4-6

 港に係留されている咲良さんの舟は、昔は救命艇として使われていたものだった。


 カッターボートと呼ばれる種類で、船尾が途中で切り落とされたみたいになっているのが名前の由来らしい。

 どういう経緯でこの島に残されたのかわからないけど、オレンジ色の小さな舟は、ずっと私たちの生活の中にあった。


 ロープを外すと、思い切り岸壁を蹴るようにして舟を出港させる。


 私が右側、リオが左側のオールを漕いで、咲良さんが舵を取る。咲良さんの手伝いをして漁に出たことは何度もあるので、漕ぐのには慣れていた。


「この時間なら、潮流に乗れる。すぐに島につくはずだ」


 瀬戸内海には、たくさんの島々があって潮の流れが入り組んでいる。

 咲良さんは、島の周りに流れる潮流を熟知していた。


 風はなく、波も穏やかだった。私たちが必死に漕がなくても、舟は流れに乗って貝島へと向かっていく。


 船尾に置いたラジオからは、相変わらずサニー小川の調子っぱずれな笑い声と、五十年前の音楽が交互に流れてくる。


 サニー小川が最終回について触れたのは最初だけだった。


 いつもと同じように手紙を紹介したり、ぱっとしないトークで一人で笑ったりしていた。普段なら、下らない、と馬鹿にしながら聞いていたラジオだけど、今日は誰も笑わなかった。


 この放送が流れている間は、まだ貝島にサニー小川がいる。

 終わらないで、まだそこにいて、祈るようにオールを漕ぐ。


 貝島が近づいてくる。


 岸壁を見て、リオがぎゅっと唇をかみしめる。

 びっしりと薔薇に覆われていた。


 世界を崩壊させた薔薇は、舟を寄せることができないほど、島と海の境界まで蔓を伸ばしている。活動状態にあるのか、眠っているのかは、遠くから見ただけではわからない。


「人なんて、どこにもいないね」


「いったろ、何度か来たことがあるけど、近づけるような島じゃないって」


 島の周りをゆっくりと回る。所々に、五十年前の人たちが住んでいた建物が見えた。岸壁に建つ家やコンクリートで覆われた船着き場。

 でも、それらはすべて薔薇の蔓に覆われていた。


「もし、ここで今も放送してるやつがいるとしたら……もう、生き残るのを諦めてるんじゃないか」


 咲良さんが、噛みしるように呟く。

 やっぱり、逃げる手段は確保しているというのは、リスナーに不安を与えないための嘘だったのかもしれない。本当は、死を覚悟して最後の放送をしているのかもしれない。


 突然、私の隣で怯えていたリオが立ち上がった。


「サニー小川ぁ、いるなら返事しろぉ!」


 思い切り、島に向かって叫ぶ。

 本当は怖いのに、勇気を出してここまでついてきてくれている。彼女なりに力を尽くそうとしてくれている。もうすっかり七里島の仲間だった。


 声は返ってこない。

 島からは岸壁にぶつかる波音が聞こえてくるだけだ。


 舟がゆっくり舟首を曲げて、島の裏側に回り込んだところで、リオが叫び声を上げた。


「ねぇ、あれ! あれって、人じゃない!」


 薔薇に覆われた岸壁の間に、ぽっかりと岩をくり抜いたように小さな砂浜があった。

 浜辺には薔薇は枝を伸ばしておらず、緑に覆われた島影の中、白色の砂浜が浮き上がって見える。


 そこに、一人の男が座っているのが見えた。


 浜辺の奥には、真っ白いコンテナ形の建物が一つだけ建っている。コンテナの脇には、背の高いアンテナ。舟は一艘も見当たらない。


 リオが声を上げるけど、男は気づかないようだった。振り向きもせず、コンテナ形の建物に入っていく。


「今の人がサニー小川じゃないかな。咲良さん。あそこに着けられますか?」


「大丈夫だ、ちゃんと潮の向きと合ってる。このままの進路でいけば入れる」


 咲良さんは、貝島に向けてめいっぱいに舵を切る。

 潮の流れに対する抵抗が生まれ、舟はわずかに傾きながら進行方向を変えた。舟首がまっすぐに砂浜へ向く。





 砂浜が近づく。鼓動が早くなる。七里島じゃない場所へ上陸するのは初めてだ。


 隣で、リオはわずかに震えていた。岸壁を覆う薔薇を、怯えるように見回している。


 七里島育ちの私たちも、休眠状態に入る前の薔薇の恐ろしさは知っている。


 当時の映像だって何度も目にした。活動期の薔薇は、人が近づくととたんに蔓の伸ばし始め、目に見える速度で迫ってくる。それに捕まった人は、瞬く間に薔薇に飲み込まれてしまう。


 だけど、舟が近づいても、岸壁に張り付いた薔薇はまったく動かなかった。


「薔薇は……休眠状態になってるみたいだね」


「サニー小川は、嘘をついたってことか。なんで、わざわざ、あたしたちを怖がらせるような嘘をついたんだ?」


 話しているうちに、舟首が浜辺に乗り上げる。


 咲良さんとリオは跳び降りると、慣れた様子で舟が波にさらわれないように浜辺まで押し上げる。舟を二人に任せ、奥にあるコンテナに歩み寄った。


 屋根には太陽光パネルが並んでいた。近づいてみると、コンテナ形の家は木製で、意外と風通しは良さそうだ。


 辺りを見回す。砂浜を囲む岩場には、びっしりと薔薇の枝が張っている。でも、私たちが上陸しても、普通の植物のように少しも動かない。


 ラジオから流れていた曲が終わり、またサニー小川のこちらの気持ちも知らないような能天気な声が響く。


『それじゃ、これが最後の曲だ。みんな、最後まで付き合ってくれてありがとよ。この曲が終わるまで、俺はスタジオにいるからな。じゃあ、最後の曲、この過酷な世界を生きるすべての人類に送るのは、エディ・ローグが人類のために残した名曲だ、〝ライフ・イズ・ビューティフル〟』


 歌のイントロが流れるのと同時に、コンテナの扉が開く。そして、さっきの男性が出てきた。


 勝手に、サニー小川は、アロハシャツにサングラスでもしてるようなチャラいおじさんをイメージしていた。でも、そこに現れたのは、くたびれたワイシャツを着て、生きることにさえ疲れたような雰囲気の初老の男性だった。


 何年も櫛をいれていないような白髪交じりの髪。猫背で少し足を引きずっており、その仕草の一つ一つが体の芯までしみ込んだ疲労を感じさせた。


「サニー小川さん、ですか?」


 男性は私たちに気づき、そして、目を見開いた。


 灰色の瞳は、ずっと孤独の中にいたように打ちひしがれていた。

 でも、私を写した瞬間、その瞳の中に、たくさんの光がばらまかれた。


 頬がぴくぴくと震える。鼻息が隙間風のような音を立てる。


 その表情から、すべてを察することができた。彼は、長い間、ずっとここに一人だった。何年か、何十年かわからない。誰とも会わずに暮らしてきた。


 ラジオの中の底抜けに明るい彼は、作り物だったんだ。


「あぁ、サニー小川は俺だ。君たち……どこから来たんだ?」


「この近くの、七里島っていう島です」


「七里島、か。隣じゃないか。あそこには、まだ人がいるのかい? 世界は、滅んじゃいなかったんだな」


 サニー小川の声は震えていた。でも、いつもと雰囲気は違っても、その声は、ラジオを通して毎日聞いていたものだった。


「はい。安全です。みんな平和に暮らしてます」


「ここからちょっと離れた場所には、空港島って島もあって、たくさんの人が生きてるぞ」


 舟の係留を終えて駆け寄ってきたリオが、自分の故郷の情報を付け足す。


「そうか。そんなにも、生き残っているのか」


「もしよかったら、私たちの島に来ませんか?」


「俺を……連れて行ってくれるのか?」


「あんた、この島を出て行く当てなんて、なかったんだろ。ここで、一人で死ぬつもりだったんだろ。遠慮なんていらない。みんな、あんたに会いたがってる」


 咲良さんが告げると、サニー小川は顔をしわくちゃにして、泣き笑いのような表情を浮かべた。


「それは、素敵だね。ぜひ、そうさせてもらいたいな」


 私とリオは、顔を見合わせる。

 がんばってここまで来たかいがあった。もし、私たちがサニー小川を連れて帰ったら、島のみんなはきっと喜ぶだろう。


「でも、最後まで放送を続けさせてくれないか。あと、少しで終わるからね」


 サニー小川はそう言うと、コンテナを振り向く。きっと、あの中がラジオ放送のスタジオになっているんだろう。


「もちろんです」


「世界が滅んでから、何年たったか覚えてるかい?」


「だいたい、五十年くらいだって聞いてますけど」


「そうか。俺はずっと一人でここにいたから、もう時間の感覚もわからなくなっててさ」


「誰が聞いてるのかもわからずに、たった一人で放送してたんですか?」


「あぁ、そうだ。きっと誰かが聞いてくれる。そう信じてラジオを続けることが、俺の命を繋いでくれたんだ」


「いつから、放送を続けてたんですか?」


「ずいぶん前からだよ。昔は、広島に住んでたんだ。それで、薔薇があんなことになって、この島に避難してきた。でも、この島にも薔薇がやってきて、一緒に逃げてきた人たちもどんどんいなくなって、気がついたら俺だけになっていた」


 私と咲良さんは、顔を見合わせる。その言葉には、違和感があった。


「俺、世界がこんな風になる前も、ラジオのパーソナリティをしてた。だから、逃げ出すとき、車に放送機材を積み込んできた。とにかく、食料と機材だけあれば、生きていける気がしたんだ」


「じゃあ、紹介してた葉書とかは?」


 リオは、なにも違和感を覚えてないようだった。彼女の無邪気な質問に、サニー小川は申し訳なさそうな笑顔を浮かべる。


「もちろん、やらせだよ」


「全部、自作だったのか!?」


「ごめん。でも、希望を届けたかったんだ。きっと、どこかに生きてる人たちがいて、俺の放送を聞いてくれるはずだ。その人たちが少しでも元気になってくれればいいなって思ってた。そうか……俺がやってきたことは、無駄じゃなかったんだね。よかった」


「無駄なんて、とんでもないです。私たちは、あなたの放送に、ずっと支えられてきました」


 そう告げると、サニー小川は目元に大粒の涙を浮かべた。

 すぐに、照れ隠しのように後ろを向く。


「そろそろ、最後の曲が終わるね」


 サニー小川は寂しそうに呟くと、コンテナに向かって歩き出す。これから、最後のメッセージを告げて、サニーサイド瀬戸内海は終わる。


 この放送を、七里島の人たちみんなが聞いているだろう。


「そうだ、スタジオの中、見せて!」


 リオが、思いついたように告げる。なにも気づいていない、純粋な興味だったのだろう。


 サニー小川は大きく頷いてから、コンテナ形の建物の中に入っていく。私たちも後を追うように、足を踏み入れた。

 

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