7-4

 教室が、静寂に包まれた。

 さっきまでパラパラと響いていた拍手も、宗汰の指笛も聞こえない。

 杏理や梨々子も、町の洋服店にある色褪せたマネキンのように固まっている。


 誰もが、感情が抜け落ちたような顔で教壇に立つ少女を見つめていた。

 混乱しているのか、薔薇が情報を処理できなくなったのかわからない。ただ、不気味すぎる沈黙が、いつもの賑やかな教室に広がる。


「もう一度、言うよ。あんたたちはもう――」


「やめろっ!」


 直澄の声が響いた。

 立ち上がって、リオを睨みつけている。


 だけど、クラスのみんなは動かない。直澄がいきなり大声を上げても、誰一人振り向かない。


 直澄が、私に視線を向ける。そのおかげで、少しは冷静になることができた。

 みんなの間を抜けてリオに近づく。


「リオ、いったん、外に出よう」


 言いたいことはたくさんあったけど、まずは、それからだ。みんなとこれ以上、一緒にいさせてはいけない。


 だけど、リオは私の手を振り払い、叫び続けた。


「あんたたちは、五十年前、薔薇に飲み込まれて死んだんだ! 今のあんたたちは、薔薇が作り出した幻なんだ! もうあんたたちが通っていた学校はないし、あんたたちが知ってる世界ももう残ってない!」


 最初の怯えはどこへ消えたのか、憑かれたように叫び続ける。

 やっと、リオがここにきた理由に気づいた。私が大切にしてきたものを、壊すためだ。


「伊織は、あんたたちがいるから、この島を捨てられないんだ。お願いだ、死んでるなら、もう消えてくれ。生きてるあたしたちの邪魔をしないでくれよ!」


「やめてっ、リオっ!」


 リオの体にしがみついた。だけど、リオは必死に振り払おうと体をねじる。


「あんたら、伊織の友達なんだろ。だったら、もう自由にしてやってくれ。あたしたちは、これからもずっと食って寝て、生きていかなきゃいけないんだ!」


「やめろ、それ以上、喋るなっ!」


 直澄も教室の前にきて、リオとみんなの間に立ち塞がる。

 だけど、もう手遅れだった。


 世界を切り裂くような音が、響いた。

 それが、人が出した悲鳴だと、すぐには気づけなかった。


 クラスの全員が、いっせいに悲鳴を上げていた。

 獣の遠吠えのようにも、荒れた日の海鳴りのようにも聞こえた。


 そして、十四人いたクラスメイトが、一人、また一人と消えていく。

 残ったのは、六人だけだった。

 宮本杏里、黒岩梨々子、山内宗太、早川明美、内田恭也、そして、梶木直澄。


 その名前は、七里島に残されていた記録の中にもしっかり書かれていた。

 五十年前、薔薇に飲み込まれた六人の高校生たち。


 杏理が頭を抱えて、ふらふらとよろめきながら近づいてくる。

 彼女が顔を上げる。いつも明るくて元気で、トイプードルのように可愛らしかった親友。その目は、浜辺に打ち上げられ、鳥についばまれた魚のように落ちくぼんでいた。


「思い出した。思い出したよ……ねぇ、ひどいよ。なんで、こんなこと思い出させるの?」


 低く掠れた声からは、血がにじんでいるようだった。


「伊織は、なんでいないの。私たちが死んだときの記憶の中に、なんで、いないの。友達だと思ってたのに。親友だと、思ってたのに。なんでいないの?」


 なにも、答えられない。

 みんなをちゃんと卒業させてあげたいと思っていた。


 だけど、そのために、彼女たちを傷つけないように嘘をつき続けていた。

 意識を取り戻したクラスメイトたちも、杏理に続くように震える声を上げる。


「ずっと、私たちを騙してたの? 可哀想なやつらだって同情してたの?」


「あんた、私の夢、きっと叶うっていったよね」


 その隣から、梨々子の声がする。突き放すような冷たい瞳をしていた。


「私の夢なんて、ぜったいに叶わないじゃない。それを知ってて、よくあんなこと言えたわね。私たちが必死に勉強してたの見て、どんな気持ちだった? 進学なんてどうせできないのにって馬鹿にしてた?」


「違うんだ。伊織は、俺たちのために知らない振りをしてくれてたんだよ」


 直澄が、なにも言えないでいる私とみんなの間に立ってくれる。


「梶木、お前も知ってたのかよ。お前はこっち側だろ、気づいてて黙ってたのかよ!」


 恭也が掴みかかる。直澄は両手を広げるようにして私を庇ってくれた。

 その後ろから、山内宗汰の寂しそうな声がする。


「なぁ、俺たちのためって、どういうこと? わかんねぇよ。なにが、俺たちのためなんだ?」


「あの日、最後の夜、みんなで校庭で話したの覚えてるか? 卒業式をしたかった、みんな、そう言ってただろう。だから伊織は、卒業式をやろうとしてくれてたんだよ」


 教室が、ほんの一瞬だけ静かになる。五十年前、死ぬ間際の記憶を思い出したのかもしれない。

 その沈黙を破ったのは、また杏理だった。


「そんなの、してもらうものじゃない! そんなの友達じゃない! 私たちは、友達だと思ってたのにっ!」


 直澄のおかげで少しは冷静になれることができた。手のひらからこぼれ落ちそうになる大切なものをなんとか繋ぎ止めようと、声を上げる。


「私も、友達だと思ってた。生まれた時代は違っても、友達だと思ってた。今だって。みんなのこと、大好きだよ」


「なにそれっ。あんたと私じゃ、いる場所が違いすぎるでしょ。友達になるなんて無理だったんだよ。どうして、この学校に入ってきたの? そうすれば、こんな思いをしなくてすんだのにっ!」


 すべてを否定された気がした。

 大切にしてきたものを、これから一生抱えていくのだと考えていたものを、破り捨てられた気がした。


 私の心の声を拾ったように、硝子の砕け散る音が響いた。

 教室が静まり返る。みんなの視線が、廊下側に集まった。


 そこにいたのは、委員長の早川さんだった。近くにあった椅子を、廊下の窓に叩きつけたらしい。全員の視線が集まるのを待ってから、静かに告げる。


「みんな、ちょっと落ち着こう」


 その声は、いつものホームルームで、教壇の上から私たちに語り掛ける声と同じだった。死の瞬間を思い出しても、彼女の視線は、変わらずみんなを気遣うリーダーのように私を見つめる。


「早川さん……私ね」


「ごめん、伊織。なにを言われても、あたしも冷静になれないや。あんたに感じてた、なんか人とは違う感じって、こういうことだったのね。あんたが私たちの本当の記憶にいなかったから、今もまだ生きてる人間だったから」


 彼女はそう言うと、自分の手を見る。指先が、震えていた。


「今日はもう帰ってくれないかな。あんたなりに色々と考えてくれたのはわかる。でも、もうこうなったら一緒にいられない」


 他のみんなと違って、怒りに流されるのでも恐怖に追い立てられるのでもなく、淡々と提案するような声だった。だから、余計に傷ついた。


 鈍い私にもやっと、わかった。

 もうここに、私の居場所はないのだ。


「……ごめん、みんな。今まで、ありがとう」


 二年半の間、ずっと私を支えてくれた教室に背を向け、逃げるように廊下に出る。教室の隅でなりゆきを見守っていたリオも、後ろをついてくる。


「伊織っ!」


 直澄だけが、追いかけてきてくれた。

 

「待て、伊織っ!」


 今まで聞いたことのないような強い声。立ち止まる。

 でも、振り返ることはできなかった。彼の顔を見たら、この場で泣き崩れて、一歩も動けなくなってしまうだろう。


「ごめん……直澄。私たち、これでお別れみたい」


「そんなの、納得できるかよっ」


「ほんとに、大好きだったよ」


 自分でも信じられないくらい、擦り切れた声がでた。

 直澄のことは好きだけど、それよりも、ここから逃げ出したい気持ちの方が勝っていた。


 私はみんなを傷つけた。いちばんひどいやり方で傷つけてしまった。叫び出したいのを必死で我慢する、これ以上、ここにはいられない。


「ありがとう、会えてよかった」


 それだけを告げて歩きだす。リオは、少し離れたまま私の少し後ろをついてくる。


「卒業式には、ぜったい来いよ。待ってるから、待ってるからな!」


 後ろから直澄の声が追いかけてくる。でも、それに応えることはできなかった。


 

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