第20話 好意は嘘じゃない

 カップに口をつける心は、先ほどまで感じていた紅茶の熱が冷めていくような気がした。真希と純の話は家の問題という心にとって未知の領域の内容だった。それでも明るい話ではないことくらい心にもわかる。

 そんな心の様子を見てか、真希は少し笑いながら声をかけてくる。

「あ、そんなに深刻に考えなくて大丈夫だよ。私たちは今こうして良好な関係を続けているんだし、今話してる内容だって純から了承してもらってるやつだから」

 いきなり昔の話をして困らせたのかもしれないと真希は内心反省していた。そんなことをしたのは、純と結ばれた心に無自覚のうちに嫉妬していたのかもしれない。

 そんなことを考えて自己嫌悪に陥りそうになる真希。その思考は純に恋をしたときの記憶を甦らせる。

「心くん……私の話、もう少し付き合ってくれるかな?」

「ええ、聞かせてください」

 少し前の深刻そうな表情はどこへやら、穏やかな顔で話を聞く体勢に戻る心。

(ああ、きっと純はこんなところに惹かれたんだな……。これじゃあ私は無理だったかも)

 心の様子に敵わないと感じた真希。そう思うと、色々と吹っ切れるような気がする。真希は話の続きを聞かせる。それはただ苦い昔話だった。



 本格的に当主の跡取りとして雪彦がその才を見せ始めた頃、真希と純は十代の後半だった。由貴夫人の死から立ち直った純は、雪彦のような天賦の才はないにせよ、勤勉で高い能力を有し、手堅い思考や行動から周囲の信頼を得ていた。

 この頃の真希はまったくと言っていいほど雪彦と会う機会がなく、代わりに純とは頻繁に会っていた。

 普通に考えれば昔乃グループの跡取り娘が、家同士が親密とはいえ同年代の男子のもとへ足繁く通うなどあまりいい目で見られないだろう。しかし、当時の今守と昔乃はより強固な関係を結ぼうと考えていたため、真希と純の結婚も視野に入れており、むしろ二人が会うのならそれを優先して予定が変更されることさえ多々あった。

 その日、真希は純の部屋の椅子に座り本を読む。外国語で書かれた物語だが、真希は読むことができた。そのすぐそばの机では部屋の主がいくつかの資料を見ながら書類にメモを記入していた。

 このとき、純は雪彦を手伝う形でいくつかの事務を任されていた。当人も適材適所だと納得しており、仕事のあるときに真希が会いに来たら、その仕事が終わるまで読書で時間を潰すのがいつもの二人だった。

 書類を封筒に入れ、呼び出した使用人に渡す純。どうやら仕事が終わったらしい。真希は読みかけの本に栞を挟むと、純に向きなおる。

「さて、今日はどうするか」

「別にお喋りするだけでもいいけど」

 真希の素っ気ないとも思えるような返答に純は「それもそうだな」と頷く。

 これまでの純は「本題は何だ?」とか「先に用件を聞いておこう」とか言ってばかりで「ただ会いたかった」という真希の想いとはかけ離れた対応だった。

 それを踏まえれば、今の会話はむしろ関係の進展だとも言える。

 そう、真希は「純に会いたい」と思っている。

 真希が純への好意を自覚したのは最近のことだった。

 しかし、これは片想いだろう。純はいつでも真希を迎えてくれるが、それは親しい幼馴染が遊びに来ているという認識に過ぎない。それこそ、親同士が婚約でもさせない限り、これ以上の関係の進展はあり得ない。

 真希の恋心を知らない純は話を振っていく。

「そういえば、春田がこの前真希に会いたがっていたぞ。」

「え、春田くんが? そういえば最近あってないね」

「ああ、都合が合えば、今度会いに行こう」

 純たちの弟である春田のことは思いがけない話題だったが、真希もなかなか会う機会がないため、来週くらいに会いに行こうと決めた。

 それ以外は他愛もない会話をして、いつもどおり時間が過ぎていった。

 問題は純と共に春田の住む屋敷へと向かった日に起こる。

「やあ真希さん、よく来て下さいました」

 遊びに来た真希たちを春田は笑顔で出迎える。

「兄上もご足労いただき恐縮です」

「急にどうしたんだ? いつもは、よく来てくれたね兄貴、と言ってるじゃないか」

「いや、そこはお客様の前だからさ。言っちゃダメだよ兄貴」

 純のカミングアウトに春田は笑いながら返す。

 十代半ばの春田は、純や雪彦とは違った、背丈は年相応だが童顔の男子だ。愛らしさのある顔立ちと、少し茶色がかった髪を三つ編みにしているのが特徴。

 春田は現在、純や雪彦とは別の屋敷で、春田の母と祖父(今守当主の父)と共に暮らしている。

 春田は真希との再会を喜び、純とも最近のことなどを話した。

 その後、純は祖父たちに挨拶してくると言って、その場を離れる。

 真希は挨拶しにいくなら自分もついて行こうとしたが、春田に止められる。

「兄貴はついでに込み入った話をするつもりだから、あんまり気にしないで」

 丁寧な口調から、過去にあったときの親しげな話し方に戻る春田。

 そう言われては出過ぎた真似はできない。しばらくの間、春田と二人きりになる真希。事情があるなら仕方ないと春田と真希がお喋りをしているときに、予期せぬ来客が現れた。

「春田、元気にしてたか? 真希さんも久しぶりだね」

 屋敷に現れたのは雪彦だ。しかし、真希は幼少期のように親しく会話できるような心境ではない。由貴夫人の死後、雪彦は変わってしまった。

 外見は昔の面影があるのに、纏う雰囲気は別人だ。

「雪兄、くるなら連絡くれればよかったのに」

 雪彦を見た真希の様子を察したのか、春田が前に出る。

「急で悪いと思ってるよ。お祖父様に用事ができてね」

 あくまで表面上はかつて真希が恋した男の姿で、雪彦は笑う。

 真希は何だか怖いような気がして、うまく話ができない。そうこうしているうちに、雪彦は別れを告げて春田たちの元を後にした。

 次期当主がいなくなってしばらくすると、真希はその場にへたりこんでしまう。

「大丈夫かい? 顔色悪いよ」

「少し、お手洗いに行かせて」

 春田の手を借りて立ち上がる真希。手洗い場は春田が案内すると言ったが、一人になりたい真希の口実だったので、断った。

 ふらふらと屋敷内を彷徨う様に歩く真希。

 その頭の中は、雪彦のことでいっぱいだった。

(雪彦さんが怖い。何だか違う人になってしまったみたい……)

 胸のうちに僅かな、しかし確実に存在する恐怖を処理できないまま歩いていると、何やら言い争うような声が聞こえてきた。

 今守家の屋敷の中で言い争いなどあるのかと、気になって少し近づいてみる。どうやら奥のドアが開いている部屋で男性同士が口論になっているらしい。

(この声、純と雪彦さん⁉︎)

「俺は……なのに……!」

「だからと言って……」

 会話のすべてが聞こえるわけではないが、普段温厚な雪彦が声を荒げていることから相当険悪な雰囲気だとわかる。

 初めて聞く雪彦の怒声に真希は戸惑う。

「そう思うなら、兄さんが自分でやればいいんだ。次期当主だと公言した以上、問題を率先して解決する権限も義務もある」

「そうやってお前は俺にばかりやらせるんだ! 少しは手伝え!」

「こっちは当主の尻拭いだけでいっぱいだ。管理が杜撰過ぎて問題ばかり出てくる。やるにしたって、相当な根回しがいるんだぞ。私では役不足だ」

「クソ! 俺はいつも貧乏くじだ! お前はいいよな、いつも俺は面倒なことばかりで、母さんだって実の子の俺よりお前の方を愛してたんだ!」

「……っ! なんてことを言うんだっ!」

 雪彦の暴言に純が動く前に、真希のビンタが雪彦の頬を打った。

 顔を俯けたまま後ずさる雪彦。

 真希はその場にへたりこんで泣き出してしまう。

「真希っ」

 純が駆け寄ると春田が部屋に入ってきた。

「何してんのさ」

 不機嫌な顔で兄たちを見る春田。どうやら真希のことを心配して探しに来てくれていたようだ。

「悪かったな、純」

 そう言って部屋を出る雪彦。

 春田は真希を心配そうに見つめるものの、傍にいる純を見て、そのままどこかへ消えていった。

「あんな言い方、あんまりだよぉ……」

「……すまない、真希。それとありがとう」

 涙の止まらない真希を抱きしめる純。純は自分の出自を言われたことよりも、それを聞いて傷ついた真希のことに胸を痛めた。

 そういえば、自分の出自のことを真希に言ってなかったと純は思い出す。

「私は、自分の出自がどうであれ、実の母にも由貴夫人にもよくしてもらっていたし、これまでの人生も悪く思ってはいない」

 ハンカチで真希の顔を拭きながら、話を続ける純。

「むしろ、真希が傷ついてしまったことの方が悲しい」

 なぜだろう、その言葉が真希の胸のうちに突き刺さるようだった。

(私は、雪彦さんが変わってしまったから……好きでいつづけられなかったから、純を好きになったの?)

 そんな思いが真希の冷えた体を駆け巡り、胸にまとわりつく様だった。

 悲しみと困惑に暮れる令嬢は、好きになったはずの青年に抱きしめられながら、しばらく身体を震わせていた。


 真希が落ち着いた頃、純と二人きりになった彼女は胸のうちに渦巻く想いを打ち明けた。

「ねえ、純。誰かを好きになったとして……その人を好きでいつづけることができなくなったら、他の人を好きになってもいいのかな?」

 気がつけば薄暮、涙を流して身体を冷やした真希の顔は青白い。

 質問されて考え込む純。薄暗い部屋の中、同じ来客用のソファに座っているのに彼の表情はよく見えない。

 デリケートな悩み事だと察知したらしい。深読みしてしまったのか少し呻くような声で考える純。

「質問の言葉をシンプルに受け止めるなら、好きになっても構わないだろうと考えている。人の想いは自由に操れるものではないしな」

 ビクッと震える真希。純は話を続ける。

「これが交際関係、例えば結婚とかになると、他の相手と交際したら浮気や不倫となって問題になるだろうが、そうでないならそこまで深刻に悩むほど悪いことではないと思うぞ」

 真希は無意識に純の袖を掴んでいたことに気がついた。真希の様子を見た純は彼女の手を振り払ったりもせずに穏やかな口調で言葉を紡ぐ。

「人を好きでいつづけるのは難しい。その人が変わってしまったり、自分の視点が変わったり、人に向ける感情が変化する要素は様々だ。でも、好きになったという想いは事実だろう。きっとそれは悪いことじゃない」

 純は苦笑しながら「これが交際になると、双方に納得のいく関係の結び方や解消の仕方という難しい問題が出てくるがな」と付けくわえた。

「ありがとう、純」

 真希の胸のうちにはまだ、雪彦が強く残っている。このへばりつくような感情はしばらく消えないかもしれない。でも純への好意を後めたく思うことは無くなった。

(私は雪彦さんを好きになって、純を好きになった。あんなに悩んでも言葉にしてしまうと簡単なことに思えるから不思議)

 雪彦が変わってしまったのは悲しいことだ。でも純への好意を後めたく思う理由にはしない。この先、今日のことを思い出して再び悩むときが来ても、純の言葉を思い出せば、真希は乗り越えていけそうな気がした。

 雪彦、純、二人を好きになったのは嘘じゃない。そう知ることができただけで、真希は救われたのだ。

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