第22話 心の知らない二人

 部屋を照らす室内灯の明るさが、真希以外に誰もいない寂しさを浮き彫りにする。真希の部屋は夜間なのも相まって少し寒いくらいだ。

 心を家まで送った後、自室に戻った真希はなんだか落ち着かない。彼女の内側では心と仲良くなれた喜びの余韻と、彼に嫉妬した後めたさの名残が混ざり合っている。

「なんだかなぁ……」

 感情を持て余す真希は携帯端末を取り出し、画面を見つめる。

「純、電話して大丈夫かな?」

 そもそも起きているだろうか。入浴や食事を終えてから部屋に戻ったのでそこそこ遅い時間だ。

 こういうとき、普段ならメッセージだけ送って反応を待つのだが、今の真希はどうしても純の声が聞きたい。

 少し考えて、悩んでいる時間がもったいないと、純に電話をかけた。何度目かの呼び出し音の後、望んだ声が耳に届く。

「もしもし、純だが、真希か?」

「そうそう真希。こんな時間にごめん。今電話して大丈夫?」

「ああ、構わない。珍しいな、こんな時間に電話してくるのは」

 いつもと変わらない口調の純。そんな彼の声を聞いて不思議な感情を抱く真希。

 それは少し寒いような、でも高揚するような想いだった。

「別に……急ぎの用じゃないんだけど、ただ電話したくなっただけ」

 真希は身体の奥が僅かに燻るような気がした。

 彼女の言葉を聞いた純は優しい声で一言。

「そうか」

 とだけ返した。

 真希は純の「そうか」が好きだった。これまでも真希が突然純に電話したり会いに行ったりした時に言われた言葉。この言葉は詮索もせず、そのまま真希を受け入れてくれるような気がする。

 嬉しさが込み上げる反面、胸の奥の温かさの中、微かに突き刺すような痛みを感じる。

 今はもう、純の優しい「そうか」は自分だけのものではないのだろう。彼には心という恋人がいるのだから。

 そう思うと今度はさらに強い痛みが胸に走る。

 その痛みを振り払うように真希は話を切り出す。

「今日さ。心くんと一緒に過ごしてさ、ちょっと羨ましいって思った。私もあんな風に恋をしたかったよ」

 明るい口調のつもりだったが、上手く言えただろうか。真希は何故だか不安定になってきた。

 対する純は真希の想いなど知らないので、普段と同じような声色で返す。

「真希ならできるんじゃないのか? 縁談のときも真希が私に大切なことを教えてくれたしな」

 純の口調から、彼の笑顔を思い起こす真希。

 その笑顔からさらに縁談のことも思い出していく。縁談は二人で破談にしたが、そのきっかけは真希だった。


 縁談が決まった当初、真希はそれが嬉しかった。純のおかげで彼を好きでいる罪悪感に悩まされることもなかったので、彼女は純粋に好きな人と結ばれるという想いで満たされる。

 純も最初は驚いていたが、真希との関係に嫌悪感を示すような言動もなく、次第に二人の会話も結婚が前提のような形になっていった。

 しかし、縁談の話が出てから日数が経ち、いよいよ、結婚の計画を具体的なものにしていこうという頃、真希に変化が訪れた。

 真希は純との結婚は素直に喜べなくなってしまったのだ。

 日夜彼女を襲う不安や心配。周囲に相談しても、それはマリッジブルーだという返答ばかり。

 彼女も初めはマリッジブルーだと思っていた。このぐらつく感情の底にあるものの正体がわかるのは春田と再開した日のことである。


 昔乃家の屋敷に来た春田は真希の様子がおかしいことに気がついた。縁談が順調そうなので一足先にお祝いでも言おうとした春田だが、どうにもそんなことを言えるような雰囲気ではない。

 話を聞いてみれば、どうにも精神が不安定だという。春田は放っておけず、相談に乗ることにした。

「いったいどうしたのさ? この前までは喜んでなかったったっけ?」

 不思議に思う春田。

 話していくうちに真希は自分の胸の内を少しだけ覗いたような気がした。

 そして、なぜ春田に相談してそれがわかって来たのかも理解できた。

「これでいいのかな……」

「何がだい?」

 俯く真希の表情はよくわからない。それでもきっと自分が思っているよりも辛そうな顔をしているのだろうと春田にはわかった。

「このまま縁談が進めば、私は純と結婚する。純はそれでいいのかな?」

 春田に相談してわかったこと、それは純に相談できないことだった。自身の内面に渦巻くこの不安は純に打ち明けることができない。

「それは真希ちゃんの望みでもあるんだろ? 兄貴だって真希ちゃんのことを悪く思ってないはずだし、幸せになれるさ」

 努めて明るい口調で声をかけてくれる春田。その表情からは真希を心配する気持ちが伝わってくる。

 このまま話し続けると春田まで不安にさせてしまいそうだ。

「うん……」

 だから真希はこれでこの話を終えようと返事をする。

 力のない返事を聞いて、春田が何かを言おうとしたとき、予期せぬ人物がやって来た。

「ん? なんだ春田もいたのか」

 部屋の入り口にいたのは純だった。

「あれ? 兄貴、なんでいるの?」

「それはこっちのセリフだ。私は真希に連絡したぞ」

 言われて思い出す。そういえば昨日の夜に純と会う約束をしたのだった。携帯端末を見ると、純からメッセージが来ていた。返信が来ないけど使用人たちに許可を貰ったから屋敷に上がるという旨の連絡だ。

 どうやら春田との話に気を取られて気が回らなかったらしい。

 春田との会話で気がついた純との将来への不安。その気持ちの整理がつかないまま、純と会ってしまい動揺する真希。

 そんなとき、春田が真希にだけ聞こえる声で彼女を励ます。

「真希ちゃん。俺は真希ちゃんのことを全部わかってあげることはできないけど、真希ちゃんに幸せになってほしいって思ってる。だから、大切なことや心配なことは兄貴にもちゃんと相談して」

 そう言って立ち上がると、座ったままの真希に「兄貴だって真希ちゃんが大切だからね」と最後に付け加えて部屋の出入り口に向かう。

「春田は帰るのか」

 少し残念そうな純へ、春田はにこやかに答える。

「うん、真希ちゃんとの話は終わったし、兄貴だって用事があるんでしょ? 真希ちゃんの話もしっかり聞いてあげるんだぜ」

「ああ、わかった」

 短いやり取りだが、純の返答に満足したのか春田は真希に別れを告げて部屋を出て行く。

 残された純は真希の元へ歩き出す。春田に気を遣って部屋の入り口で待っていてくれたのだ。

 純が来るまでの僅かな時間で、真希は決意を固める。春田が背中を押してくれたことで純へ相談する気持ちになれた。何より、こんな気持ちで純と結婚しても、双方にとっていいことがないのだ。

「ねえ純。純は私と結婚したい?」

 震える手を握りしめて、椅子に腰掛けた純へ問いかける。純は複雑な表情で返してきた。

「正直に言うと、わからない。私はこれまで真希に対して幼馴染や友人として接してきたつもりだ。新しい関係が築けるか不安もある」

 好きな男性の正直な想いを聞いて、僅かに悲しみを覚えるものの、どこかで予想していたような気がした真希。

「純……私も純と一緒になって、幸せになれるかわからない。ううん、きっと幸せになれる。でもずっと幸せではいられないような気がするの」

 少し気持ちが先走ってしまいながらも言葉を紡ぐ。

「純は、人を好きになることと好きであり続けることは違うって教えてくれたでしょ。きっと幸せも同じだと思う。幸せになることと、幸せであり続けることは違う。私はこんな形で結婚したくない」

 純との結婚自体は真希の願望でもあった。でもその理由が両家の関係強化や資金繰り、財閥とグループの閉塞感を打開するためというのは、なんだか自分の恋心が利用されているような気がして嫌だった。

 純に悪いことなんてない。ただ、自分がもっと早く想いを打ち明けていれば結果は変わったかもしれない。そうわかっていても割り切れない。

 真希は涙を流しながら純に抱きつく。純は真希を抱きしめ、胸に寄せた。

「真希……すまない……」

 その一言が全てだった。ここで真希の恋は終わってしまった。

「うう……うっ……」

 真希の嗚咽が寒い部屋に響く。真希に残されたのは、想いを寄せた青年の腕の感触と胸の温かさだけだった。

 この日を境に、2人は縁談を破談にするために動き出すこととなる。


 時間は戻り、通話中の真希と純。

 電話越しの純は真希に謝罪する。

「あのときは悪いことをしたと思っている。私の曖昧な態度や不甲斐なさが真希を傷つけてしまった」

 真希は申し訳なさそうな顔の純を想像して少し口元が緩む。純のこういうところも真希が好きになったポイントだった。

「もう気にしてないよ。純も大変だったってわかってるし」

 椅子の背もたれに寄りかかって、笑うように返す真希。

「今更だが、私は真希に感謝している。あのとき真希が私に、こんな形で結婚したくないって言ってくれなければ私は成り行きで結婚していたかもしれない」

 少し真剣で、でも温かい声が真希に届く。

「私自身、あのときはそれが正しい道だと思っていた。真希と結婚するのが嫌だったわけでもないしな。でも今思うと真希ほど自分たちの将来を考えていなかったかもしれない。そのとき、真希が自分たちで道を切り開くきっかけをくれたんだ。ありがとう真希」

 突然のことに驚く真希。あのときの自分はそこまで考えていただろうか。思い出して彼女はまたも笑いながら訊ねる。

「急にどうしたの?」

 純も釣られて軽く笑いながら言う。

「話しているうちに昔のことを少し思い出してな。真希は私と初めて出会ったときから、ずっと仲良くしてくれて、いつも気にかけてくれたじゃないか」

 言われて様々な思い出が蘇る。真希の思い出の中にはいつも純がいたような気さえする。

「そうかもね。ふふ、心くんと過ごして色々思ってたけど、なんだかスッキリした。電話付き合ってくれてありがとね。純」

 真希は吹っ切れたような気分になれた。

 もし、あのとき縁談を進めて純と結婚したら、どうなっていたのだろうか。純は真希のことを大切にしてくれただろう。時間が愛を育んでくれただろうし、困難も乗り越えて行けたかもしれない。

 しかし、真希は過去の選択をやり直したいとは思わない。

 自分は今、幸せだと胸を張れる。

 そう思えるようにしてくれた春田や純、そして出会えた心に真希は感謝した。

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