職場案内
家に上がると、時雨さんはまず一階から説明し始めた。
「台所とリビング、ダイニングはこちらです。好きに使ってください。階段横のドアがお手洗いと洗面所、浴室に通じています。ダイニング手前の和室は僕の作業場と応接間です」
そんな風に手早く一階の説明を済ませると、「貴女の部屋は上」と時雨さんは玄関脇の階段を上り始めた。
「ああ、先に言っておきますが、客間には荷物があまりないので。必需品はおいおい買い足してください」
「はい」
「まあ、必要ないかもしれませんけど」
時雨さんは独り言のように呟いて、二階の廊下に立つ。
(どういう意味だろう……)
すぐにクビにされる可能性があるのかもしれない。連続で仕事をクビになったら立ち直れないかもしれない。
次いで私も二階に辿り着いた。
廊下に備え付けられた大きな窓からは、さんさんと午後の日差しが差し込んでいる。
裏庭には大きな欅が生えていたらしい。木漏れ日が艶々に磨き抜かれた板張りの床にしなだれかかっている。
穏やかな空気の満ちた二階には、ドアがみっつ。
時雨さんは階段を上がってすぐ目の前にある部屋の扉を開いて、なかを見せてくれた。
「ここが貴女の部屋です。布団やまくらは押入れに入っているので、どうぞご自由に。隣の部屋は、妹の部屋です。今は学校に行っているので、戻り次第紹介します。では、部屋にどうぞ」
「お邪魔します」
淡々と促され、私は時雨さんに頭を下げて準備された和室に足を踏み入れた。
押入れや床の間つきの六畳間だ。なかに入ると、ふわりとイ草の香りが漂ってくる。畳の匂いだ。
旅館の部屋に入った時と同じ、清々しいよそよそしさが立ち込めている。香水とは違うけれど、どこか懐かしい――日本人としては嫌いになれない不思議な香りだと思う。
部屋にあつらえられた大きくてレトロな丸窓からは、どうやら庭が一望できるようだ。そんなところも、本当に旅館のようで私は思わぬ待遇にこっそりうろたえた。
「いいんですか? こんな素敵なお部屋をお借りしちゃって」
「今は使っていない客間ですから。当分は宿泊をするような来客の予定もないので。ああ、押入れに折り畳み式の文机や寝具が入っていますから、ご自由にどうぞ。それから、三階には俺の部屋と母の部屋、あとは手洗いがもうひとつ……」
まずは間取りを覚えようと、必死になって頷いている時だった。階下から、「ただいまぁー」と少女の声が響いてきたのは。
直後、「うわっ」というナメクジでも踏んづけてしまったような……嫌悪感たっぷりの悲鳴が続く。さらには、ドタドタと階段を駆け上がってくる音に私と時雨さんは顔を見合わせた。
「……妹のようです」
「妹さん」
その言葉にたがわず、階段を駆け上がってきたのはセーラー服の女の子だった。
「お兄ちゃん! 玄関に女物の靴があったんだけどっ?」
「新しい家政婦の方です。しずく、ご挨拶なさい」
脱色しているのか、色素の薄い髪の毛先をくるくると巻いている。目じりがきゅっと上がった美少女だ。
彼女と目が合うなり、どういうわけかキッとにらまれた。
「……いらっしゃいませ。西御門、しずくです」
「あの、お邪魔しています。近江寿葉といいます。今日から家政婦としてお世話になります。よろしくお願いします」
挨拶が済んでも、美少女は目をすがめたままだ。
「……お兄ちゃん、この人ってお母さんが言ってた人? 本当に来たの?」
「あの人から話を聞いていたんですか。なぜ僕に言わなかったんです?」
「だって、ホントに来るなんて思ってなかったし……」
どうやら、妹さんであるしずくちゃんには話が通っていたようだ。
それでも、どういうわけか私はものすごく警戒されているらしい。
彼女は私をじろりと頭からつま先まで見た後、時雨さんの袖をきゅっと掴んでその背中に隠れてしまった(ひょっこり顔の半分だけのぞかせて、こちらににらみを利かせるのは忘れていない)。
なんだか警戒心たっぷりの猫のようだ。
そんな彼女に、時雨さんはぴしゃりと言いつける。
「態度と言葉遣いを正しなさい、みっともない」
「でも」
「返事」
「はぁい……」
時雨さんの言葉に、しずくちゃんはしぶしぶといった様子で答える。
それに満足したのか時雨さんは話を切り替え、彼女に仕事のバトンタッチすることにしたらしい。
「では、僕は仕事が残っているので失礼します。寿葉さん、案内の続きは妹が」
「えっ、あたし?」
「家のなかについては説明しました。質問なら妹でも答えられますから。それと寿葉さん、今日は仕事の依頼人が来ます。さっそくですが来客があったら、彼女を作業場にとおしてお茶を出してください」
「わかりました。準備しますね」
私が承知すると、時雨さんは静かに階段を下りて行った。私は慌てて、その背中に声をかける。
「あの、案内ありがとうございました。あと、小鳥……すみませんでした。なんとか取り戻せるように頑張るので、これからよろしくお願いします」
肩越しに振り返った彼は、期待などしていないとでも言いたげな微笑を残して階下に消えた。
それからしずくちゃんに向き合えば、彼女からは相変わらず警戒心の強い猫のようなまなざしを向けられていた。
「……なにが知りたいの」
「掃除道具の場所や使ってはいけないものなどの説明をお願いします」
それから私は彼女の説明によって、掃除道具や床下収納の場所を把握した。食事は朝夕六時。頭のなかに情報を叩き込んでいると、彼女はぴしっと背を伸ばし、「重要なのはここから」とばかりに口を開いた。
「あとは……、あたしたち家族の部屋には来ないで。以上! あたし、忙しいから、ばいばいっ」
「あっ。あの、食事なんですけど、アレルギーとかは」
「あたしもお兄ちゃんもお母さんもない!」
きっぱり言い切って、彼女は逃げるように自分の部屋に入ってしまった。しずくちゃんの部屋は私の隣らしい。
目の前で、バタンと勢いよく扉が閉まる。
まったく歓迎されていないようだが、気持ちはわからないでもない。
突然知らない人が家政婦だと言って家に上がり込んで来たら、年頃の女の子としては受け入れがたいだろう。
(まあ、そうだよね)
……私としては、女の子がいるだけで安心感が違うので、できれば仲良くしたいのだけれども。
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