腹が減ってはなんとやら
(そういえば、表札の横にお店みたいな名前も書いてあったし……。着物屋さんだったとか?)
だから、時雨さんは今時珍しい和装だったのか。あれこれ考えつつ、お茶を出す。
「お熱いのでお気をつけください」
「はーい! ありがとうございます」
紗枝ちゃんは深々とお辞儀をしてくれた。
「それで、話が戻っちゃうんですけど。最近、祖父が毎晩毎晩「さくらのお茶が飲みたいー、さくらのお茶が飲みたいー」ってうるさくって。本当、壊れたテープレコーダーレベルですよ。あっ、知ってます? 壊れたテープレコーダー。うち、父が好きで持ってるんですけど。壊れると音が出なくなったり、おんなじ言葉を延々と繰り返したり、フツーにホラーなんですよね。そういえばテープといえば、最近……」
話がそれつつある紗枝ちゃんに、時雨さんは薄笑いを浮かべたままぐいっと話を戻した。
「はあ、それでおじいさまはお茶を飲みたがっていると」
「あっ、そうなんですよー。さくらのお茶さくらのお茶って、そればっかり。マジ壊れたテープレコーダー。認知症じゃなかったはずなんですけどねー?」
紗枝ちゃんは腕を組んで首を傾げた。
「あ、ちなみにさくらっていうのはうちの祖母のことなんですけど。おばあちゃんはもう亡くなってるから、我儘言ったってだめって言っても全然聞いてくれなくて! あんまりにもうるさいから私、とうとう我慢できなくなっちゃって。『私のお茶を食らえ!』っておじいちゃんにお茶ひっかけちゃったんです」
「はあ、お茶を」
とんでもなくアグレッシブな行動だ。身振り手振りを合わせて説明する紗枝ちゃんに対し、時雨さんは営業スマイルを崩さない(心なしか口元が引きつっている気がしなくもない)。
「で、見てください。ここ!」
私はお茶をふたりに出し終わり、そのまま部屋を出ようとした。
その時、鼻っ面に突き付けられたのが、彼女の手にした着物の生地だった。鼠色の無地かと思いきや、よくよく間近で見てみると極々細いストライプ模様だったらしい。その生地にシミが滲み、一部がゴワゴワとけば立っていた。
「どう見ても、シミができちゃってますよね?」
「そうですね……」
重曹なら染み抜きできないだろうか、と首を傾げる私の隣で、時雨さんもしばらくシミを眺めていた。
「……見たところ、タオルかなにかで拭いたようですが」
「そうなんです! わかります? 濡らした、やばい! ……って思って、とっさにハンカチで拭いちゃったんですよね。そしたらけば立っちゃって、なんか白っぽくなって。で、お父さんに西御門さんのところに持っていきなさいって言われたんです。もしかして、拭いたらだめでした?」
紗枝ちゃんが気まずそうに頬をかく。
「ええ、これは
淡々と事実だけを述べていく時雨さんに、それでも紗枝ちゃんの表情は明るくなった。
「よかった。見た目だけでもきれいになるなら、それでいいです。これ、祖父が大事にしていた着物だったし、私のせいでだめにしちゃうのはかわいそうで……。まあ普通に私のせいなんですけど……」
「そういうことでしたら、お預かりします。では、まず染み抜きについて説明しますが……」
時雨さんの話がクリーニングの説明に移ると、紗枝ちゃんの意識も私から完全に彼へ戻ったようだ。私はその合間を見計らって、応接間から引っ込んだ。
着物を大切に守っていく家族ってなんだかいいな、なんて思いながら。
(というか、着物って濡らしたらだめなんだ……。じゃあ重曹なんてもってのほかだろうな……)
よくよく考えてみたら、私は着物なんて七五三くらいでしか着なかった。そのため、詳しいことはなにもわからない。
勉強してみたい気持ちもあるけど、今は別の問題が控えている。私は台所にお盆を戻して空っぽの冷蔵庫を振り返った。ついでに炊飯器も覗いてみる。空だ。
喫緊の問題、それが今夜の夕食だ。
(なにか食材を買いに行かないと……)
ちらりと見た時計の針は五時を示していた。しずくちゃんが教えてくれた夕飯の時間は、たしか六時だ。時間がない。
さて、どうしたものか。
私はスマホの画面を睨みつけた。今からスーパーに行くとして、料理を作ると六時には間に合わない。
コンビニご飯か、スーパーのお惣菜か。考えていると、しずくちゃんがひょっこりリビングから顔をのぞかせた。
「ねえ。あたし、今から友達とご飯行くから夕飯いらない。お兄ちゃんも一度仕事始めると長引くから、今日は準備しなくてもいいんじゃないの。じゃあね!」
バタンとしまった扉の向こうに彼女の姿が消える。
(……とは、言われたものの……)
念のため、時雨さんのぶんの食事は作っておくことにする。私だって夕食を抜きたくはない。
それなら六時までにできるものは?
いろいろとメニュー候補を考えた私は、ひとまず一番近いコンビニへ行くことにした。
時短コンビニずぼら飯になってしまうけれど、今夜はひとまずそれで凌ごう。
リハビリも兼ねたかった。やっぱり、まだちゃんと料理をするのは少し怖かったから。
それもこれも、きっと先日のトラブルのせいだ。
「はあ……」
ため息ひとつ残して、私は財布を掴んでリビングを出る。
男体盛り。許すまじ……なんて胸の内に怨嗟をたぎらせて。
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