第24話 あ〜んしてあげる

 朝、心は普段より早い時間に目が覚めてしまった。今日は純とデートだから意識してしまったのかもしれない。

 枕元の時計を見てから、窓に視線を移す。

「早すぎた……」

 純との待ち合わせ時間にはまだ大分あるが、かといって二度寝する気にもなれない。荷物の確認でもしようかとベッドから抜けた心はバッグや服をチェックするものの、そんなものは前日にこれでもかというほど繰り返した。

「今から着ていく服を見直したら、絶対に迷うよね」

 流石にそんなことはしない。せっかく他の服への未練を断ち切ってワンピースに決定したのだ。

「……いけない、帽子だって決めたんだから……」

 今更変更するつもりはないが、純にどの姿を見てもらいたいかで言えばワンピース以外の幾つかの服も最終候補だった。今回は真希に買ってもらった衣服でコーデしようと決めたために心は頭を悩ませた。

「真希さん、たくさん服を買ってくれたんだよね」

 クローゼットの中に収めただけでも多くの服がある。散々悩んだ末にワンピースで行こうと決めたのだ。

 純に会ったら真希と過ごした話もしたい。過去の話は真希だけでなく純にとってもデリケートな話題かもしれないけど、服を買って貰った話とかはしてもいいだろう。

「ゆっくり話とかもしたいな」

 デートどころかまともに会うのだって久しぶりなので、ゆっくり顔を合わせて会話したい。そのとき、心の頭にあることが思い浮かんだ。

「そういえば、今日は映画を観に行くんだよね」

 純と決めた映画館の近くには、最近オープンしたばかりのカフェがあったことを思い出す。友人の話ではパフェが人気らしいので純と一緒に行ってみようか。

 そんなことを考えながら心は朝の一時を過ごした。


 朝の日差しが週末の街を照らす。心と純が待ち合わせ場所にした映画館は心の自宅から徒歩で行ける距離にある。住宅街から公園を越えて行った先のショッピングモールに目的の映画館はあった。かつて純と再会した思い出のあるこの公園を通り抜けると、心の胸に微風が吹いたような気分になる。

 公園にはジョギングする男性や犬の散歩に精を出す老人などが見える。彼らは軽装で涼しい格好をしていた。

 今はまだそうでもないが、もう何時間もしないうちに暑くなってくるだろう。

 皆、暑くなる前に済ませようとしてこの時間に公園へ来たのだ。

 すれ違う人々を横目に見ながら心が歩き続けると、ショッピングモールの前にいる純を発見した。手を振ると向こうも気がついたようでこちらへ向かってくる。

「おはよう純さん」

 心が笑顔で挨拶すると、純も柔和な笑みを見せてくれた。

「おはよう。今日はワンピースか。心はスマートだから何を着ても似合うな。帽子やバッグの組み合わせも良いじゃないか」

「うふふっ。ありがとっ」

 心は純の褒め言葉で頬を赤くする。どの服を着るのかで悩んだ甲斐があった。

 上機嫌になった心は純の目の前でくるりとターンをして見せた。

 今日の心はブラウスと紺色のジャンパースカート。バッグも普段と違ってエンベロープ・バッグを使ってみた。通気性の良いパナマ・ハットをかぶり爪先の露出したブーサンを履いて、ペディキュアの塗られた綺麗な指を見せている。ヒールの高い履き物はあんまり慣れていないが、何度か歩く練習などもしたので大丈夫だろう。ターンが終わる時、純が驚いた顔をしていた。

「よく見たらいつものブーツを履いているんじゃないんだな。なんだか新鮮だ」

 純はブーサンに気がついてくれたようで、足元への感想をくれる。ブーサンもブーツとサンダルを融合させた造語らしいので広義ではブーツかもしれないが、足元を露出させるという意味では珍しい格好に違いない。

 ご機嫌な心の笑顔につられて、純の表情もいつも以上に柔らかく見える。

 映画館に到着した二人を冷房の世界が迎え入れる。外気との差で少し寒いくらいに感じているが、ほとんど汗をかいていなかったのでしばらくすればなれるだろう。純が受付をしている間に心は飲み物などの買い物を済ませて座席に着いた。

「今日観る映画は動物のドキュメントだったな」

「うん、ぼくはこれが楽しみだったんだ」

 純は半券を見てつぶやく。心が観たいと言ったので了承したが、ドキュメントを観たがるとは思わなかったのだ。

「私も、心のことを知らないんだな」

 純の独り言は上映を知らせるブザーに掻き消された。


 映画の序盤は可愛らしい動物たちが映されていた。それは純も癒されるほどの愛らしさで、心もこの場面が観たかったのだと思った。だがしばらくすると雰囲気が一変、過酷な環境で命を落とす動物や捕食動物に狩られていく雛など冒頭のシーンが遠い彼方に行ってしまうほどシビアな内容が続いていく。

 あまりのギャップに心がショックを受けているのではないかと心配した純が心に視線を移すと、スクリーンの光を受けた心は真剣そのものの表情で映画を鑑賞していた。その顔は制作者が試写で映画の出来栄えをチェックしていると言っても信じられるほどだ。

 純は再び心からスクリーンへと視線を戻す。丁度、捕食動物が口の周りを血塗れにして獲物を食べるシーンが純の瞳に映った。


「すごい迫力だったねっ! まさかあんな生態があったなんて」

 映画が終わると、興奮した様子の心が純に話しかけた。冒頭と最後の一部分以外は可愛らしい動物よりもシビアな自然の摂理やグロテスクにも思える捕食シーンなどが多かった気がするが、心はそこも含めて感動していた。

「確かに、次は別の生態系についても撮影してほしいと思える内容だった」

 なんだかんだで純もしっかりと観ていた。内容もそうだが、心のことを少し知れたので二度美味しい映画鑑賞だったと思う。

 映画館を出た二人は時計を確認する。映画を鑑賞したことで時間は昼前になっていた。今はまだ人も少ないが、週末なので昼過ぎになると混み出すだろう。

「ちょっとお茶でもするか」

「なら、ぼくは行きたい店があるんだけど、いいかな?」

「ああ、構わない」

 涼しい館内を出て、心と純は日差しの強くなった外の世界へと戻る。

 カフェまでは近いので徒歩で行くことになった。

 眩しいほどの日光が照りつける街中では、帽子を着用して歩く男性や日焼け対策に長袖を羽織る女性などが多く見える。

「暑いね」

 心はハンカチで汗を拭きながらそう言った。心のそんな仕草に、純は見惚れてしまう。

 しっとりとした素肌に汗が伝い、太陽に照らされて輝く。帽子の陰になった心の顔は、周囲から反射した光によって照らされた瞳が拭き取られた汗の代わりにその存在感を放つ。少年というより少女にしか見えない心の姿は、夏の日差しと相まって何処か艶やかだ。

「どうしたの?」

 心は無口になってしまった純を不思議に思う。純も声をかけられて自分が心に釘付けになっていたことを自覚した。

「心は綺麗だなって、改めて思ったんだ」

「〜〜〜〜っ!?」

 思ったことを正直に口にした純だが、想像以上に照れくさい。それは心も同じだったようで、帽子の陰になっていてもわかるほどの紅潮が見て取れる。

「も、もうっ! そんなこと言って……嬉しいけど……」

 不意打ちの言葉に、心は困惑してしまう。嬉しさと驚きの合わせ技が心の精神と思考をショートさせた。彼の身体は気温以外の熱で上せかける。

 少し経つと心はもじもじしながら体を近づけてくる。

 なぜ暑いのに心が近づいてきたのか純にはわかった。

「心、手を繋ごう」

「うん」

 照れと体温の上昇によって朱色になった心の手を、純は優しくとった。

 純の予想は的中し、心も純の手を握り返す。

 なぜ心が手を繋ぎたがったのがわかったかと言えば、純も繋ぎたかったからだ。

 交際が始まった日、キスだってしたのに、今は手を繋ぐことにさえ照れてしまう。でもそれは関係が後退しているわけではなくて、会えない時間が二人に新鮮さを与えたからである。心に関して言えば、真希を通じて純のこと知ったのも大きい。改まったデートがお互いを恋人として認識させているのも要因だ。

「最近、あんまり会えなかったね」

「そうだな。ほったらかしてしまってすまない」

 純の目には謝意が表れている。別に心は責めているわけではない。

「ううん、純さんも大変だったって真希さんから聞いてるし、ぼくはこうしてデートできるから大丈夫だよ」

 心は「でも」と付け足す。

「もうちょっと会いたかったかな」

「寂しかった」とは言わなかった。ただ、会いたかったと言った。彼なりに気を遣ったつもりだったが、純にはわかってしまう。

「私も会いたかった。今日だけでは難しいが、これから埋め合わせをしていこう」

「うん、今日だけじゃなくて……いっぱい会いたい」

 声に出したら、今まで目を逸らしてこれた寂しさが滲み出てしまう。自分たちはまだそんなに深い仲ではないのかもしれないけど、お互いを大切に思っているのは本当だ。

 繋いだ手の平に熱が籠る。心はそれを暑苦しいとは思わない。ただ、大切な人の温もりだと感じられた。

「あっ、ここだね」

 二人の手に僅かな汗が滲んできた頃、目的のカフェに辿り着いた。ショッピングモールから少し離れた位置にある小さいカフェは、太陽光を反射する白塗りの壁と赤い屋根が印象的な店だった。

 休日だが、昼前なのとオープンしたばかりで認知度が低いせいか店内の座席には余裕がありそうだ。

 心がドアを引いて入店すると、取り付けられたベルが音を立てた。

「いらっしゃいま〜せ」

 独特なイントネーションの女性に声をかけられ、席に座る。

 店内は歩くたびにいい音がする板張りの床と壁で、窓と照明の組み合わせもあって明るい雰囲気の店内だ。

 お冷を飲みながらメニューを見ると、友人に教えてもらったパフェが載っていた。『サイズ:大きめ』と書かれている。

「ぼくはこのパフェにするよ。あと紅茶」

「じゃあ、私はこの軽食セットにしよう」

 それぞれ注文したら、少しの間待ち時間ができる。となればカップルのトークタイムだ。心は早速自身のジャンパースカートを見せる。

「このワンピースね。真希さんに買って貰ったんだよ」

「そうだったのか。この前会うって言ってた時か?」

「うん」

 心は買い物を思い出しながら話す。真希が自分に合いそうな服を片っぱしから買ったことや、このワンピースを手に取ったら自分より先に真希が購入してプレゼントしてくれたことなどだ。

「そういえば、子どもの頃、真希と買い物をしていたら最後にブティックへ寄るのが定番だったな」

 心の話を聞いて純の思い出も蘇る。かつての幼馴染を思い起こせば、真希は心のことが気に入っているのだと純にも確信できた。

「真希と心が仲良くなれたなら良かった」

「ぼくも真希さんと会えて良かったよ」

 純は心の嬉しそうな表情を見て安堵した。最初は真希が心のことを疑っていたので心配だった。だが、同時に彼女以上に頼れる人物もいなかった。真希と心からそれぞれ連絡は来ていたが、今日、心の様子を見て自分の心配は杞憂だったのだと思えた。

 純がグラスの水を口にしたとき、二人の注文した料理が運ばれてきた。

 純の方はホットサンドとコーヒー、スープの3点セットだが、心の目の前に置かれたのは大きなパフェだった。心の胸から額くらいまでの高さがある。

「いただきますっ」

「いただきます」

 それぞれ料理を口にする。純がホットサンドを口にすれば心はパフェのアイスをスプーンで削り、コーヒーを飲めばプリンを食べ、スープを掬えば刺さっているお菓子を摘んだ。器が大きいせいもあるのだろうがパフェは中々減らない。

 心の口が小さいのか、それとも量が多すぎるのか。

 ホットサンドを食べながら心を見ていると、視線が交わった。

「ふふっ」

 心はスプーンでパフェを掬うと、純に向けて差し出す。

「?」

「じっと見てたから食べたいのかと思って」

「そうではないのだが……」

「まあ、美味しいから食べてみてよ」

 純が何かを言う前に、心が逃げ道をなくす。

「あーんってしてあげるから」

「いや、そのな……」

「はい、あーん」

「あ、あーん」

 口の中にパフェが入ってきて甘い香りで満たされる。慣れないことをしたせいか胸の奥が焼けるような感覚を覚えた。

 純は今まで知らなかった幸福を感じる。心にあーんってしてもらうだけなのに、一体なぜここまでの感情が芽生えるのか彼にはわからない。

 ただ、心の嬉しそうな表情だけが、純の目に焼きついた。


 カフェを出た二人はそのまま近場の公園に向かった。デートスポットとして知られる広い公園は大きな花壇が特徴で、現在も色とりどりの花が咲いている。

 心と純は園内をゆっくりと散策した。

「ちょっと暑いけど、来てよかったよ」

「そうだな。こんなに綺麗に咲いているんだから、私もそう思う」

 日差しに負けない植物たちは、光を浴びてより一層美しさに磨きをかけている。

「そういえば、純さんは植物に詳しいって聞いたよ」

「それも真希から聞いたのか。昔、私の母と花壇の世話をしていて覚えたんだ。植えてあった花についてはともかく、そんなに詳しいわけじゃない」

 苦笑しながら答える純。

「私の母のことは真希から聞いているか?」

「うん」

 心は何気なく花壇の話題を振ったものの、純の母親のことなのでデリケートな内容だったかもしれない。心配する心を見て、純が声をかける。

「そんな顔をしないでくれ、私にとっては良い思い出なんだから」

 どうやら心の考えていることは顔に出ていたらしい。優しげな純の態度に、心も表情を和らげる。純が気にしていないのならそれでいいのだ。

「もしも私の実家に来ることがあったら、その時は花壇も見てやって欲しい」

「ぼくも見てみたい」

「ああ、ぜひ見てくれ」

 繋いだ手を緩やかに動かして小指を絡める。約束の証に指切りした後は、屋根のついたベンチに腰掛けた。

「日が当たらないだけでだいぶ涼しいね」

 茹だるような暑さではないが、日差しが強いとそう思う。

 園内の時計をふと見れば、想像よりも時間が進んでいることに気がついた。

 まだ日は暮れていないものの、純と会える時間に終わりが近づいているのだと知らされる。

「もうすぐデートも終わっちゃうね」

 寂しいのか、残念なのか、自分でもよくわからない感情だ。

「なかなか楽しいデートだっただけに名残惜しい。でも、また会えるし、これからのデートも楽しいものになると期待できるな」

 純は終わりを惜しむ心とは対照的に、次回への期待を述べる。それを聞いて心も気持ちを切り替えることができた。

「そうだね。ぼくもまた純さんとデートしたいって思えるよ」

 前向きな気持ちになれば、デートが終わってしまう悲しさや寂しさよりも、楽しかった今日の思い出が溢れてくる。

 映画に食事、公園の散策。充実した時間だったが、欲を言えばキスもしたい。

 心は最初、素直にキスがしたいと言うつもりだった。しかし、彼が口を開いた瞬間に強い風が吹いてしまう。その時、心の胸の内にあることが思い浮かんだ。

「純さんっ」

 風で飛ばないように帽子を押さえた心は咄嗟に動いて、振り向いた純にキスをした。

「んっ?」

 目を丸くする純。心も顔を赤くして帽子で表情を隠す。

「これは、さっきのお返し。純さんったらあんな不意打ちをするんだもん……」

 心が言ってるのは純が「綺麗だ」と褒めた時のことだった。普段ならそのくらいのことは察して何か一言くらい言うのが純という青年だが、心からのキスによって半ば放心状態になっている。

 その様子を見れば、心も急に思いついたキスを実行した甲斐があるというもの。何より心自身がキスをしたかったので二つの点で満足だ。

 汗をかくような日のデートは、不意打ちへのお返しという名目のキスで締め括られた。

 帰り際になっても純の唇には心の感触が残っていて、それが彼の精神と思考を掻き乱し続けたのはいうまでもない。

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