[9-6]吸血鬼騎士は深夜に訪問される

 今でも鮮明に覚えている。


 自分は冥王竜だと名乗った男から、びしょぬれの少女を初めて受け取った、あの時。

 冷たい海の中へ落ちた彼女の身体はとても熱く、呼吸は浅くなっていた。

 ひと目で、このまま放っておくと命に関わる事態になると確信した。


 治療の役に立つならと譲ってくれた竜石を使って薬を作ったのだけど、大きな問題が起こった。

 問題はどうやって飲ませるか、だ。


 それに凍てつくような水でぬれた身体だって、一刻も早くあたためないと凍傷になってしまう。


 解決しなければいけない問題は山積みだった。


 着替えさせて暖炉に火を点け、部屋を温める。

 できる限りの手を尽くしたけど、グラスリードの王女だという彼女の手は冷えきったまま。

 このままだと本当に死んでしまう。


 仕方ない。ここは覚悟を決めよう。


「ごめん。後でいくらでも怒られてあげるから、悪く思わないでくれ」


 意識のない彼女に謝罪してから布団を剥ぎ、王女に着せた服を脱がした。

 次に自分のシャツのボタンを外し、俺は——。




 * * *




 突然の覚醒は、ひどく居心地の悪いものだった。しかし同時に、今となっては懐かしさも感じる。

 なんて夢を見ているんだ、俺は。


 起き上がって、考えを整理するために頭を振る。


 そうだ。あの時の俺は必死すぎて、姫様の命を繋げることにしか頭になかった。

 

 ひとつのベッドに同衾どうきんして肌を合わせでもしないと、氷みたいに冷え切ったあの細い身体を温めることなんて、できなかったんだ。

 意識が飛んでたせいで、姫様本人はその時のことを全く覚えていないようだったけど……。


 今でも、ふと思い出す。


 腕におさまった彼女の頬に赤みが戻ってきた時は、ホッとしたっけ。

 同時になぜか俺の方が恥ずかしくなった。

 腕にすっぽりおさまった姫様の身体は、少し力を入れたら折れそうなくらい華奢きゃしゃだった。なのに、やわらかくて——、って、俺は何考えてるんだ!


 一人の騎士として、姫様の命を守っただけのことだ。

 変なことをしていないし、彼女に手を出してもいない。


 誰に言い訳してるのか自分でも分からないけど、断じてやましいことなんて何一つしていないのだ。



 ——コンコン。



 と、突然ノックの音が聞こえてきた。


 時計を見ると、まだ真夜中だった。

 こんな夜更けに一体何の用なのか。姫様はたぶん、寝ているだろうし……。


「誰だい?」

『クロです』


 なんと夜更けの訪問者は犬だった。

 起き上がって、ドアの前で立ち止まり耳を澄ませる。

 いつも夜は姫様の部屋で見張りをしているのに、どうして今夜に限って離れたのか。呑気に俺の部屋に来ている場合じゃないだろ。


「こんな夜中に何の用だい?」

『どうしてもお話したいことがあるんです』


 こっちとしては話すことは何もないんだけどな。

 でもいつも礼儀正しい犬が、こんな夜に部屋を訪ねてまで話に来るってことは、大事な内容なのかもしれない。


 返事をせずに、俺は部屋のドアを開けて犬を入れてやることにした。


 声の感じで分かっていたけど、こんな狭い室内でも犬は獣の姿のままだ。

 ただでさえ仔牛並みに大きい身体なのに、家の中で動きにくくないのかな。


「ありがとうございます、キリア」


 もしかしたら心の声が聞こえてしまったのかもしれない。


 ペコリと頭を下げた途端に、黒い毛並みの姿が溶けた。

 瞬きひとつで大きな犬の姿から、彼は黒毛の耳と尻尾をもつ少年の姿へと変化する。


 人型になったのは、俺ときちんと顔を合わせて話をしたいってことだろうか。


「それで話って?」


 投げやり気味に尋ねてから、少し後悔する。

 もしかすると冷たく聞こえたかもしれない。


 でも犬の表情に変化はなかった。


 まっすぐな目を向けて、もう一度頭を下げる。


「キリア、すみませんでした。悪気はなかったんですけど、あなたを傷付けるようなことを言ってしまって。ちゃんと謝りたかったんです」


 傷付けるようなことって、あの時のことを言ってるのか?

 ファーレの森で休憩してた時、犬と少し言い争いになったっけ。


「別にもういいよ。気にしていないわけじゃないけど、きみも悪意を持ってたわけじゃないだろうし。気にしないようにするさ」


 グラスリードに吸血鬼の魔族がいないのなら、軽率な発言をしてしまったことにも合点がいく。

 大きな大陸から離れていて、おそらくどの国とも国交さえ結んでいない状態で、犬はイージス帝国やノーザン王国の情勢をある程度つかんでいた。普段から真面目に情報を集めていた証拠だ。


「正直言うと、俺はきみのことは苦手だけど、嫌いじゃないよ」


 いつまでも頭を上げないので、声をかけてあげると犬はバッと勢いよく姿勢を正した。

 いつも犬の姿だから疑問に思わなかったけど、人の姿だと見ていて面白いかもしれない。


「殺された身なのにロディにさえ怒りをぶつけないよね、きみは。墓守犬の姿になっても、姫様を守ることだけに集中していてぶれない姿勢は、尊敬に値すると思うよ」


 黒い瞳が驚いたようにぱちぱちと何度も瞬きする。

 こうして見ると、彼もまだ子どもみたいなところがあるな。

 無理もないか。よくよく聞いてみると、犬は姫様と年は同じで十七だったらしいし。


「えっと、ありがとうございます?」

「うん、褒めてるんだよ。だけどね、自分がいつかいなくなるだなんて、そんなことはもう話さないで欲しい。きみが殺されたと知った姫様がどれだけ傷付いていたのか、知らないだろう? 姫様はきみのことを大事に思ってる。自分の主君の気持ちをもう少し考えて欲しいな」

「……そう、ですね。すみませんでした」


 性格はもともと素直なんだろうな。

 俺が言ったことに少しも反論せずに、耳と尻尾をシュンと下げて項垂れている。

 

 まあ、俺としても素直な子は好きだし。いい加減、彼を犬呼ばわりするのも心が痛くなってきたな。

 ここは心を新たにして、俺も一人の仲間として彼を名前で呼ぶことにしよう。


 ——と、そう決意したのも束の間。


「でもキリア。姫様のお気持ちを考える点で言えば、あなたにも同じことが言えると思います!」


 真正面から反論してきやがった。


 やっぱり今のなし。

 こいつはこれからも犬のままでいい。


「どういうことだい?」

「ボクとしては、キリアには姫様のそばにいて欲しいんです。今日で氷の魔物が取り込んでいた王子、つまりシロとリシャールは元の身体に戻ったわけですよね?」

「まあ、そうだね。それがどうかしたのかい?」

「はい。冥王竜は言っていました。リシャールが人に戻るため、シロは魔物としてのほとんどの力を失ってしまった、と。彼女は氷のつぶてを飛ばす力を持つ、今は普通の少女です。ということは、同時にこのグラスリードに根付いていた永久凍土の呪いが解かれたのではないでしょうか?」


 反論できなかった。

 こいつはやっぱり、普段からちゃんと考えている。犬のくせに賢いやつだ。


 たしかに、そうだ。


 もともと冥王竜の目的は、氷の魔物をどうにかして呪いを解くことだった。

 シロとリシャールを元通りにすることで、かれはその課題を解決したんだな。


「これからのグラスリードにはきっと四季が訪れるようになります。もうすぐ、春がやってくる。するとどうなると思いますか?」


 瞬間、俺は息を飲んだ。


 珍しくつり上がった犬の黒い瞳が、俺をまっすぐに射抜く。

 こいつが何を言いたいのか分かってしまった。


 考えたくはないが考えなくてはいけない。震える唇を開いて、俺は答える。


「……グラスリードは精霊が多く生息するほどに自然が豊かな国だ。それに陸には光竜、海底には冥王竜の巣穴という資源もあるし、いにしえの竜による力の恩恵だって受けている。その上、春が来れば作物も育てやすくなるし、ますます国として豊かになるだろう。海という天然の要塞で隔てられているとはいえ、あの大帝国の皇帝が見逃すとは思えない」


 そうだ。皇帝が今までグラスリード国に目を向けていなかったのは、雪と氷で閉ざされていたからだ。

 危険を冒して攻めても、得られるものが何もないと考えていたからだった。


 けれど、グラスリードに春がやってくれば、事情は変化する。


 まったく皮肉なことだ。

 誰もが待ち望んだ春が訪れるようになったのに、また別の問題が浮上してくるのだから。


「ええ、そうなんです。今すぐにではないにしろ、いつかイージス帝国がグラスリードを狙ってくるでしょう。その時、ボクよりも姫様をお守りできるのは、やっぱりキリアだと思うんです」


 こいつが考え深い男だというのは分かった。

 だけど、どうしてこの犬は俺に対する評価がこんなにも高いんだ?


 いつまでも意識している俺が馬鹿みたいじゃないか。


「キリア」


 思わず顔を逸らしたら、語気を強めて名前を呼ばれた。

 犬の目を見返せば、痛いほどまっすぐに見つめられる。


「結局は身分の差なんて、国王陛下が認めてしまえば何とでもなるんですよ。グラスリードではそういうものなんです。陛下は心が広くてお優しい方です。精霊達を愛し、その精霊を自分から望んで伴侶に選んだ素晴らしいお方です。きっと姫様の命を救ったキリアのことだって、どんな過去を持っていようと悪いようにはしません。だから、身分とか吸血鬼のこととか、今は置いといて、ちゃんと姫様と向き合ってください」


 俺は拒否も肯定もしなかった。

 黙ったままでいると、真剣だった犬の表情が溶ける。


 揺らがなかった黒い瞳が潤み、彼は笑った。


 今にも泣き出しそうな顔だった。


「ボクはもう二度と、姫様をあんな辛くて苦しい目には遭わせたくないんです」


 拒否なんてできるはずがない。

 きっとこいつが心から願ってるのは、姫様のしあわせだけだ。


 かつて主君に使える喜びを感じていた俺が、彼の吐き出した切実な願いを跳ね除けることなんて、できるはずがなかったんだ。

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