第5話
はぁ……緊張した。1メートルのゴキブリって言ってたよな。想像したくもない。そんなのに出くわしたらどうすればいいんだ? あと、話の内容がずいぶん暗かった。だいぶ苦しい生活をしている人たちみたいだった。やっぱりベリーハードなんだよな……。ゼロからこんな世界で生活を始めて、俺は生き延びることができるのだろうか。情報も何も無いのに。
俺は抱きしめていた消化器を地面に置いた。これはもう、ここに置いていこう。せっかくビルの上から持ってきたけど、重すぎてもう持っていられない。俺の身体能力は転生前の状態と変わっていないみたいだ。強化系みたいなスキルを持っているわけでもない。経験値をためてレベルアップとか、そういうゲーム的な要素はなさそうな気がするなぁ。だけどまあ、少し試してみるか。
「スキル!」
「ステータス!」
「設定!」
「ヘルプ!」
「マップ!」
「回復!」
大声で叫んでみたけど何の反応も無い。だよなー。初めから期待はして無かったよ。
高円寺にゴキブリがいる、と中年男性が言っていた。つまり新宿から西の方面は危ないという事かもしれない。だったら俺は東を目指して歩こうと思う。ここは西新宿だから、とりあえず新宿駅の方へ向かってみよう。道路標識が少し残っているから道は分かるはずだ。
俺はそろそろと歩き始めた。街路樹の根っこが成長して、道路のアスファルトにたくさんの亀裂を作っている。雑草も伸び放題だ。サンダル履きだと非常に歩きにくい。
暑い。喉が乾いた。腹も減った。フラフラしていたら突然、目の前に真っ黒な物体が現れた。
「まじかよ……」
これゴキブリ、だよな。かなりデカイ。50センチはあるか。どうする? 戦ったほうがいいの? どうやって戦う?
ゴキブリが俺に向かって突進してきた。足にすがりついてくる。足がワッサワッサしている。気持ち悪(わる)! 反射的に俺はゴキブリにキックしていた。
「いてぇ!」
グワンと鈍い音がした。鉄の固まりみたいな感じだ。甲羅が硬すぎる。だけど多少効果はあったみたいで、ゴキブリが俺の体から少し離れた。だけどまだ、周囲をガサガサと動き回っている。どうするよこれ?
「お兄ちゃんこっち!」
遠くの方で甲高い声がした。歩道橋の上で小さな子どもが手を振っている。俺を助けてくれようとしているのか?
俺は歩道橋に向かって走りだした。ゴキブリは一定の距離を取りながらしつこく追いかけて来る。まてよ、このままあの子に近づいても大丈夫か? 巻き込んでしまわないか? そう思ったけれど今の俺には余裕が無い。とりあえず行くしかない。
歩道橋の階段の下にたどり付くと同時に、階段を駆け上がる。
「早く! こっち!」
女の子に呼ばれながら俺は階段を登り終えた。振り返るとゴキブリは……ついてこない。階段の下でウロウロしている。なんで?
「お兄ちゃん、大丈夫?」
女の子がほっとしたような顔で言った。小学校の高学年くらいだろうか。俺は息を整える。
「ありがとう。でも大丈夫かな? ゴキブリ、まだあそこにいるけど」
「ここ安全地帯だから」
女の子が少し微笑んで言った。
「安全地帯?」
「ほら、この横に夏みかんの木があるの」
「うん」
「だからだよ」
「どういう事?」
「夏みかんの木だからゴキブリが逃げるんだよ……。知らないの?」
女の子が不思議そうな顔をした。
「え? 夏みかんの木ってゴキブリよけになるの?」
「そうだよ……」
「ほら、ゴキブリが逃げていった。それじゃあ私は行くね」
女の子がちょっと困った感じで言った。
「ちょっと待った!」
俺は慌てて言った。やけにでかい声をだしてしまった。
女の子が立ち止まってこちらを振り返った。不安そうな顔をしている。怖がらせてしまったようだ。やばいやばい。
「あの俺、ここらへんの事をよく知らないんだ。遠くから来たばっかりでさ。できれば人がたくさんいる所を教えてくれないかな?」
まくしたてるように言ってしまった。女の子が戸惑ったような顔をしている。
「……君を見てると自分の妹を思い出すよ。もう会えないんだけど」
とっさに言葉が出た。
「お兄ちゃんの妹、死んじゃったの?」
「死んではいないんだけど……もう会えないんだ」
「そう……。私にもお兄ちゃんがいたんだけど、最近死んじゃったの」
女の子がたくさん瞬きをして言った。
「そうなんだ……」
俺たちはそれから少し話をした。彼女の名前はマイ。苗字は無い。家族もいない。新宿のスラムでゴミを拾って暮らしている。決まった家もない。ストリートチルドレンというやつだ。まったくこの世界はハードボイルド過ぎる。中高生向けじゃなかったのかよ。
「マイは何歳?」
俺は訊いた。
「16歳」
16歳! 一個下かよ。小さすぎる。140センチないかも。俺の妹は12だけど、それと同じぐらいの背丈だ。貧しいから発育が悪い、という事かもな。切ないな。
「高校生?」
「ううん、学校には行ってない。だけど給食がもらえる日があるから、時々小学校に行くよ」
マイが笑顔で言った。
「そうなんだ……」
キツい。やたらと悲しくなってきて、俺はこれ以上質問ができなくなった。
新宿のスラムまでマイが案内をしてくれる事になった。道中には柑橘類の木が点々と植えられている。そこを辿っていけばゴキブリを避ける事が出来るそうだ。
こっちだよ、と言ってマイが何度も振り返りながら案内をしてくれる。優しい子だなあ。薄汚れてるから気付かなかったけど、よく見るとかなり可愛い子だ。目がぱっちりしていて愛くるしい。
「なんで……って聞き方は変かもしれないけど。どうしてそんなに親切にしてくれるの?」
俺は訊いた。
「うーん、どうしてだろう。私もね、大人は怖いし普段は近づかない。でもお兄ちゃんは私のお兄ちゃんに似てるのかな。顔じゃなくて、雰囲気が。私のお兄ちゃんも背が高かったし」
「マイのお兄ちゃんってどんな人だったの?」
「……小さい頃に地雷を踏んじゃって、片足で松葉杖をついてたの。それなのにゴミを拾うのが、すごく上手だったんだよ」
「そうなんだ……」
東京に地雷があるのかよ。やっぱり戦争とかがあったのかな。
「あとね、お兄ちゃん、すごく優しかった。知らない子にも食べ物をあげたりして」
「そっか」
「4年前にね、私が病気になっちゃって、薬が必要になったの。だけど薬は高いから買えないでしょう?」
「ああ、うん」
「だけどお兄ちゃんが、汚染地域にゴミを拾いに行って、お金をたくさん稼いでくれたの。そうやって薬を買ってくれた。そのお陰で私は助かったけど、お兄ちゃんは……。体が凄く汚染されてしまっていて……。それで……」
マイがポロポロと涙をこぼした。
「本当に……優しいお兄ちゃんだったんだね……」
妹の為に、俺も同じ事が出来るだろうか。
俺はマイと一緒にトボトボと廃墟の街を歩き続ける。あ、見えたよ、とマイが言って、遠くの方を指さした。高層ビル街が終わって空が少し開けている。あそこがスラム街か。
「あの……わたし友達と約束があるの。だからここでお別れしてもいい?」
マイが済まなそうな顔をして言った。
「あ、うん! あとは俺一人で行けるよ。本当に有難う」
心細いけど、これ以上この子に迷惑をかけるわけにはいかない。マイの服はボロボロで、髪の毛はボサボサだ。荷物は、小さくてくすんだ赤いハンドバック一つだけ。こんな世界で、よくも一人で生き延びているよな。
じゃあね、と言って、マイが手を振りながら駆け出して行った。その背中を少し見送ってから、俺はスラムの方へ向かって歩き出した。
「お兄ちゃん!」
背後からマイの声がした。
「あ、はい!」
俺は驚いて振り返った。マイが俺の方に駆け寄ってきた。
「名前を聞くの忘れてた。お兄ちゃんの名前、教えて?」
少し恥ずかしそうにしてマイが言った。
「山本拓矢(やまもとたくや)と申します」
俺は丁寧にお辞儀をして言った。
「タクヤ」
「うん」
「タクヤ、お腹すいてる?」
「……うん」
マイがハンドバッグから何かを取り出した。
「これ、あげる」
マイが俺の手に何かを強く押し付けた。そして、あっという間に走り去って行った。呼び止める暇もなかった。
俺は手渡された物を見る。四角く折りたたまれたハンカチだ。ハンカチを開いたら、割れたビスケットが2枚入っていた。マジかよ。
マイ……小さくてやせっぽちだったじゃん。それなのに、大切な食料を見ず知らずの俺にくれたのか。なんでだよ。お兄ちゃんに似てたから? それだけで、こんな親切が他人に出来るのか?
涙が溢れて止まらなくなった。だけど立ち止まってはいられない。俺は大きく息を吸い込んで、吐き出した。そして、煙が立ち上るスラムに向かって歩き始めた。
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