7-6

 空港島からの迎えを明日に控えた町は、どこか緊張感が漂っていた。


 漁師通りには、集まって雑談する人も、長縄で遊んでいる子供たちも見えない。

 誰もが息をひそめて、その瞬間がくるのを待ち構えていた。


 遠くから、波が防波堤にぶつかる音が聞こえてくる。それは、瀬戸内の海が、この島の惨状を嘆いているように聞こえた。


 五十年前からあるパン屋。母さんから受け継いだ、大切な家。

 靴を脱いで居間に上がると、そのまま縁側へ向かった。リオは、戸惑いながらも後をついてくる。


 これまで、店の奥に誰かを入れたことはなかった。

 そこには、秘密があったからだ。


 誰にも話すことができなかった。直澄にさえ、打ち明けられなかった。

 ずっと私の心の一部分を占めていた、大切な秘密。


 縁側へと続く、いつも締め切っていた雨戸を開く。

 その向こうには、小さな庭がある。高い壁で囲まれた、卓球台くらいの広さのささやかな庭。


 奥には花壇があって、お母さんが大切に育てていた花が今も並んでいる。

 山内さんの農場からもらってきたヒナゲシは、春先に芽を出して可愛らしい花を咲かせる。雨の季節に白い花をつけるアジサイ。ラベンダーは毎年刈り込んでいるけどずいぶん大きくなった。


 学校と違い、私が手をかけてあげないと育たない花たち。


 その花に囲まれて、大きな薔薇があった。


 世界を終わらせた薔薇は、白い大きな花を一輪つけ、凛とした姿で佇んでいる。


 背後で、悲鳴が上がる。


 私の後ろをついてきたリオが、薔薇を見て叫んでいた。

 畳の上に尻もちをつき、足を目に見えるくらいはっきりと震えさせている。


「なんでっ、なんで、伊織の庭に、薔薇があるの!」


 床についた指先には、畳に食い込むほどに力がこもっていた。今にも逃げ出したいのを、堪えているようだった。


 ゆっくりと振り返って、微笑みながら答える。


「私の、お母さんだよ」


 三年前、お母さんが死んでからも、私はずっとお母さんと一緒に暮らしていた。

 朝起きるとおはようといい、学校から帰ってくるとただいまという。


 嬉しいことがあると報告したし、辛いことがあるとこっそり愚痴を聞いてもらった。


 薔薇に取り込まれた人間が、薔薇の人になって現れるのには時間がかかる。

 お母さんが幻になって現れるとしても、ずっと先のことだ。でも、そんなの関係なかった。


 お母さんが死んだあと、落ち込んでいた私は、学校のみんなに出会って救われた。

 そして、薔薇に取り込まれた人たちも、ちゃんと生きているのだと知った。なら、お母さんだって、この庭で生きているんだと思えた。


 島の人に聞かれたら怖がられるだろう。心を病んでいると思われるかもしれない。だから、秘密にしていた。でも、私にとっては、すっかり当たり前の風景だった。


「私のお母さんは、この場所で薔薇になったの」


「なんで……七里島の薔薇は、休眠状態で、もう人を襲わないはずだろっ?」


「そうね。薔薇は、もう人を襲ったりしない」


 言いながら、肩から滑らせるようにしてブレザー脱ぐ。下に着ていたブラウスのボタンを一つずつ外していく。


「なに、してるの」


 リオが、突然の私の行動が理解できないように、怯えた表情を向けている。

 ブラウスを脱いで、するりと足元に落とした。上半身が下着だけになった私の姿を見て、やっと、気づく。


 リオの目が、大きく見開かれた。


「……伊織、それ」


 震える指先が、私の脇腹を指さす。

 そこには、薔薇が生えていた。


 右の脇腹、大きなピアスでもぶら下げているように、薔薇の枝が小さな輪を作っている。

 背中に近い場所には、ブレザーのボタンと同じくらいの小さな白い花が咲いていた。


「この薔薇は、私が物心ついたとこからここにいたの。ずっと、私と一緒に生きてきた。薔薇はね、本当は休眠状態になんかなってない。みんな、そういうことにしているだけ。ただ、寄生しても瞬く間に人を飲み込んだりしないだけ」


 そっと、薔薇に触れる。細い枝は、小動物が眠っているのを邪魔されて身をくねらせるように、小さく枝を動かした。


「どうして七里島の薔薇が、人を襲わないかわかる?」


 リオは答えない。ただ、クラスのみんなを見たときと同じ、おぞましい生き物のように凝視していた。こうなることはわかっていた。わかっていて、見せたのだ。


 これが、私がずっと抱えていた秘密だった。

 直澄にも、話すことができなかった秘密だった。


「きっとね、この島の人たちが過度に薔薇を恐れなくなったからだよ。だから、薔薇も人を恐れなくなったの。五十年前、薔薇は人を恐れて人を攻撃した。人類を滅びる寸前まで追い詰めた。そして、多くの人間を取り込んで、その心に触れられるようになったんだと思う」


 それは、七里島の全員が知っている話だった。

 十五歳になると、その時の町長が一冊のノートを見せて教えてくれる。


「七里島の人たちが薔薇を恐れないのは、五十年前、この町で薔薇に飲み込まれた六人の高校生がいたからなの。当時、パニックになった町の人たちは、初めて感染が見つかった六人の高校生を町外れの高校に隔離した」


 そのノートは、六人の高校生が隔離された後、街に残された家族や友人と連絡を取り合うために使っていたものだった。


 そこには、彼らが薔薇に感染しながらも楽しく過ごしていることや、薔薇を観察した様子などがびっしりと、わかりやすいイラスト付きで書き込まれていた。


「高校で楽しそうにすごしている彼らを見て、当時の島の人たちは、薔薇をそこまで恐れる必要はないと感じたのだと思う。感染しても、こちらか攻撃しようとしなければ人間を飲み込まない。こうやって共存できる。そういうことを教わったんだよ」


 薔薇を攻撃することをやめたことで、この島の薔薇は、人間に感染したとしても瞬く間に飲み込むようなことをしなくなった。本来は、宿主に寄生し、共生する生き物だったのだろう。


 七里島の人たちは、六人の高校生に救われた。


 そして、そのノートの端には、カジキマグロのイラストが描かれていた。


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