第36話 それでもお姉ちゃん
春田の部屋で集まった心たちを見つめる理貴。
彼女は荒い呼吸に合わせて乱れた髪を揺らす。怒りとも悲しみともつかない強張った表情に薄っすらと涙を浮かべた瞳が痛ましい。
「どうして…………」
最初、心は理貴が何と言ったのか聞こえなかった。
ただ、微かに動く彼女の唇を見るのは辛いと感じた。
「どうして、私の過去を話したの……?」
涙の混じった声は、擦れていて、それでも心の耳にはしっかりと届いてしまう。
それに答えようとしたのは春田だった。
「それは……」
彼は、父に会った以上心だって知るのは時間の問題であり、隠し通すことは不可能だと考えていた。だからこそ事情を知る自分たちから心に教えようとしたのである。
しかし春田が口を開いたそのとき、すかさず権蔵が制した。
権蔵は何も言わない。もちろん権蔵ほどの人物であれば理貴に対して如何様にも言えるだろう。だが、それは許されない。彼女にだって言いたいことがあるのだから、関係者としても友人としても、それを遮ることはしない。
「お姉ちゃん、ぼくは……」
「心……」
次女は自分を「心」と呼んだ。物心ついたときから「ココロちん」と呼ばれていた彼は、このとき初めて純粋に名前を呼ばれた。怯えたような、悲しむような声で。
「私、今日まで隠して来たのに……」
ずっと佐倉理貴として生きてきた。昔乃理貴だったとしても、弟の前では「お姉ちゃん」でいたかった。でも、知られてしまったのならもう戻れないのかもしれない。
理貴は逃げ出したかった。彼女をこの場に引き留めるのは心の存在だ。心が見つめるから理貴は留まっている。
「お姉ちゃん、ごめんね」
理貴は心をまともに見れなかった。心は悪くないのに、自分の態度のせいで彼を傷つけている。大切な弟の顔を悲しみで染めてしまう。
「心……」
理貴はどうすればいいのかわからなくなった。人生でこれほど自分を見失ったことなんてあっただろうか。出生のことを知ったときだって困惑こそすれ、生みの親に会うという目標とそのための計画がすぐに浮かんだ。大人たちによってその道が閉ざされても椛と心がいれば挫けなかった。愛し合い、支え合う家族。大事な弟。
「私、どうしたらいいの……」
自分は何をしているのだろうか。どうしたら良かったのか。その答えを一緒に考えてくれたのは、自分が傷つけてしまった弟だった。
「お姉ちゃん、ぼくの話を聞いてくれる?」
「……うん」
理貴がどんな気持ちなのか心にはわからないけど、不思議と迷わずに行動できる。きっと、純や真希、春田と関わったことが心に力を与えてくれているのだろう。何より心自身、理貴に「心」なんて悲しい声で呼んでほしくないのだ。
「お姉ちゃんのことを勝手に知ろうとしたのは悪いことをしたと思ってる。でも、ぼくはお姉ちゃんのことを知りたかった」
理貴は自分がどんな目をして心を見ているのかわからない。
「ぼくは、お姉ちゃんを酷く言われるのが辛かった。お姉ちゃんの辛そうな顔を見たくなくて……」
心は言っているうちに辛くなってきた。昨晩の理貴は、一夜明けてなお心の瞳に焼きついている。涙を滲ませたその顔を背けて、行き場のない感情にかき混ぜられた姿で今も目の前にいるのだ。
「心……っ」
心が泣いてしまう。
理貴は心の様子を見て、反射的に一歩踏み出した。一歩踏み出すと、二歩目も三歩目もすぐに踏み出せた。
歩きながら、理貴は昔を思い出した。
自分は物心ついたときにはすでに佐倉の次女として育てられていて、昔乃の一族だなんて知る由もなかった。
でも、佐倉の両親は良くしてくれたのにどうしてか寂しくなるときもある。そんなときはいつも椛が一緒にいてくれて、いつかは自分も彼女のように優しいお姉さんになるのだと決意していた。
心が生まれて、初めて彼を抱いたとき、赤ちゃんの重みを知った。姉として振る舞うことの意味を知った。
そして、今、弟を守る姉になるんだという決意を思い出した。
「心」
さっきよりかは幾分力のある、はっきりとした声で呼びかける。
彼の頬に手をあてて、自分の胸元に抱き寄せた。
「お姉ちゃん?」
「ごめんね。心はお姉ちゃんのことを大切に想ってくれてるのに、お姉ちゃん、心のことを信じ切れなかった……」
本当に、何を迷っていたのだろう。素直に言えるじゃないか。
心も理貴を抱きしめかえす。
「ううん。お姉ちゃんは僕のことを信じてくれてるよ」
どうして隠し通そうだなんて思っていたのだろう。優しく受け止めてくれるじゃないか。
理貴は彼の温もりを胸いっぱいに感じながら、幼いころの彼を振り返った。
彼が雷を怖がったり、怪我をして泣いたりすると、理貴はいつも彼を抱きしめていた。
あの頃より大きく、綺麗になった弟は、姿を変えてもその優しい本質を変えないまま自分を救ってくれる。
心の成長を感じた理貴は、自分を「お姉ちゃん」と呼んでくれる弟を抱擁しつづけた。
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