第六話 壊れはじめる音――港町(3)

6-1

 吐き出す息が、いつもより白い。

 吐いた瞬間に指でなぞれば、空気に字が書けそうだ。


 降参して、電気ストーブに火を入れる。

 電気ストーブは電力の消費が激しい。使ったときは温かいけれど、その分、冷たい潮風の吹きすさぶ発電岬に通う回数となって自分に返ってくる。


 こんな日に限って、パンの注文は一件も入ってなかった。

 オーブンを動かせば、それだけで家の中はずいぶん温かくなるけど、貴重な材料を自分のためだけに使っちゃだめというのは、お母さんの教えでもあった。


 玄関にかかる手作りのカレンダーの日付は、12月31日。


 高校は冬休みに入っていた。


 今日が大晦日で、明日になったら新しい年になって、一週間ほどで新学期が始まる。

 そうしたら、卒業式はもうすぐそこだ。少しでも時間ができると、すぐに寂しさが忍び寄ってくる。


 そのときが来るまで、未来のことを悲しんだりしないと決めたのに。

 感情は、決意しただけじゃなかなか言うことを聞いてくれない。


 玄関がノックされる。


 顔を上げると、曇ったガラスの向こうに人影があった。どうぞ、と言うとほとんど同時に開き、冷たい空気が容赦なく流れ込んでくる。


「わー、あったかい。あったかい」


 リオは最小限だけドアを開けると、元パン屋だった私の家にすべりこむ。


 店舗と居間の間にある小上がりに座っている私を見ると、当然にように隣にやってきて、肩をくっつけるように座る。寒風の中を駆けてきた彼女の体は、ひんやりと冷たかった。


「ガラスが曇ってるの見つけて、思わず入ってきちゃった。いやー、大正解。貴重な電気だからみんなで使わなくちゃね」


「おかげで、私はすごい寒さを味わったけどね。なにしてたの?」


「海を見てきた。だめだね、大荒れだ。今日は舟は出せそうにないや」


「大晦日だっていうのに、はりきるねぇ」


「海に人間の決めた暦は関係ないでしょ。あれ? 伊織、なんか元気ない?」


 急に、リオが真面目な声になって聞いてくる。

 そんなに落ち込んだ顔をしてただろうか。


 頭の中に浮かんでいた悩みを、心の奥へ仕舞う。リオは私が七里高校に通っていることについて何も言わないけど、あまり良く思っていないのを知っていた。


 リオにとって薔薇は今も、たくさんの仲間を奪った恐怖の対象だ。

 彼女の前では、学校の話はしないと決めていた。


「そんなことないよ。寒いのが、苦手なだけ」


「私も、苦手。とくに冬の海に長い時間潜ったときの、血が引いていく感じは何回経験しても嫌いだったな」


「そっか。空港島にいたときはずっと素潜りで漁をしてたんだよね」


「冬の海は地獄だったよ。あ、でも、陸にいるときは寒さを感じなかったな。同じ漁の仕事をしてるみんなと一緒に暮らしてたからかな。大勢でご飯を食べて一緒に寝て、部屋に帰るといつも温かかった」


 リオは、懐かしそうに目を細める。

 空港島の話をするときはいつも同じ表情をする。きっと、一緒に育ってきた家族のことを思い出しているのだろう。


「朝ご飯、食べてく? 残りものの食パンならあるけど」


「食べる!」


「咲良さんは、どうしてるの?」


「昨日、飲み会だったって。今も酔いつぶれてる」


「あぁ、昨日だっけ。忘年会」


 年末になると開かれる年忘れの宴。

 それは、五十年前の世界から受け継がれている伝統の一つだ。


 同じ毎日の繰り返しの中で、年が変わることに意味なんてない。

 でも、だからこそ、あえて意味を持たせるために忘年会や正月があるのだろう。


「空港島ではね、大晦日の夜だけ、最上階にあるすべてのライトが付くの。いつも電気は節約しろってうるさい〝政府〟のやつらも、年の変わる日だけは特別みたい。漁の皆で船に乗って、離れたところから空港島を眺めてたな。夜に浮かび上がる光の島、すごく綺麗だった」


 今日のリオは、やけに昔話が多い。

 特別な日だから、つい思い出してしまうのだろうか。それとも、注文のないパン屋と同じように、海に出られない漁師も余計なことを考えてしまうのだろうか。


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