができたのに。


 きっとわたし、このままキリアと別れたら、一生後悔する。


「話があるの、キリア」

「——え?」


 勇気を奮い起こして、わたしはキリアの手首をぎゅっと握った。

 驚いたようにきょとんとする彼をまっすぐに見る。


「わたしの部屋に入って」 


 彼の返事は、もう待たなかった。

 大胆にもわたしはキリアの腕を引っ張って、彼を自分の部屋に連れ込んだのだった。






「姫様、話って?」


 予想外にも、キリアは部屋を出て行こうとはしなかった。


 部屋に鍵はかけてない。さすがのわたしも、そこまでするのは一国の姫としてどうかと思ったし……。

 男の人を部屋に招き入れること自体、わたしにとって大きなことだもの。


 瑠璃紺の両目がわたしをまっすぐ見てる。

 いざとなったら緊張してきちゃった。さっきから胸がドクンドクンと波打っててうるさいし、手まで震えてる。

 正直、答えを聞くのはこわい。

 だけど自分から行動しないことには、なにも始まらない。


 息を吸って吐く。


 うん、大丈夫。だいぶ気持ちが落ち着いてきた。

 いけるわ。


「キリア、わたし、あなたのことが好きなの」


 彼の瞳に、まっすぐ見つめるわたしが映ってる。

 胸の前で両手をぎゅっと握りしめて、わたしは続ける。


「優しい言葉をかけて安心させてくれる、思いやり深いところも、さみしさを抱えているところも。そして、苦しいことを自分一人で抱えているところも、全部好き。初めて会った時、力になってくれるって騎士の誓いを立ててくれた時から、ずっと好きなの。わたしはまだ十七年しか生きてなくて、きっとキリアから見たらまだまだ子どもなんだと思う。何とも思ってないってことも分かってる。でも、この気持ちは正直なわたしの気持ちだから」


 右手を差し出す。

 その手をキリアは一瞥したあと、もう一度わたしの顔を見る。


 すかさずわたしは、目を丸くする彼を見返して、ためらわずに言った。


「改めて交際を申し込むわ。キリア、わたしと付き合ってください」


 声が少しだけ震えてたけど、言った。ちゃんと言えたわ。

 返事を聞くのはこわい。でもちゃんと彼の答えを聞く覚悟は決まってる。


 瑠璃紺の両目が揺れている。やっぱりすぐに答えてはくれない。


 どうしよう、驚かせちゃったかしら。それとも困らせちゃった?

 返事はすぐじゃなくてもいいって言うべきだったかも。


「あのね、キリ——」


 焦って言い募ろうとしたわたしの言葉は、キリアに届かなかった。


 突然ぐいっと腕を引っ張られる。

 そのすぐあと、鼻をくすぐったのは柑橘系の香り。キリアがいつもつけている香水のにおい。

 顔を上げても彼の顔は見れなかったけど、背中に回された腕がぎゅっと力を込めるのがわかった。


 わたし、キリアに抱きしめられてる。


「俺と付き合うことがどういうことなのか、分かってる?」


 腕を緩めずに、低い声でキリアが尋ねてきた。

 わたしはこくんとうなずいて答える。


「王族であるきみに、俺は何もしてあげられない。吸血鬼である俺と一緒になったって子供は望めないし、肩書きも後ろ盾もないから、姫様が他の貴族達に後ろ指を刺されるかもしれない。それでも——」

「それでもいいの。だってわたしはキリアが好きなんだもの。ずっとそばにいて欲しいの」


 わたしが好きになったのは、手を差し伸べてくれたあなた。

 立場や肩書きなんて関係ない。ましてや種族なんて、わたしは気にしないわ。


「……子供のことは、まだ、わたしは考えられないけれど。でも、きっとみんなで考えればいい案が思いつくわ。父さまだって力になってくれるだろうし」


 顔が一気に熱くなる。

 王女として言うべきことじゃないのかもしれないけど、子供なんてまだ想像できない。


 今までだって問題にぶつかっても、解決する手立てが浮かばないことは何度もあった。

 でもその度に、誰かに知恵をもらって乗り越えてきたんだもの。

 あきらめなければ、どんな道だって進むことができるわ。


「本当に俺のものになってくれるの?」


 ふいに投げかけられた言葉は色っぽくて、どきりとした。

 キリアの服に触れて、もう一度うなずく。


「うん。キリアのものになりたいの」


 ぐっと、力強く抱きしめられた。

 耳もとで小さく、キリアがつぶやく。


「解った」


 うそ。これってわたしの告白が受け入れられたってこと?

 すごくうれしい。

 勇気を出して、ほんとうによかった。


 この時のわたしは浮かれていて、キリアのその言葉がどういう意味を持つのか分かっていなかった。


「姫様」


 少し腕を緩められる。


 顔を上げるとキリアの顔が近づいてきて、思わず目を閉じてしまった。

 唇に感じるやわらかい感触は初めてじゃない。

 初めてのキスはわたしからで、あの時は救命措置だったけれど……。


 あまり間を置かずに、キリアはもう一度唇を重ねてきた。


 二度目のキスは少し違った。

 唇の隙間から侵入してきたキリアの舌がわたしの舌を絡め取っていく。

 思わず身体が震えて、キリアの服を握りしめてる。


 なにこれ。わたしの知ってるキスと全然違う。


 少ししてから唇を離してくれたけど、頭がくらりとした。

 それでもキリアはわたしから離れようとはしない。


 ふと、ぷつんという音が聞こえた。

 丁寧に長い指先で、キリアがブラウスのボタンを外している。

 それをぼんやり眺めていたら、襟元をくつろげて脱がされる。右肩があらわになって、ひやりとした。


 なにをするつもりなのだろう。


 キリアはそれ以上、わたしを脱がさなかった。

 まるで宝物に触れるように、そっと首筋のあたりにキスをする。


 そして突然、プツッと牙を突き立てた。


 不思議と痛くなかった。噛まれたら誰だって痛いはずなのに。

 ますます頭がぼんやりとしてくる。まるでふわふわとした雲の上にいるみたい。

 目の前の景色が霞んでいく。


 ごくり、となにかを飲み下すような音が聞こえた。


「……甘い」


 聞いたことのないような、低く艶めいた声。

 ぞくりとなにかが背筋を走る。


 なのに、嫌ではなかった。

 もっと触ってほしい。愛して欲しいって思うわたしは、おかしくなっちゃったのかな。

 まるでいけないことをしてるみたい。


「キ、リア……?」

「これは印だよ。姫様が俺のものだっていう、所有印。同時に、俺が姫様のものだっていう契約の証でもあるけど」


 耳もとでささやかれる声がくすぐったい。


 所有印のことはよく分からないけど、契約なら分かる。

 わたしの気持ちに、キリアが答えてくれたってことだものね。


 するりと腕が離れていく。

 少し寂しく思っていたら、キリアは魔法語ルーンを唱えた。懐からハンカチを取り出して、そっと首筋に触れられる。

 真っ白だった布に赤い染みができていた。

 やっぱり血が出ていたのね。ということは、さっきキリアがわたしにしたことって……。


 試しに首筋に触ってみたけど、傷跡は残ってた。さっきの魔法は血を止めただけみたい。

 もしかして所有印って、この傷のことなのかな。


 キリアは乱れたブラウスをそっと着させてくれて、ボタンまでとめてくれた。

 着替えさせてもらうのには慣れてるけど、この時ばかりは恥ずかしかった。


 どういう顔をしていいのか分からなくて俯いていると、キリアはくすりと笑う。


「俺も姫様のことが、たぶん初めて会った時から、ずっと好きだった。想うことすら許されないんじゃないかと思って、事件が収束したら何も言わずに離れるつもりだったんだけどね」

「そんな! わたしはいやよ、キリア」


 やっぱり!

 わたしの心配は気のせいなんかじゃなかったんだわ。


 ぶんぶんと首を横に振ってすがると、キリアは腕をつかんだわたしの手にそっと自分の手を重ねてくれた。


「心配しないで、。もう一度誓いを立てるよ。俺はもうきみの前から逃げたりしないし、俺はこれからきみの助けになるって決めたから。このグラスリードでずっと一緒にいよう」


 うなずく前に、キリアの顔が迫ってきた。

 そっと目を閉じて、わたしは彼のキスを受け入れた。


 キリアはわたしの想いにこたえてくれた。

 それなら、二人で歩んでいける道を模索して見つけるわ。


 跡継ぎの問題、世界を牛耳る帝国の脅威。

 問題は山積みだけれど、きっと大丈夫だと思うの。

 だって、わたしはひとりじゃない。


 あきらめなければいつか、奇跡だって引き寄せることができるかもしれないわ。

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