第4話 いつ手を出されてもいいよ。君になら
「じゃあ、私は寝るから。名古屋で起こしてね」
二人掛けのシートで窓側に座ってはしゃいでた春海さんは、新幹線が走り出した早々に駅弁を食べたかと思えば、新横浜を越え、小田原を通り過ぎて少しした辺りでうつらうつらとし始め、やがて眼をこすると、それだけ言い残してこてんと寝てしまった。
「……」
いや、いいんだよ。いいんですよ、別に。移動時間中に寝てたって。
たださあ、話し相手が欲しいからって誘っておいて、自分だけさっさと寝るのはどうかなって思うんですよ。
「襲ってやろうか」
思わずそんな恨み言のひとつも漏れてしまう。
「……キスならいいよ」
「──!?」
突然の囁き声にビクリと反応してしまう。え、待って。起きてるの?
「びっくりした?」
片目だけひっそりと開けてこちらを見やる春海さん。その眼差しに心臓の裏側をサラリと撫で上げられた気分になって落ち着かない。
「寝たんじゃなかったんですか?」
「寝るよ。これから寝る。今のは起こし方のリクエスト。やっぱり目覚めはキスかなって」
「どこのプリンセスですか、春海さんは」
「さあ。それは肇君が決めて」
すぅ、と聞こえてくるのは、静かな寝息。って、寝るの早っ!? つい今まで喋ってたよね?
「……びっくりしたぁ」
今度は春海さんに聞かれないように、口の中だけで呟く。地獄耳なんだか勘がいいんだか。
「すぅ……、すぅ……」
寝息に惹かれ自然と見てしまった寝顔は、悔しいけどキレイだ。
黙っていれば美人。これほどこの言葉が似合う人も珍しいと思う。
そして改めて自分の状況を振り返った時に、途端に落ち着かない気分になる。
まさか、春海さんと二人きりで旅をすることになるなんて。
こんな経験、高校の友達は誰一人として経験したことなんてないだろうし、普通に生きてるだけじゃ、一生起こるはずもないのだ。
そう考えると、この時間がとても特別なもののように思える。
「……はぁ」
ひとつ、息を吐き出す。
そして思いなおす。春海さんとの時間が特別なのは、何も今に限ったことじゃない。初めて会った時からこの人との時間は、他の誰とも違うものだったんだから。
▼
うちの両親は世間一般と比べてもかなりの自由放任主義だ。逆に言えば、俺が小学5年になるまでの間は、2人とも自分たちのやりたいことをそれなりに我慢していたのだと思う。それぐらい、息子の俺から見ていても、仕事をしている2人は人生を楽しんでいる。
商社の営業として働く父も、旅行代理店の企画担当として働く母も、それぞれにやりたいことをやっている。そんな自分たちの姿を見せていて、息子である俺に何かを強制するのは違うと思ったのか、俺が小学5年になったその日に、両親はこう言ってきた。
『肇も自分のやりたいことをやってみるといい。やりたいと思ったことをやっていれば、何が自分に向いているのかが見えてくる。その経験が、人生の糧になる』
いや、小学5年の息子に言うことか? と今にすれば思うけど、その時の俺は素直に両親の言うことに頷いたのだった。
そしてその後からだ。これまでたくさんあった家族としての時間よりも、阿澄家の3人がそれぞれの時間も大切にするようになったのは。
『今日から1週間はヨーロッパだ』
『私はアメリカ。肇、家のことをお願いね』
『わかった』
俺が中学に上がってしばらくした頃には、こんな会話が日常的になっていた。友達の話を聞いていればちょっと特殊な家庭環境だとは思ったけれど、俺にとってはこれが普通だったせいか、家に一人でいても寂しいとか不安とか感じることはなかった。
逆に、勉強に打ち込みたいときは勉強をし、遊びたいときには心行くまで遊ぶ。そんな時間が過ごせるのを喜んでいた。
だってそのおかげで、日常生活の中でも、自分で考えて決めなきゃいけないことが多いのだと知れたから。
そのせいで、同級生が妙に子供っぽく見えてしまうようにもなってしまった俺だから、早く大人になりたいと、思うようになったのは不思議でも何でもなかった。
俺も両親のように自分のやりたいことをやって人生を楽しめるカッコいい大人になりたいと、そう思っていたんだ。
だからこそ、高校1年になって早々、うちの前でぶっ倒れている春海さんと出会った時も、あんな風に思うことが出来たんだ。
▼
「何してるんですか?」
深夜と呼ぶには早いけれど、高校生が出歩いていたら見咎められるような時間帯に帰宅した俺は、家の前に『何かが』いるのを見つけた。
「──?」
なんだ? と警戒しつつ徐々に近づいていけば、それはどうやら人の形をしていて、どうやら女性であるらしいことがわかってきた。
そうすると今度は、なんで? という疑問が大きくなってくる。
なんで女の人がこんなところで倒れているんだ?
「あの、大丈夫ですか?」
何かあったら大変だって思っていたのもあるけど、それ以上に今のままだと家に入れない。4月とは言え、まだまだ寒い。早く風呂に入りたかった。
「ん?」
しょうもない美人。
それが春海さんに対する第一印象だった。夜目に見ても美人な顔立ち、しかしそれを台無しにするどうしようもない出で立ち。はっきり言ってしまえば、だらしない人だった。
「君は誰?」
「あなたが誰ですか」
「私ー? 私は槻木春海。君は?」
「……阿澄、肇」
こんな人に名乗ってもいいのだろうかと思ったけど、それでここからどいてくれるならいいかという気持ちの方が大きかった。
「そっかー、肇君かー。じゃあ、だっこして」
「は?」
「だっこ。寒いの」
いや、意味がわからない。なんでいきなり見ず知らずの女性を抱きしめなければならないのか。というか、さっさとどいて欲しい。寒いし。
「んー? どこここ」
「俺ん家の前」
「そっかー。じゃあ、泊めて」
「は?」
「寒いの。帰るのもめんどくさいの。だから、泊めて」
いや、何言ってるんだ、この人は。初対面未満の人間に何でいきなりそんなことが言えるんだ?
「? ああ。泊めてくれるお礼が必要?」
「いや、そんなことは、ない、ですけど」
戸惑う。なんだ。なんでそんなに当たり前のように振る舞っているんだ?
「家族に迎えに来てもらったりしなくていいんですか?」
「いいよ、そんなことしなくて。私は今、君の家に泊まりたいんだもの」
その言葉を聞いた瞬間、スッと入ってくるものがあった。それは納得感だった。
この人はきっとうちの両親と同じ考え方をする人だ。
だから俺は、それ以上何も言わずに春海さんを家に上げたんだ。
▼
「春海さん。起きてください春海さん。名古屋に着きましたよ。次、京都です」
本当に宣言通りずっと寝てたな。俺も途中ちょっと目を閉じたけれど、まさか春海さんの方が長く寝ているとは思わなった。
「……んん? 何ぃ?」
「もうすぐ名古屋です。京都に着くまでは目を覚ましてください」
「……もうちょっと寝てたい」
「ダメです。起きてください」
在来線と違うのだ。新幹線で寝過ごしたらどうなるかなんて、俺より春海さんの方がよく知っていそうなものだろうに。
「肇君のケチ」
「春海さんの理不尽に比べればこの程度なんてことありません」
「どういうこと?」
「話し相手が欲しいって言ってたくせに速攻で寝たことです」
結構暇だった。SNSを眺めてるぐらいしかやることがなかった。
「お詫びにキスでもしてあげようか?」
「まだ寝ぼけてるんですか?」
「ううん。起きてるよ」
「確かに、冗談を言うぐらいには目が覚めてるみたいですね」
「釣れないね、肇君は。初めて会った時もそうだった」
「その話、今します?」
春海さんとの初対面を思い出してただけに、なんか気恥ずかしい。
「だって君、泊めてくれたお礼にキスぐらいならしてあげるよって言っても、『そういうのいいんで、早く帰ってください』って言うだけなんだもん」
「そりゃ、見ず知らずの女性にそんなことできませんし、春海さんを家に泊めたのは俺が決めたことで、俺の責任ですから。対価として何かを貰うことなんて出来ませんよ」
「君のそういうところ、めんどくさいよね」
「春海さんに言われたくはないです」
「どう言う意味?」
「自分の胸に聞いてください」
そう言った瞬間だった。ふっといい香りがしたかと思えば、春海さんの顔がすぐそばにあった。
「──いつ手を出されてもいいよ。君になら」
「!?」
「こうやって耳元で囁いちゃうところ? 私のめんどくさいところって」
「……人をからかって楽しいですか?」
「うん。肇君をからかうのは私の趣味だからね」
「最低ですね」
へへ、と笑いながら離れる春海さん。その笑みは出会った頃から変わらない。自由で飄々としていて、マイペース。
こういうところなんだよなぁ。俺がつい春海さんのことを許してしまうのは。
彼女と一緒にいるのはどうにも気持ちがいい。ペースを握られているようでいて、さっぱりとした距離感。それが春海さんとの間にはある。事実、彼女との時間を得難いものだと大切にしている。
「ういろうって美味しいんだっけ?」
「はい?」
「名古屋に着いたから。ほら、売店でも売ってる」
「……いつの間に」
思いを巡らせているうちに、新幹線は名古屋駅へと滑り込んでいた。なんか癪だ。
「名古屋から京都って近いんでしたっけ?」
「どうだろう。割とすぐだった気もするけど。うーん、京都に着いたら何しようかなー」
「とりあえず寺社仏閣を見て回りましょうよ」
「美味しいもの食べてからね」
「春海さんって花より団子ですよね」
「食こそ人間にとって最大の娯楽だからね」
こうやって軽口を叩ける関係が楽しい。
春海さんと出会ってからの一年間で、俺はそんな風に思うようになっていたけど、それも彼女と心地いい関係でいたがための言い訳なんじゃないだろうかと思ってしまう。
こういうところが春海さんに言わせれば『真面目で頑固で融通がきかない』ということなんだろう。……悩みは尽きない。
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