7-12
プロジェクターの画面が消えて、急にステージが暗がりに包まれる。
一拍の前を置いて、体育館の二階を覆っていた遮光カーテンがいっせいに開き始めた。
ゆっくりと、体育館に光が差し込んでくる。
直澄を見上げる。彼は、どこか申し訳なさそうに笑っていた。
ゆっくり立ち上がって、体育館を見渡す。
それを待っていたように、入口のドアが開いた。
ひょっこりと、杏理が顔を見せる。子犬のような可愛らしい笑顔を浮かべて、大きな声で叫んだ。
「やった、成功だ。みんなで、伊織を泣かせてやろうって考えてたんだー」
杏里に続いて、残った五人のクラスメイトたちが体育館の中に入ってきた。
ばらばらと、思い思いの歩き方で、パイプ椅子で作られた通路を近づいてくる。
そんなに人数いないんだから整列して歩いてくるのはやめにしよう、委員会で直澄が提案した通りだった。
先頭の杏理は、元気に弾むように走ってくる。
恭也は片手をポケットに入れたままちょっとかっこつけている。
宗汰は子供みたいに手を振っている。
梨々子ははしゃぐみんなを横目にいつも通りの優等生だ。
早川さんは、やっぱり男前に腕組みをしていた。
ちゃんと、みんないる。また、みんなと会えた。
だけど、ビデオメッセージは先に終わったし、町の人たちもいないし、訓辞を話してもらうはずだった先生たちもいない。一生懸命考えたプログラムは台無しだ。
卒業式で残っているイベントは、私が手に持っているカタクリの花だけだった。
みんなは、私を囲むように集まってくれた。その胸には、直澄と同じ、からっぽのブーケがついている。
「どう? 私たちの気持ち、ちゃんと受け取ってくれた?」
杏理が、この三年間ずっと交わしていた、茶化すような声で聞いてくる。こうして、また彼女と話しができたことが、たまらなく嬉しい。
「…………みんな。こんなの、ずるいよ」
また、涙が溢れてくる。こんなの、泣くに決まってる。
「伊織、私たちのこと許してくれる?」
早川さんがいつものクラスのみんなの意見をまとめるように聞いてくれた。
「当たり前、だよ。許すもなにも……謝らなきゃいけないのは、私のほう。みんな、ずっと黙っててごめん。それから、ありがとう」
そこで、気づく。
みんなの体が、ぼんやりと光っていた。
この光には、見覚えがある。薔薇に取り込まれた人たちが消えてしまうときの輝きだ。
もうすぐ卒業式が終わる。
つまり、みんなには残された時間は、少ないってことだ。
泣いてる場合じゃない。もらうばかりじゃだめだ。私も、みんなに、伝えたいことがたくさんある。
思いつくままに、声を上げた。
目の前にいる、子犬のような少女の名前を呼ぶ。
「杏理っ、私、あなたが、いつもお日様みたいに笑うのを見るのが大好きだった」
手に持っていた花束からカタクリの花を一輪だけ取り出し、彼女の胸に挿す。
「あなたが守ろうとしていた宮川商店はね、今もまだちゃんとあるよ。そこには、私が大好きな人が住んでるの。扱ってるのは魚だけになっちゃったけど、その人は、いつか商店も再開したいっていってた。杏理の大切な物は、ちゃんと、ずっと残ってたよ」
杏理は眩しそうに目を細めて笑ってくれた。その体の縁を、光がぼんやりと覆っていく。
「恭也、入学した日からずっと、私と仲良くしてくれてありがとう。あなたが実験してた潮流発電機はね、今も町でちゃんと動いてるよ。今までみんなが暮らしてこれたのも、あなたが残してくれた発電機のおかげなんだよ」
カタクリの花を、恭也の胸に挿す。
「それから、杏理と一緒にいるとき、本当に楽しそうだった。触れたり、キスをしたり、そういうのが自然にできるあなたたちが、とても羨ましかった。私、きっとこれから先、幸せそうな恋人たちを見るたびに、あなたたちのことを思い出すと思う」
入学した日から私のことをからかってきた男子生徒は、どこか照れくさそうに笑って、子供が恥ずかしがるように鼻をかいた。その指先が、光に変わっていく。
「早川さん、あなたのことは、好きというのとはちょっと違う。憧れだった。あなたみたいに自分を信じて、いつも正しく振る舞えたらどれだけいいだろうっていつも思ってた。これから先、なにかに迷うたび、あなたのことを思い出すよ。あなたならどうしただろうって考えるよ。あなたを、私の道標にするよ」
カタクリの花を取り出し、彼女の胸に挿す。この花のことを教えてくれたのも、早川さんだった。
「そうだ、早川さんがいつも心配してた弟くん、今もね、町の町長をやってるよ。早川さんみたいにしっかりはしてないけど、ちゃんとみんなをまとめてる。安心して、いいよ。ちゃんとこの島の網元は弟くんが継いでくれたよ」
学級委員長は、嬉しそうに頷いてくれる。その目には涙が浮かんでいた。零れ落ちた涙は、途中で光に変わって空気に溶ける。
「宗汰、あなたが大切に育ててた山羊たちは、みんな無事だったよ。あなたの山羊の子供たちが、今の私たちの生活を支えてる。牧場は、あなたの甥っ子や姪っ子が今も続けてて、みんな、あなたと同じ、牧場が大好きで優しい人たちだよ」
カタクリの花を取り出して、彼の胸に挿す。
「それから、あなたが集めていた漫画やアニメ、今も島の子供たちに大人気なんだ。この五十年の間、島の子供たちは、みんなあなたに感謝してる」
宗汰は歯を見せて、にしし、と効果音がつきそうな笑みを浮かべる。その体も光に包まれて薄くなっていく。
「梨々子、いつも冷静で自分らしいあなたが大好きだった。それからね――あなたが残してくれた小説、今の七里島ではベストセラーなんだ」
カタクリの花を取り出し、梨々子の胸にも挿す。
「本屋のダンボールの中で見つけた原稿、あれ、私が見つけて勝手に本にしちゃった。すごくおもしろかった。あなたには、才能があった。あなたが望んでいた形とは全然違うかもしれないけど、あなたの書いた物語は、これから先も、ずっと読み継がれていくよ」
梨々子は顔を伏せて眼鏡の縁にさわる。泣いているのかもしれない。
その体は、もう後ろの景色が透けて見えそうなほど薄くなっていた。
みんなの体が、光に変わっていく。空気に溶けるように薄くなっていく。卒業が近づいてくる。終わりの時間が、もうすぐ傍に迫っていた。
早川さんが、また、みんなを代表して声をかけてくる。
「みんなで、話したんだよ。あんたのために、私たちが、この世界に残せるものがあるとすれば、それは、記憶だけだって」
彼女の体は光に包まれて見えなくなっていった。その後を継ぐように、梨々子が告げる。
「伊織、覚えておいて。私たちがここにいたことを、覚えていて」
梨々子の体も、光に包まれる。みんなの体が、光に変わる。光の粒は、綿毛が舞うようにふわりと舞い上がると、空気に溶けるように消えていく。
光へ変わっていくクラスメイトたちを見ながら、届けと祈るように叫んだ。
「忘れないっ。ぜったいに、忘れないからっ!」
みんなの体が消える。
胸に差さっていたカタクリの花だけがこの世界に残され、ひらひらと床に落ちて散らばる。
茫然と、カタクリの花が散らばった中に立ち尽くす。
でも、みんながいなくなったわけじゃない。
一人だけ、残っていた。
「……直澄」
彼の体も、ぼんやりと光に包まれている。
「俺だけがこうして残っているのは、きっと、俺がずっと前から、五十年前の記憶を持ってたからだろうな。俺にとって、心残りは、卒業式じゃなくなっていたからだ。だから、みんなと、少しだけ消えるタイミングがズレた」
部室で話していたときと同じように、こんなときでさえ、彼の言葉はどこか理屈っぽかった。笑いながら近づいてくる。
「伊織。君のこと、大好きだった」
「知ってるよ。私も……私も、大好きだった」
「うん、知ってる」
「ねぇ、島にはね、ずっと受け継がれてるノートがあるの。あなたたち六人がこの学校で最後の日をどう過ごしたかと、それから、薔薇を観察した記録。あなたが残してくれたものだよ。私たちが五十年間生きてこれたのは、ぜんぶみんなのおかげ。あなたが残してくれたノートのおかげなの。そのおかげで、薔薇を受け容れて、生き残ることができたの」
「そっか。俺たちがここで薔薇に飲み込まれたのは無駄じゃなかったのか」
「この島を、救ってくれてありがとう」
直澄は、私のすぐ傍まで歩いてくる。私も歩み寄ると、そっと、彼の胸にもカタクリの花を挿し込む。
「こんなこと、みんなの前じゃ言えないけど……世界を滅ぼした薔薇に、感謝しないとな。こうして世界が滅んだから、俺は君と出会えた。世界の終わりが、君を連れて来てくれた」
キスをするように顔を近づけ、唇が触れ合う直前で止める。
彼の吐息を感じる。彼が、今、目の前にいるのを感じる。
「一つだけ、頼みがある。これが俺の、心残りなんだ」
「うん。なに?」
「俺が消えたら、たぶん、この学校もなくなってしまうと思う。そうなる前に、なにもかもが消える前に、部室にいってくれ。君と初めて二人きりで話したときの約束を守りたいんだ」
あのときに交わした約束は覚えてる。でも、それはもう果たしたはずだった。
「卒業式のあと、卒業制作を見せてくれるっていったこと? でも、それならもう見たよ」
「違うんだよ。薔薇に囲まれた校舎の絵は、もっと前に描いたものなんだ。俺が卒業制作として描いたのは、この終わりかけの世界で、一番美しいと思ったものだよ」
光が、彼の体を覆っていく。
別れの時が迫っていた。
「もう時間みたいだ。伊織……本当に大好きだった」
いやだ、消えないで。本当は、そう叫びたかった。
もっと話したいことがあるのに。どんなにあなたが好きだったか、もっとたくさんの言葉で伝えたいのに。あなたに打ち明けてない秘密もあるのに!
だけど、どうにもならないことはわかってる。きっとこれが、私が彼に告げることができる、最後の言葉だ。だから、涙で掠れた声で、一番、大切なことだけを告げた。
「直澄っ、あなたのこと、ぜったいに忘れない」
彼は、私が大好きだった、どこか気怠そうだけれど本当は誰よりも温かな笑顔を浮かべて消えていった。
最後のカタクリの花が、ひらりと落ちて、ステージの上に散らばったみんなの花と一緒になる。
それがきっかけだったように、目に映る景色が、ゆっくりと光に包まれ始める。
この五十年前の学校も消えてなくなるのだろう。
本当は、この場所をもう一歩も動きたくなった。ここで、カタクリの花に囲まれて泣き続けていたかった。
だけど、それは今じゃない。泣くのは、あとでもできる。
涙を拭って、駆け出した。
彼が最後に残してくれた言葉を、守るために。
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