怪しい着物
やはり聞かないほうがよかった?
時雨さんは私の胸の内にそんな不安を植えつけるほど、渋い表情になる。眉根をわずかに寄せて、目をすがめ、最後に薄い唇の形を歪めてみせた。
「――――貴女は、本当に知りたいと思っているんですか? あれの正体を」
「え……、はい」
老爺に対して「あれ」扱いとは、いささか礼を失している。
「そうですか」
返ってきたのは、興味のなさそうな相槌だ。それでも、時雨さんは私から視線を逸らさなかった。
私もわけがわからないまま見つめ返すと、根負けしたように時雨さんは窓の外を見やった。
「…………あれは、憑き物です」
「つきもの、と言うと……」
聞き覚えのない単語に、ついきょとんとしてしまう。時雨さんは構わず続けた。
「着物、骨董品、古民家、長く人に受け継がれてきたものには、念が憑いていることがあるんです。念が憑くと、本来存在しえない情がそこに宿る。僕はそれを、憑き物と呼んでいます。霊や、あやかし、付喪神と呼ばれるものたち……といえばわかりやすいでしょうか」
霊にあやかし、さらには付喪神。
いつの間にか、窓からは柔らかな朝日が零れこんでいた。夜はすっかり西の果てに追いやられたらしい。
そんな朝方にそぐわない怪談のような話に、私は返す言葉もない。
「昨日の老人は、例の預かり物の着物の憑き物ですよ」
「紗枝ちゃんの……?」
「彼女も言っていたでしょう。祖父が大事にして「いた」着物だと。……過去形なんです。つまり、彼女のおじい様は故人だというわけでして。ただ、着物に想いを残してしまっている……。うちの店のクリーニングは、こうした念も落とします。だから彼女はうちに来たんです。色染めや水洗いは専門の職人に任せられても、憑き物に対処できる職人はそうそういないので」
「そう、ですか」
それだけ言うと、時雨さんは黙々とリゾットを食べ進めた。
私も、つられて食事を再開する。
それから、今聞いた話を頭のなかで整理してみる。
にわかには信じがたい話ではあったけれど、実際にこの目で見てしまったからには否定もできない。
そもそも、料亭にいた時だってこの手の話題には事欠かなかった。
病死したはずの次板が真夜中に一心不乱に包丁を研いでいたとか。常連さんのお見えかと思えば、目を離したすきに姿が消えている。あら、お帰りかと思えば訃報が届いたとか。
存外、どこにでもある話なのかもしれない。学生時代だって、それぞれの学校に七不思議や怪談話が伝わっていたのだし。……なんて納得しようとしてみたり。
「でも、亡くなってからもさくらさんのお茶を飲みたがるなんて。きっと、奥様のお茶が大好きだったんでしょうね。愛妻家だったというか……」
ぽつりと呟くと、時雨さんは私をじっと見つめた。
夜空にも似た、黒真珠の瞳は不思議な力を持っているのか、私は目が逸らせなくなった。代わりに、なにか妙なことを言ってしまったかと冷や汗をかく。
しかし、すぐに時雨さんから投げかけられた言葉は、私が懸念していたものとは違った。
「……意外です。貴女は、信じないか――あるいは怖がるものかと」
「え? ああ、そうですね……」
普通なら、怖がるところなのかもしれない。実際、昨夜はかなり驚いたし、落ち着かなかった。眠りにつくことができたのも結局真夜中だ。
なにしろ、越してきた当日に、その家でホラー体験を味わってしまったのだから。
落ち着いていられたのは時雨さんのおかげなのかもしれない。
あの、携帯のバイブレーションのようにガクガクブルブルと震えていた姿を思い出すと、恐怖よりもおかしさが先に出てきてしまうのだ(なんだかあれが夢でも現実でも、どちらでもよかったような気がするのである)。
「そうですね、もう大丈夫です」
正直に答えると、時雨さんは黙り込んでしまった。
「時雨さんは、あのおじいさんをどうするんですか?」
「憑き物への対処は、想いのもとを取り除く必要があります。ようするに、未練の解消というか……。あの人の場合、『さくらさんのお茶』を準備するのが一番効果的でしょうね」
「……できるんですか?」
たしか、紗枝ちゃんの話によればさくらさんはもう亡くなっているはず。その彼女の淹れたお茶を用意することが果たして可能なのか。答えは即座に出た。
「無理です」
「ですよね……」
「ですから、祓うんですよ」
つまり、お祓いされてあのおじいさんの存在は消されてしまうということだろうか。
「うちの店はそういう類の人間ともつながりがあるので。……それで?」
「なんですか?」
なにを問われたのかわからず、私はすかさず聞き返した。
時雨さんはその瞳にどこか困惑をにじませて、眉をひそめている。
「……いえ、貴女としてはこんな化け物屋敷は早急に出ていきたいとか、あるのかと」
「……昨日のおばけが怖くて、ですか? それは大丈夫ですけど」
「そうですか」
私たちはそれきり黙り込んだ。
リゾットもサラダもすっかり食べきってしまい、私はお茶を濁すために食後の緑茶の準備に取り掛かる。
魔法瓶に伸ばした手が止まってしまったのは、飛び込んできたしずくちゃんが勢い余って壁に激突したせいだ。
サッと上げた顔はあいかわらずの美人だけれど、ぶつけた額が赤くなっている。
「ねえお兄ちゃん! どうして起こしてくれなかったのっ?」
「いい加減に自分で起きられるようになりなさい。目覚ましも鳴っていたじゃありませんか」
「聞こえてたなら起こしてよぉ! ああもう遅刻しちゃう!」
「しずく。弁当」
時雨さんがずいっと桜色の風呂敷を差し出せば、しずくちゃんは振り向くことなくガシッとつかんで駆け抜けていった。
「……実にお恥ずかしい。礼もできない妹で」
「いえ、食べてもらえたらいいんですけど……」
「おいしかったので、大丈夫ですよ。あの子は食欲にはめっぽう弱いもので」
相変わらず淡々とした物言いだけれど、時雨さんの感想は嬉しい。
「夕飯の希望とかあったら作るので、言ってくださいね」
「ええ。……出かけるのは十時でよろしいですか?」
「もちろんです。お願いします」
今はちょうど、六時半に差し掛かった頃合いだ。
食器を洗って、お風呂や廊下の掃除をする余裕はたっぷりある。
とはいえ、大きなお家なので油断は禁物だ(庭の落ち葉や雑草の処理なんて意外と手間取りそう)。時間を無駄にしないため、私はさっそくお皿洗いに取り掛かった。
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