3.7
泣き叫び、疲れ果てた草閒は須佐によって家の中に運ばれ、促されるまま風呂場で身体を洗い服を着替えると、そのまま布団に入って泥のように眠った。彼女の櫛は寝ている間も枕元に置いていた。
それから目を覚ますと、草閒は須佐と共に家を出た。草閒は家に帰るためで、須佐は事の顛末を稲田家に直接報告しにいくためだった。
行きと同じ道を、帰りは3人でなく2人でさかのぼっていく。草閒は彼女の櫛をズボンのポケットに入れ、暇さえあれば取り出してそれを手に眺めていた。
2人の間に会話はほとんどなかった。
口を開けば、目の前の須佐に文句を言ってしまいそうで草閒はあえて口を開かなかった。須佐が悪いわけではないことを知っていても、ついそうしてしまいそうで口を開けなかった。
須佐も須佐で、何を考えているのか分からない顔で時折草閒を見るのみで、声を掛けようとはしなかった。
ただでさえ長い旅程が、その数倍も長く感じられた。やっとの思い出慣れ親しんだ景色が見え始めた頃にはすでに夕暮れ、それは橙に染まっていた。
「須佐さん……これ」
電車を降り、これから稲田家に向かおうとする須佐に向かって、草閒はおずおずと口を開き、彼女の櫛を差し出した。
「俺なんかより、稲田先輩のご家族が持っているべきものでしょう」
だが、須佐はそれを受け取ろうとはしなかった。
「いや、それは君が持っているべきものだ。……姫乃ちゃんもそれを望んでいる」
「でも……」
「いいから。君が持っているんだ、肌身離さずに」
須佐はそう強く念押しして、ついに櫛を受け取ることなく行ってしまった。
それから家に帰ると、両親に見つかり小一時間絞られた。初めは説教から始まり、それから無事で良かったと母が涙を流した。それにつられて、草閒の目からも涙が溢れた。
今頃稲田の両親達はどんな気持ちを抱いているのだろうか。
それを思うと、涙は溢れて止まらなかった。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
誰へのものかと分からない謝罪の言葉が草閒の口からこぼれる。
「……いいのよ。無事で帰ってきれくれたんだから」
その言葉が胸に突き刺さる。それからしばらく、草閒は両親の前で泣き続けた。
翌日、草閒は何事もなかったかのように学校に登校した。
道を征く制服を着た学生の中に稲田がいるんじゃないかとつい目を巡らせてしまう。雨が明け、久しぶりの太陽が見えたことに人々の顔は明るい。彼女の姿がそこにあるはずがないことを知っていても、それを止めることはできなかった。制服のポケットに忍ばせた櫛に手を触れる。そうしていると、今はいない稲田のぬくもりが感じられる気がした。
「よっ! どうしたんだよせっかくの梅雨明けだってのに、1人だけそんな辛気くさい顔してよ」
学校に着くや、教室に入ってきた草閒を見て中村がそんなことを言った。
「前に梅雨は好きじゃないなんてこと言ってたのに」
「ああ……」
そんなことも言ってたな。と思い出す。
「雨が止んだことはうれしいよ。けど……」
「けど?」
「…………いや。なんでもない」
そう言って草閒はポケットから櫛を取り出して見つめる。
「ん? それ」
草閒が手に持ったものを見て中村が言う。
「お前が持ってるそれ、
「挿櫛?」
聞き慣れない言葉だった。
「ああ。櫛って普通は髪をすいたりするものだろ?けど、挿櫛ってのは飾り櫛とも呼ばれていて、装飾具として髪につけるものなんだ。最近ではあまりみかけるものじゃないけどな。それをどうしてお前が?」
不思議がって中村が聞く。
「俺からしたら、お前がそんなことを知ってる方が不思議だけどな。挿櫛がなんだ、だなんて」
「そうでもないさ。櫛には面白い話があってな」
中村はいつもの調子で話を広げていく。
「櫛ってのは大昔からあるもので、それにまつわる話もいくつかあったりする。有名なのは、古事記の中で語られる黄泉の国での話で、追手に追われていたイザナギがか髪に挿していた櫛を投げるとそれがタケノコに変わったとか」
「櫛がタケノコに? なんで?」
「櫛には呪力が宿ると考えられているんだ。櫛は髪に対して使うものだろ。それで、その髪ってのが昔から神聖な力が宿るとされていて、その繋がりで櫛はその力を蓄えるとされてるんだよ。ほら、聞いたことないか? 藁人形の中に髪を入れてなんやらとか、日本人形の髪が伸びるだとか。あれらも一種の呪力的な作用によるものだと考えられてる。それで、櫛がタケノコに変わったのもその力によるものだって風にな」
「櫛にそんな力が……」
思わず草閒は手に握った櫛を見る。確かにこれ握っていると、彼女の存在を感じる気がした。彼女がそこにいるような、温かさを感じることができた。
「その櫛をどうやって手に入れたかは知らないけど大切にしろよ? そうじゃなくても物には人の魂が宿るんだ。それを粗末に扱ったきっとバチが当たるからな」
そんなことを言い残して中村は席に帰って行く。
草閒は席についたまま、右手の上に置いた彼女の櫛をじっと見つめる。
「これに、稲田先輩の魂が……」
それからというもの、草閒は常に稲田の櫛を持ち歩いて放さなかった。
やがて、一月が経った。
雨が降ることはなかった。須佐と稲田がもたらした太陽は絶えることなく大地を照らし続け、水の気はすっかりと大気から消えていた。
手に握った櫛からは、日に日に稲田の気を感じるようになっていた。
そしてある日、学校に向かう途中ポケットに手を突っ込んで、あるはずの感触がなかったことで櫛を忘れた事を草閒は気づいた。
「しまった……」
今から取りに戻っては学校に遅れてしまう。
立ち止まって、悩み、そしてもと来た道を戻り始める。
あれがなくては、どこか身体の一部が失われてしまったようで気が気でなかった。
はやる気持ちを抑えきれず、つい草閒の足は早くなる。
「あれ、どうしたの? 忘れ物」
「ああうん」
「急がないと、遅れるわよ」
「わかってる」
学校に向かったはずの息子が焦った様子で戻ってきたことに母は声をかける。それに適当に応じつつ、草閒は階段を駆け上った。
「――っ」
急ぐあまり階段のヘリにすねをぶつけ、痛みにすねを抑えてその場にかがみ込む。痛みが治まれば、今度は慎重に階段を昇る。
それから自室の扉の前に辿り着き、ドアノブに手を掛ける。そして、部屋の中から何か気配を感じた。
ドアを開けば、いつもと変わらない自分の部屋がそこにある。ノブを握った手を少し捻って引くだけで扉は開く。
しかし、扉一枚隔てた部屋の中からは何か物音が聞こえた。父はすでに仕事で家を出て、母は階下で家事を行っている。それなのに、部屋の中からは確かに音が聞こえた。人の気配がする。
けれども、草閒はどうしてかそれを不審だとは思わなかった。
ノブを捻り、扉を開く。
扉の向こうには、朝起きたのと変わらなぬいつもの部屋。しかし、その中にある人の姿を見て草閒は言葉を失った。
部屋の中にいる人は、最初戸惑ったように自分が置かれた状況、空間に目を彷徨わせた。それから、ガチャと音がして扉が開くと、その向こうに立つ人を見て、目を見開き、そして全てを理解した顔で言った。
「…………ただいまもどりました。草閒さん」
雨のまにまに 雨野 優拓 @black_09
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