[3-2]王女、狙われる

 誰も伴うこともせず、雪が降り始める中たった一人で傘もささず、ロディ兄さまは現れた。


 にっこりとした微笑みを浮かべる彼に、胸が痛くなる。

 まるで心臓を鷲掴みにされてるみたい。


「ただ海に突き落とすだけじゃあ、やっぱり死ななかったか。あのときのおまえは身体が結構弱ってたからいけると思ってたんだけど」


 くすりと笑う声が聞こえ、肩が震えた。

 なにがおかしいのか、そんなわたしを見て、ロディ兄さまはますます笑みを深くする。


「ティアをだから、せめて僕の手で葬ってやろうと思ったのに。さすが人魚マーメイドの子だ。生き残れたのは海の精霊たちによる加護のおかげなのかなあ。陛下も、おまえに関してはあまり心配してなかったみたいだし」

「と、父さまは無事なの!?」

「無事だよ? 地下で大人しくしてる。思ったより無抵抗でがっかりしたね。少しでも粘ってくれたら、面白いことになったんだけど」


 ゆっくりとした足取りで、近づいてくるロディ兄さまにわたしは身構える。

 今のところ、手ぶらで何の武器も持ってない。


「ねえ、ティア。陛下に会いたい?」


 にこりと笑って、ロディ兄さまが尋ねてきた。


「会いたいよ。会いたいに決まってるじゃない」

「じゃあ、会わせてあげようか」


 ぎしぎしと、歩を進めて距離を詰めてくる。

 わたしも思わず一歩、また一歩と近づく。


「姫様っ」


 そう小さく呼ぶ声が、遠くで聞こえた。


 だけど、その声さえも、父さまに会えるかもしれないという甘い誘惑の前には届かない。


 目の前には、優しげな微笑みを浮かべるロディ兄さま。前とちっとも変わっていない。

 もしかするとこの間彼の手によって海に突き落とされたのは、悪い夢だったんじゃないかと思ってしまうくらい。


 互いに距離が近づいた頃、ロディ兄さまはわたしに手を差し出した。

 今までと変わらず、彼に手を伸ばそうとした時。


 ロディ兄さまの懐から白い光がきらりと輝いた、ような気がした。


「姫様!!」


 耳に突き刺さるようなキリアの叫び声。

 同時に、ザッ――と鈍い音が耳をかすめる。


「キ、リア……?」


 気がつくと、わたしはキリアの腕の中にいた。

 そしてかすかに匂う血のにおい。


 視線をめぐらせると、キリアの腕が傷つき、赤く染まっていた。


 腕を伝って落ちた血は足もとの白い雪に染みこんでいく。


「――ちっ、テレポートか。おまえどこの魔族だ!?」

「それを、おまえに答える義務はない」


 いつもより低い声で、キリアはロディ兄さまにそう言った。

 どんな顔をしていたのか見ることはできない。


 それに、今はロディ兄さまのことを気にしている場合じゃない!


「キリア、怪我してる! ごめんなさい、わたしのせいで」

「姫様のせいじゃないよ。……でも、そうだね。無防備に彼に近づいたのは軽率だったかな」


 血が出るくらい痛いはずなのに、キリアはわたしの視線に会わせて屈んでくれた。


 申し訳なさと自分の浅はかさに腹が立って、どうしようもなく泣けてくる。


「姫様と彼――ロディがどんな関係だったのかは俺は知らない。だけど、彼は二度もきみを殺そうとした。辛いだろうけど、もう彼は姫様が知る優しい従兄ではないとちゃんと認識した方がいい」

「……うん」


 しっかり頷いて答えると、キリアはぽんぽんと頭を撫でてくれた。

 そしてわたしを庇うように前に出て、早口で魔法語ルーンを唱える。

 魔法は無事に発動したみたいで、白い光がキリアの腕を包み込む。傷が治っていく様子を見てる限り、彼が使ったのは回復魔法だろう。


「姫様は下がってて。大丈夫、きみのことは俺が必ず守るから」


 別の意味で心臓が高鳴ってきた。

 ポケットからハンカチを取り出して、わたしは目元の涙を拭う。


 こんな大変な時だけど、目の前にはロディ兄さまだっている。

いつもならこわくてたまらないというのに、どうしてキリアをこんなにカッコいいと思えるんだろう。


 前を進んでいく大きな背中。

 ベルトに提げていた鞘から剣を抜き、キリアはロディ兄さまに近づいていく。


 そういえば、キリアは剣も得意なのかな。医療鞄を持ってたし看病してくれたから、てっきりお医者さんだと思っていたのだけど。

 でも初めて会った時、彼は騎士のようにわたしに剣を捧げると誓いを交わしてくれた。本来の職業は剣士だったのかもしれない。


 近づいてくるキリアに、ロディ兄さまも顔に警戒の色をにじませて始める。

 抜き身の短刀を放り投げて、ロングソードを抜き放った、その瞬間――。


 不意に、ロディ兄さまが真っ先に膝をついた。


「えっ、なんで……?」


 キリアは何もしていない。まだ剣を交わしてさえいないというのに。


「貴様、吸血鬼ヴァンパイアの魔族か!?」


 焦ったような声に、キリアの笑い声が重なる。


「そうだよ。ロディ、おまえのことは調べさせてもらった。おまえは魔獣系――人狼の魔族なんだってね。同じ魔族とはいえ、あいにく獣に対して吸血鬼の金縛りはよく効くんだ」


 そうだ、金縛り!

 吸血鬼の魔族は目に魔力があって、ひと睨みするだけで相手を動けなくさせるチカラがあるって聞いたことがある。


「さっき、おまえは俺達に〝必要ない〟と言ったね。あれはどういう意味かな?」


 ゆっくりと歩いてロディ兄さまに近づいていくキリア。

 目をそらせず動けないはずなのに、兄さまの口がにやりと歪む。


「何がおかしいのかな」


 カンに触ったのか、キリアの声が低くなる。

 それでもロディ兄さまは笑うのをやめず、それどころか大きな声を上げて笑い始める。


 どのくらいそうしていただろうか。


 笑い終えると、兄さまは口を開いた。


「おまえたちはクローディアスの墓を探していたのだろう? だから必要ないって言ったのさ」

「なぜ? やっぱり彼を殺していないということなのか?」

「逆だよ、吸血鬼」


 ククッと声をもらして嘲笑しながら、ロディ兄さまは笑みを歪める。


「あの少年騎士なら、僕が殺した。あんまり国王がうるさく言うものだから埋葬もしてやったよ。彼の墓なら把握してある。しらみ潰しに探すまでもなく、この僕が教えてやるよ。だから必要ないと言ったのさ」


 楽しそうに語られたその言葉を聞いた途端、地面にぽっかりと穴が開いて、わたしの心は奈落の底に落ちてゆく。


 クローディアスが、死んだ。

 間違いなくロディ兄さまの手で殺されていたんだ。


 もう立っていられなかった。

 ずるずると、雪の上に座り込む。地面は冷たいはずなのに何も感じなかった。


 わたしが縋り付いて信じていたものは、もうとっくになくなっていたのね。


「そうか。そういうことなら仕方ない。後はおまえを捕らえて、敵討かたきうちしないとね」


 キリアが踏み込む。

 彼の持つつるぎの刃が鈍く光り、持ち上げられる。


 まだ金縛りは効いているみたいで、ロディ兄さまは動かず、目を細めてキリアを鋭く睨みつけた。


 刹那。



 ワォーン————……。



 さあっと血の気が下がり、冷たくなっていた身体が震え始める。


 不意に聞こえてきたのは獣の遠吠え。


 グラスリードに住む者なら、かれらの声に警戒しない者はいない。

 血に飢えた野生の狼がやってくる前触れだった。

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