5-6

「薔薇が幻を創るのは生きている人間が近くにいるときだけ。きっと、君という存在を通して、俺たちが死ぬ前に願ったことを遂げさせようとしているんだ」


「私も、そう思ってた。薔薇がこうやって過去の世界を再現しはじめたのは、飲み込んだ人たちのためのような気がする。きっとね、人間を――もっと、知りたいんじゃないかと思うんだ」


「まぁ、薔薇の意思なんて考えてもしょうがない。俺たちがやることは一つだけだ。いい卒業式に、しよう」


「うん、そうだね」


 心の中にあったもやもやが消えていく。


 それどころか、彼が抱えていたものをほんの少しだけわけてもらえた。この世界の秘密を共有することができて、今までよりも深いところで結びついた気がする。


「そういや、さっきのカタクリの花のことだけどさ、大丈夫なのか? 町の外は薔薇にのみこまれてるんだろ、取りに行けるのか?」


「なんとかする。どうしてもだめだった、また相談するよ。それよりも問題は、どうやってみんなに渡すかなんだよね」


「渡すって、普通に配ればいいだろ」


「みんなはね、私が現実世界から持ちこんできたものには触れられないの。触れるとね、世界がフリーズしてしまう。でも、そう、たとえばこうやって」


 近くにあったルーズリーフを丸めて、なにも入っていない花束を作る。


「こうやって、この世界にあるもので包めば、直接じゃなければ触れられる。だから、私が取ってきたカタクリをみんなに渡せるように、小さなブーケを作ろうって考えてる」


「それ、いいな。すごくいい」


 直澄が、いつもの気怠そうな表情をほんの一瞬だけ引っ込めて笑う。

 その笑顔に、また、ふいにやってきた大きな波に心が攫われた気持ちになる。


 改めて、思った。


 彼のことが、好きだ。


 あと三ヵ月で消えてしまうとしても、この想いを告げることはないとしても、この気持ちにだけは嘘をつけない。


 彼の強さや優しさ、ふとした瞬間に見せる子供っぽさ、気怠そうな表情にさえ、今まで以上に惹きつけられる。


「俺が卒業式実行委員になった理由だけどな、もう一つあるんだ」


 気がつくと、夕日は海に沈みかけていた。


 教室の半分を支配していたオレンジ色は、ずいぶんと狭くなっている。彼が立つ窓際だけが夕日に照らされ、私が立つ廊下側は影に包まれる。


 スポットライトのような夕焼けの光の中で、彼は続ける。


「お前が、実行委員をやるってのを聞いたからだ。同じ委員になれれば、話ができると思った。今まで、何度も話しかけようとしたんだけど、できなかったから」


「記憶を取り戻してること、話したかったの?」


「違う、そうじゃない」


 直澄はほんの一瞬、窓の外へと顔を向けた。揺れた髪の上で、オレンジ色の光が舞う。それから、真っすぐに私を見つめ直す。


「俺……ずっと前から。お前のことが、好きだった」


 信じられない言葉が、聞こえてきた。

 吸い込んだオレンジ色の空気が、喉に張りついてしまったように息ができない。心臓が、自分のものじゃないように脈打っている。


「……なんで」


 そう呟くのが、せいいっぱいだった。


「理由なんてない。お前が転校してきたその日から気になってた。それから視線で追うようになった。いつも明るくて、誰にでも優しくて、真面目だけどちょっと抜けてて、どこか一歩引いてるところもあって、お前の性格がわかるたびに、もっと惹かれていった」


 今まで、そんな素振りなかったのに。

 ひっそりと片想いのままでいることを受け入れていたのに。


「俺と、付き合ってくれないか?」


「ねぇ、直澄。私たちは、あと三ヵ月しか一緒にいられないんだよ」


「明日世界が滅ぶとしても、それが、今日好きな子に告白をしない理由にはならないよ」


 気障な言葉。だけど、その言葉に、私の心は激しく揺さぶられた。


「私も、あなたのことが、好きだった。うん、付き合おう」


「本当……か?」


「うん、本当」


 もう、躊躇うことはなかった。ほんの一瞬、杏理の笑顔が浮かぶ。

 私は、余計なことを考えすぎていたのかもしれない。ただ素直に、好きな人に好きという、それ以上に重要なことなんてなかった。


 直澄は、やった、と呟いて小さく拳を握り締める。その仕草が、いつも気怠げな彼らしくなくて、思わず笑ってしまう。


「なぁ、キスしてもいいか?」


 急に、大胆なことを聞いてきた。


「できないよ。したくないわけじゃなくて、さっき、みんなは、私が持ってきたものに触れないって言ったでしょ。あれ、私の体も同じなんだ」


 私にクラスメイトの誰かが触れると、その瞬間、世界はフリーズして、わずかに時間が戻される。みんなと私が、まったく違う存在だと思い知らされる。


「ごめんね。付き合うっていったけど、私たちは、キスどころか手を繋ぐこともできない」


「……そうか。俺たちは、もう意識だけの存在だからな」


 理性的に受け入れながらも、その声は寂しそうだった。

 そこで直澄の視線が、私の手元に移動する。ルーズリーフで作った小さなブーケを、まだ握りしめていた。


 彼は、近くのテーブルの上、余っているルーズリーフを一枚とって顔の前に翳す。


 そこで、やっと彼の意図に気づいた。みんなは私に触れることはできない。でも、この世界にあるものを挟めば、触れることができる。


「これなら、大丈夫か?」


 返事の代わりに、目を瞑る。


 彼が近づいてくる気配がする。


 私たちは、そっと唇を重ねた。

 

 ルーズリーフごしに伝わってくる彼の唇の感触。沈みかけの夕日に照らされた教室の片隅で、生まれて初めてのキスをした。


 それから、私たちは肩が触れ合うぎりぎりまで体を寄せ合って話をした。


「私も直澄のこと、ずっと好きだった。たとえ残りわずかな時間でも、こうして恋人同士になれたの。すごく嬉しい」


「こんなこと言うのはみんなに悪いけど。世界が終わらなければ、お前に出会えなかった。そう思うと、薔薇に感謝してもいいって気持ちになるよ」


「私ね、思うんだ。夢を叶えるために必死で勉強したり。次の収穫のために大切に野菜を育てたり。みんな未来のためっていうよね。だけどね、未来のために今があるわけじゃないと思うんだ。未来だって、きっと今のために存在してるんだ。未来だけじゃなくて、過去も同じ。全部、今生きているこの瞬間が中心ってことにすればいいと思うんだ」


 世界が滅んでしまったという過去。いつか私たちは離れ離れになるという未来。

 すべて、今を生きるためのピースだ。それを私は、みんなから教えてもらった。


「そうだな。大事にしていこう。今を。この瞬間を」


 直澄はそう言って、またどこか気だるげな笑みを浮かべる。


「なあ、一つだけ、約束をしよう」

「なに?」


「俺たちのあいだで、隠し事をしないこと。なんでも話すこと。俺は、お前のすべてを受け入れるから」

「うん、わかった」


 約束を交わした後で、もう一度、キスをした。

 彼の肩越しに、瀬戸内の水平線に夕日が沈むのが見えた。夕日は沈む直前が、いちばん鮮やかなオレンジ色に輝く。この世界も同じだろうか。


 ただ一つ確かなことは。私は、この幸福な時間をいつまでも忘れないだろう。



――第五話 完――

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