4-7
小窓しかない家の中は想像していたよりも薄暗かった。
手前には、生活に必要なものが並んでいる。冷蔵庫に電子レンジ、それから、缶詰やインスタントラーメンのストック。
スタジオはその奥にあった。サニー小川に続いて、サニーサイド瀬戸内海が生まれていた場所に入る。
そこには、見たことのない機材が並んでいた。
縦長のスピーカー。たくさんのスイッチが並んだボード。機材に囲まれるように丸いテーブルがあって、その上には鉄でできた釣り竿みたいなものにマイクがぶら下がっている。
壁際に置かれた本棚には、CDがぎっしりと詰め込まれていた。
そして、スピーカーからは、今、ラジオから流れているのと同じ音楽が、想像していたよりもずっと控えめな音量で流れている。
「すごい、ここから放送してたんだ」
リオがはしゃいだ声をあげる。
それがきっかけだったように、サニー小川がぼんやりと光った。
え。リオが小さく呟く。
彼の輪郭が、光に包まれていく。
いや、光に包まれているわけじゃない。彼の体そのものが光に変わっていた。
青白い、月明りにも似た穏やかな光。それは、タンポポの綿毛が散るように少しずつ体から離れて、空気に溶けて消えていく。
私も咲良さんも、この光景を見たことがある。
薔薇の人が、消える瞬間の輝き。
それを初めて見るリオだけが、不気味でどこか幻想的な光景に、茫然としていた。
サニー小川が、普通の人じゃないことは気づいていた。
こんな場所で、限られた食べ物と水で五十年も生きていられるわけがない。
それに、サニー小川は、広島から逃げてきたといった。
広島が薔薇に飲み込まれたのは五十年前。それが本当なら、いくらなんでも若すぎる。
サニー小川は、最後に、私たちを振り向いて笑った。
自分の子供を見守るような、柔らかな笑顔だった。
「ありがとう。君たちに会えて、よかった。すべてが報われた気がする」
「まだ、消えないでください。まだ、最後の言葉が残ってます」
最後の曲が、終わろうとしていた。
「それは、大丈夫なんだ。もう、僕の仕事は終わったんだよ。最後の放送を、楽しんでくれるとうれしい」
最後に、なにかから解放されたように笑うと、彼の体は、スタジオの風景に溶けるようにして消えてなくなった。
リオが悲鳴を上げる。
サニー小川が消えた場所には、大きな薔薇が咲き誇っていた。世界を終わらせた薔薇が、真っ白い花びらを広げている。
その周囲の景色も、さっきまでと一変していた。そこにある機材は変わらない。配置はそのままに、長い年月が過ぎたように劣化していた。
壁は茶色く汚れ、テーブルの上に散らばった雑誌や楽譜は色褪せ、機材もプラスチックが割れたり錆が浮かんだりしている。
そして、その上を、蜘蛛の巣のように薔薇の蔓が伸びていた。
「なんで……急に、薔薇が」
リオの手は、大きく震えていた。
きっと、こんな近くで薔薇を見たことはなかったんだろう。彼女の恐怖が伝わってくる。
「大丈夫だ。薔薇人間の話は、前にしただろ。休眠状態の薔薇は、人を襲ったりしない」
咲良さんはそう言うと、リオの手を強く握る。
私は、そっと薔薇に近づいた。
薔薇は動かない。ただ、白く美しく、そこに存在している。
薔薇はスタジオにいた彼を取り込んだ。
サニー小川は、ここから逃げるつもりもなかったんだろう。薔薇が近づくのがわかっていても、ラジオを放送し続けた。
きっとこの場所が、彼にとって最後の、生きる意味だったから。
テーブルの上には写真立てが一つ。そこには、サニー小川と、奥さんと娘さんらしい人たちと一緒に映った色褪せた写真があった。
「でも。サニー小川さんが薔薇の人なら、どうやって放送していたんだろう。薔薇の人たちはただの幻で、機材を操作できるわけじゃないのに」
「なぁ……伊織、あれってなんだと思う?」
咲良さんが、薔薇の向こうにある機械を指さす。他の機材が死んだように光を失くしている中で、一番奥にある箱型の機械だけが、チカチカと青い光を点滅させていた。
「パソコンだな。空港島だと、まだ使ってる人が大勢いるぞ」
リオが、震える声で教えてくれた。
「あぁ、これがそうなのか。なんか、テレビや映画でよく出てくるよな。インターネットってやつだろ」
「たぶん、それはもうないと思うけど……あ、そうか」
私の頭の中で、すべてが繋がる。
パソコンを触ったことはなくても、どういうものかは知っている。五十年前のドラマを見ると当たり前のように出てくるし、学校のみんなと話していてもよく話題にあがる。
薔薇の横をすり抜けて、パソコンに近づく。
屋根の上にあった太陽電池で作られた電気は、全部この機械に届けられていたらしい。
ずらりと並ぶスイッチに触れると、真っ暗だった画面に、映像が表示された。
使い方はわからなくても、そこに表示されているものがなにかは、わかった。
画面いっぱいにずらりと並ぶたくさんのデータ。
名前には通し番号が付けられていて、その横には、作成日が表示されている。日付は、古いもので今から約五十年前。最終回は、それから七年が経過していた。
「これ、録音だよ。私たちが聞いていたラジオは、録音されたデータだったんだ」
ファイル名につけられた通し番号は、おそらく放送回数。このパソコンが自動で、決まった時間になると音声データを順番に再生し、電波に乗せていた。
「サニー小川は、生きているあいだ、この場所で、ずっとラジオの録音を録りためてたんだ。この島にいた七年間で、五十年分の放送をため続けていた。ずっと、たった一人で、そこに平和な世界があるように装って、薔薇に追い詰められながら笑ってたんだよ」
今まで、私たちは、サニーサイド瀬戸内海を聞きながら、よく馬鹿にして笑っていた。
トークのセンスがないとか、調子っぱずれな笑い声が耳障りだとか、まったく面白くない冗談を自信満々にいうのがイラつくとか。
この放送の向こうには、平和に暮らしている軽薄な男がいるんだと疑ってなかった。周りにはたくさんの人たちが暮らしていて、そこには希望に溢れた世界があるんだって信じていた。
だけど、それは偽りの世界だった。
希望を与えられていたのは、私たちの方だった。
気がつくと、涙が頬を伝っていた。
当時の彼の姿を思い浮かべると、胸が締め付けられるように痛む。優しさが、孤独が、私たちが託されたものが、すべてが眩い光となって心を揺さぶる。
ラジオから流れていた音楽が終わる。
そして、この世界のどこにもいない男の声が、軽やかに響き渡る。
『これで、サニーサイド瀬戸内海は終わりだ。でも、この世界はまだまだ続く。ここまで放送を聞いてくれたあんたたちなら大丈夫だ。もう俺がいなくたって、しっかり生きていけるだろ。じゃあ、おれは行くぜ、元気でな!』
サニー小川はそう言って、最終回を締めくくった。
この放送を録音していたとき、きっと、すぐそばまで薔薇が迫っていたのだろう。死を覚悟していたとは思えない、清々しいほどに明るい声だった。
振り向くと、咲良さんも泣いていた。
さっきまで、あんなに薔薇を怖がっていたリオも、ごしごしと目を擦っていた。
七里島のみんなが笑って暮らしてきたのはサニーサイド瀬戸内があったからだ。
私たちが生きてこられたのは、この放送のおかげだった。
「ありがとう……ありがとう、ございました」
スタジオの真ん中で薔薇になった彼に向けて、告げる。
薔薇の人になって現れた彼が消えたのは、ラジオが誰かに届いていたというのを知ったからだろう。薔薇に取り込まれてからも、私たちのことを気にかけてくれたんだ。
昼下がりになって、潮目が変わるのを待ってから、島を離れた。波に乗ったカッターボートは、あまり漕がなくても七里島へと舳先を向ける。
私の手には、スタジオからもってきたCDがあった。サニー小川が最後に流した曲。
島の皆には、このCDを見せて、スタジオはあったけどサニー小川はどこにもいなかったと伝えるつもりだ。
みんな、きっとがっかりする。だけど、彼が無事に逃げ出したと安心してくれるはずだ。
浜辺でバーベキューをしたとき、私は二人に語った。
世界は少しずつ終わっていく。この島はゆっくり滅んでいく。
それはもう止められないことで、どうしようもないことなんだと。
でも、今、はじめて、それじゃいけないと思った。
「咲良さん……私たちは、そう簡単に滅んだりしないよ。ううん、せいいっぱい、なににしがみついてでも生きなきゃだめなんだ」
それがきっと、助けられたものの使命なんだ。
浜辺のコンテナが小さくなっていくのを見ながら、私は何度も涙を拭った。
――第四話 完――
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