7-5
校舎を出て、グランドを真っすぐに歩く。
振り返ることはできない。教室の窓から、私を見下ろしているかもしれないみんなを見ることが怖かった。
校門から踏み出した瞬間、景色が光の粒に変わる。
何度も見てきた光景。慣れ親しんだ幻と現実を繋ぐ輝き。
だけど、今日だけは特別だった。
すべてが光になって消える。
振り返った先にあるのは、長い年月で汚れてひび割れた校舎と、それを覆い尽す薔薇の花。
それは、私が過ごしてきた高校生活の終わりで、大好きな友達や恋人、特別な居場所との別れを意味していた。
涙が、頬を伝う。
学校を出るまでずっと我慢してきたものが溢れてきた。
なにが悲しいのかを考える余裕なんてない。失ったものを数えることも、傷の深さを確かめることもできない。ただ、とにかく心が押しつぶされそうなほど痛い。
涙を拭いながら歩き出す。
二年半通った、港町へと続く通学路。誰ともすれ違うことのないひび割れたアスファルトを下っていく。その後ろを、少し距離をあけてリオが付いてくるのが、彼女から伸びる影でわかった。
「謝らないよ。私、間違ったことしたとは思ってない」
坂道を半分ほど下ったところで、リオが呟く。
その声には、私への罪悪感や同情と一緒に、自分の正義を信じているような頑なさがあった。
「あいつらが言ってた通りだ。あいつらと伊織は、最初っから関わるべきじゃなかった。あいつらは、どれだけ人間っぽく見えても、薔薇がつくった幻だ。もし幻じゃなかったとしても、薔薇に世界が飲み込まれたあとの世界に生きる私たちとは違う。幸せな時代しか知らない連中だ」
リオの言葉は、私の心の脇を空しくすり抜けていく。それでも、すり抜ける瞬間に、紙で指を切るような小さな擦り傷ができた。
みんなの顔が浮かぶ。いつも明るく笑顔を振りまいていた杏理、冷めた瞳に情熱を隠し持っている梨々子、クラスのリーダーだった早川さん、こんな私のことを好きになってくれた恭也、お調子者だけどみんなに愛されてた宗汰。
そして、直澄。いつも気怠そうで、優しくてユーモアがあって、私のことを一番わかってくれた、誰よりも大切な人。
「今朝になって、ノブさんが私のところに来たんだ。迷ったけどやっぱり空港島にいくって。この島の若い人たちのほとんどが空港島への移住を希望してる」
そうか。やっぱりノブさんもこの島を捨てるのか。
リオのせいで、みんないなくなる。
私の心にできた擦り傷が、だんだんと痛みを訴えてきた。
坂道を下りて、黒岩さんの家が道路脇に見えてくる。
黒岩のお爺さんの姿は見えない。
島に残るという意思表示の代わりに、二回目の集会にも顔を出さなかった。相変わらず家に入りきらならない豪華な家具が道路にはみ出している。
黒岩さんは、自分で野菜を育ててない。漁に出ることもしない。
ずっと家具を作って生きてきた。あの人は、いったいどんな気持ちで、最近の島のみんなを見ていたのだろう。
「島に残っても未来はないよ。未練はもうなくなっただろ。一緒に行こう」
正しいことをしたと言うように、開き直った口調だった。
リオのことは大好きだ。彼女が、私のために考えて動いてくれたことはわかる。だけど、許せるはずがなかった。なにも知らない。なにも知らなすぎる。
「七里島はいいところだ。でも、薔薇は人類の敵で、多くの仲間を殺した悪魔だ。休眠状態だからって、こんなに近くにいていいものじゃない。空港島の人たちは、この世界を取り戻すためにがんばってる」
「世界を取り戻すなんて、軽々しく口にしないで。滅びる前の世界のことなんて、なにも知らないくせに」
いつの間にか、リオの言葉を無視できなくなっていた。立ち止まって、現実世界でできたたった一人の同年代の友達を振り向く。
「五十年前は、リオが思ってるような幸せなだけの世界じゃない。五十年前の世界が今より幸福だったなんてのは、現実を受け入れられない人たちが生み出した、ただの幻想だよ」
みんなと交わした言葉が浮かんでくる。誰もが、日常に悩み、人間関係に傷つき、受験勉強に苦しみ、手に入らない夢に焦がれ、それでも必死に生きていた。
「みんな悩みながら苦しみながら、なにかと戦っていた。ちゃんと知ればわかる、今も昔も、変わらないの。私たちとなにも変わらない、ただ五十年前ってだけの、ひと続きの世界だよ」
リオには、本当のことを知って欲しいと思った。
それは、復讐だったのかもしれない。
「……リオ、あなたに見せたいものがある」
涙を拭って、告げた。
どんな顔をしていたのだろう。私を見るリオの表情は、この島に来たばかりのころのように怯えていた。
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