今夜の夕食は、なめこのお味噌汁と炊き立て白米。それから鮭の照り焼きと香の物やひじきなどの常備菜、そして茄子の煮びたしだ。


 今夜の食卓には、珍しく時雨さんとしずくちゃんと私の三人がそろっていた。


 そのため、できる限りきちんと和食を作ってみた。とはいえ、まだまだ本調子はほどとおい。


 なるべく包丁を使わずに済むものばかり考えてしまうのが、その証拠だ。鮭の照り焼きは切り身を使えば包丁は不要だし、なめこのお味噌汁の豆腐を切るのも茄子を切るのもさして難しいことではない。


 それでもなにか作らなければと、気合ばかりが空回りしてそろそろ気が滅入ってきた。


 そのうち、以前のように料理ができるようになると思っていたけれども、さてどうしたものか?


 一番困るのは、以前どうやって料理をしていたのかが思い出せないことだ。


 なにを考えて包丁を握っていたのか。なにを想いながら、食材と対面していたのか。もしかしたら、なにも考えていなかったのかもしれない。それが当然のことだったから。


 ただ、そうするのが自然だったことが、今では不自然に思える。

 それがひたすらに苦しい。


 私が悶々と考えている間、時雨さんはしずくちゃんと着物の話をしていた。


「この間買いつけてきた山梔子の柄の着物は、どこで手に入れたんです」

「どこって……いつものリサイクルショップだけど。浅田さんがうちにぴったりじゃないかって紹介してくれたの」


 さくさくさくときゅうりの香の物をかじりながら、しずくちゃんは思い出すようなしぐさを見せた。


「前の持ち主についてはちゃんと確認しましたか」

「してないけど……、なんで?」

「あれはアンティーク着物ですが、一度も袖をとおした形跡がない。大小しつけがそのままになっていましたよ」

「大小しつけって……、裾とか袖についてるやつだっけ?」


 私はしずくちゃんと一緒になって首を傾げた。

 言われてみたら着物の袖にはしつけ糸がついていたような気がする。特別な名称があったのは初めて知った。


「ええ。これは通常、着る前にほどかなければならないものです。昨今では着物は身近でなくなったから知らないまま着る人もいるかもしれませんが、あれはアンティークものでしょう。大正や戦前の着物が身近だった時代の婦人が知らないはずがないんです。もちろん、貰い物で気に入らなかったから袖をとおしていないなど、理由は様々考えられますが、せめて確認しておくべきでは? こちらは売り手なんです。買い手の質問には答えられるようにしなければなりませんよ」


 ぐっと言葉につまったしずくちゃんに、時雨さんは淡々と告げる。


「今日、あの着物に縁のある人から電話を頂戴しました。どうやら以前の所有者は亡くなっているようですね。その件で、明日は寿葉さんと一緒に先方のお宅に伺うことになりました」

「はっ?」


 時雨さんの言うとおり、先ほど電話による問い合わせを受けた。


 山梔子の着物の持ち主だったという女性と生前親交のあったという男性が、すでにソールドアウト状態になっていたリサイクルショップのホームページを見て店に連絡をしてきたのだという。そのため、リサイクルショップの浅田さんが、『鎌倉小町ろまんてぃゐく』まで在庫確認をしてきたのだ。


 先方はどうしても、その着物が諦められないのだという。


 そこで時雨さんは彼に連絡を取り、明日商談に行くことになった。私はただの荷物持ちのつき添いだ。


「ちょっと待ってよ、どうしてその人を連れて行くの? 着物を買ってきたのはあたしなんだから、最後まであたしに担当させてよ。もし、なにかミスしてたならちゃんと教えて。明日だって……、あたしも連れて行ってよ」

「おまえは明日、学校があるでしょう」

「そんなの休むから!」


 勢い込んで、しずくちゃんが立ち上がる。その拍子に湯呑のお茶がわずかに零れた。


「駄目です、行きなさい」

「一日くらい休んだっていいでしょ! 出席日数は足りてるし。だいたい遊びに行くんじゃなくて、仕事の勉強なんだから、あたしにはそっちのほうが大事なの。だってあたしは絶対に悉皆屋になるんだから……」


 時雨さんはため息をついて箸を置いた。


「おまえが店の跡を継ぎたいのは、僕への義理でしょう。この際ですから、はっきり言っておきますが、その必要はありませんよ」


 時雨さんがきっぱりと言いきると、しずくちゃんは一瞬だけ迷子の子供のような目をして言葉に詰まった。


 そんな彼女を見つめる時雨さんのまなざしは落ち着いており、静かなものだ。


 見つめあうしずくちゃんは、やがて目じりに涙を浮かべた。


「どうしてそんないじわる言うの? お兄ちゃんのわからず屋っ。ハゲ!」

「ハゲてません」

「うちはおじいちゃんがハゲてたもの! 若い時の写真はふさふさだったけどっ。隔世遺伝でお兄ちゃんも絶対ハゲるんだから!」

「ハゲません……」


 メンタルに多大なダメージを食らったのか、不安を言い当てられたからか。時雨さんの声が心なしか小さくなった。


 しずくちゃんもそれ以上は言葉にならなかったのか、食事途中にもかかわらずダイニングを飛び出して行ってしまう。それから、二階に駆け上がっていく音がバタバタと階下まで響いていた。


 時雨さんはしんみりとお味噌汁を見つめる。ハゲ発言はクリティカルヒットだったらしい。どうやら、気にしているらしい。


 再び静寂を取り戻したダイニングで、しずくちゃんにつられて半分立ち上がっていた私は時雨さんを見おろした。


「時雨さん、追いかけないと」

「……放っておいて構いません」


 だけど、時雨さんは心もち青い顔をしてぽつりと言葉をこぼした。

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