3-4

 ホームルームが終わり、放課後が始まる。


 梨々子たち進学組が慌ただしく教室を出ていくのを見送ってから、視線を窓の外に向けた。いつの間にか灰色の雲が空を覆っている。光を遮られた瀬戸内海は、どこか不満をため込んでいるようだった。


 周りで、傘を忘れたから降り出す前に帰らなきゃ、という会話が聞こえてきたのに、ほんの少しだけ寂しくなる。


 私には傘は必要ない。校門を出ると服は乾いていて、青空が広がっているはずだから。


「伊織、ごめん。今日は先に帰ってて」


 正面から、真剣な声が聞こえてくる。


 視線を向けると、杏理が、重大な決心をしたように見つめていた。


「いいけど。あ、まさか」


「うん。恭也に一緒に帰ろうって誘ってみる」


 それは一大決心だ。きっと、朝の話で火がついたんだろう。


「がんばってね」


「伊織もね」


 杏理は目配せをしてから、さっさと帰ろうとしていた恭也のあとを追いかけて教室で出ていく。


 今日の休み時間、恭也とは少しだけ話をした。「昨日は付き合ってくれてありがと。これからも友達だからな」と言われ、「あたりまえだよ」と答えた。


 せめてこの世界では、親友の恋が実るといいな。心から、そう思う。


 教室に視線を巡らせて、梶木を探す。もう部室に向かったのか、どこにもいなかった。私も帰ろうと鞄を持って席を立つ。


 教室を出たところで、珍しい人に声を掛けられた。


「ねぇ、卒業式の準備で困ってることない?」


 委員長の早川さんが、クラスのみんなから集めたプリントを持って立っていた。


 三年間ずっとクラスのまとめ役だった彼女のことは尊敬している。だけどグループは違っていて、話しかけられたのはちょっと意外だった。


「今のところ、大丈夫」


 当たり前だ、まだなにもしていないんだから。困る以前の問題です、ごめんなさい。


「そっか。ならよかった。帰るんでしょ? 私、職員室にいくからさ、下まで一緒にいこ。こうやって二人きりで話すのって初めてかな?」


「そうだね。早川さんの周りっていつも人が集まってる感じだから」


「面倒なことを頼まれてるだけだよ。あぁ、そうだ。伊織は、島に残るんだって。さっき梨々子から聞いたの。すごい意外だった」


「そう、かな?」


「なんか、あんたは、あたしたちとは違うって感じがしてたから。きっと、どこか遠いところにいっちゃうんだろうなって思ってた」


 その言葉に、ドキリとする。


 そう、みんなとは違う。いつまでも一緒にはいられない。勘のいい彼女は、私の態度に、どこか不自然さを感じていたのかもしれない。


「だから、島に残るって聞いたとき嬉しかった。あんたも、この島が好きでいてくれたんだって」


「大好きだよ。この島も、島の人たちも。早川さんもそうでしょ?」


「好きだけど、嫌いになりそうなときもあるかな」


 漁業組合長の娘は、寂しそうに天井を見る。


「あたし、この島は好きだけど、この島だけに捕らわれていたくないとも思うの。もっと広い世界で、色んなものに触れたい。色んな勉強もしたいし、たくさんの人に会いたい」


「でも、早川さんも残留組でしょ?」


「うん、そう。だから、進学組が羨ましいよ」


「どうして、島に残ることにしたの?」


「あたしは、この島の網元の娘だからかな。弟はいるけど、あいつ頼んないし、むしろあたしが守ってやらなきゃって感じだしね。だから、あたしが継がないと。父さんも漁協のみんなも、それを望んでるみたいだそ」


 網元、というのは漁船を所有している船主のことだ。この島では大船主が漁師をまとめてきたという歴史があるので、漁業組合長のことを網元と呼ぶこともある。


「あたしはきっと、父の跡をついで組合長になって、この島の漁師の中でリーダーシップのある人と結婚して、そうして、この港の伝統を守っていく。そのために生きるんだよ」


 いなくなったらいなくなったで、誰かがやってくれるよ。


 そんな言葉が浮かぶけど、口には出せなかった。


 たぶん、部外者の私が簡単に踏み込んではいけない場所のような気がする。


「あんたが言いたいこと、わかってるよ。あたしがやんなくたって、なんとかなるって言いたいんでしょ」


 頷く。向こうから言われたら、さすがに嘘はつけなかった。


「あたしもね、わかってるの。でもね、あたしじゃない誰かが網元になってこの島を仕切る。それも、嫌なの。弟が継いでくれるなら許せるかもだけど、あり得ないしね。島の外に出たいくせに、島にも未練たっぷり。どっちも同じくらい未練たっぷりなら、親孝行になる方を選ぼうと思ってね」


「そんな風に自分の人生を決められるなんて、なんだか大人だね」


「そうかな。ただ、臆病なだけかもしれない。誰かを裏切るのが怖いだけかも」


「そんなことないよ。それに、もしそうだとしても、それは臆病じゃない。責任感が強くて、優しいんだよ」


 早川さんは驚いたように私の顔を見て、それから照れくさそうに笑う。


「そんなこと言われたの、はじめてだ。やっぱりあんたは、他のみんなとは違うよ」


 一階まで降りると、職員室にいく早川さんと別れた。「卒業式、楽しみにしてる」と告げると、ピンと背筋を伸ばして姿勢で遠ざかっていった。その背中を見ながら、思う。


 五十年前の子供たちも、今の七里島を生きる人たちも同じだ。

 同じように悩みを抱えて生きている。


 未来があろうとなかろうと、そんなの、今を生きている彼女たちには関係ない。


 きっと、未来がどうかなんて本当はどうでもよくて、今のために未来があるだけなのかもしれない。


 杏理と早川さん、二人に背中を押された気がした。


 帰ろうと思っていたけれど、足は自然と、下りたばかりの階段に向かっていた。


 あと少しだけ、梶木と話をしてから帰ろう。

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