3.6

 目覚ましの音で稲田は目を覚ました。


 寝る前にあらかじめ到着時刻の少し前にセットした目覚ましが上手く機能した。草閒と須佐はまだ眠っていた。降車予定の駅まではもう少し時間がある。

 稲田は寝姿で無防備を晒している草閒を見る。彼が今ここにいるということが不思議でならなかった。

 本来なら接点などなかったはずの二人。それがどうしてか、二人の線が一度交わるとそれから何度も接近することとなった。稲田がその接近を一度は拒んで離れたかと思われたが、また草閒の線は近寄ってきた。そして今、こうして二人は同じ場所で時を共にしている。奇妙な縁だった。そのまま駅に着くまでの間、稲田は草閒の寝顔を見ていた。

 駅が近づくと、車内アナウンスが流れ始め草閒は自ずと目を覚ました。須佐も、いつの間にかに覚醒していた。

 それから三人は新幹線を降りると、再び電車を乗り換えて出雲へと向かった。ようやく彼らが電車の旅を終え、ホームで身体を伸ばしている頃にはとうに昼を過ぎていた。

 草閒はホームに降りたって驚いた。その雨量のすさまじさに。それはもう降りしきる雨でわずか先の景色を視認するのが困難なほどに。草閒の知る限りではこれ以上の降雨を見たことがなかった。


「――――――」


 須佐が口を動かして何かを言うが、雨音にかき消されて草閒の耳に届かない。身体を近づけて何を言ったのかと大声で訊ねると、「ここからは、用意した車で移動する」と言った。

 駅周辺の有料駐車場に須佐の車が駐められていた。三人はそれに乗り込むと、移動を再開した。

 車内にいると一層に雨の音が大きく聞こえる。車体を叩く雨音が、誰か人が上に乗って拳を叩きつけているんじゃないかと勘違いするほどにうるさい。雨というよりはもはや、水の塊だった。それが次々と空から落ちてくる。それは車が進んでいくほどに苛烈さを増していく。


「これ……大丈夫なんですか?」


 とうとう不安を内に押さえ込むことが出来ず、草閒はそんなことを漏らした。さっきから通り過ぎる車も、前や後ろを行く車の姿も見えない。このあたりには自分たちしかいないような、そんな気さえしてくる。


「大丈夫だ。付近の住民達はすでに避難が済んでる」

「そういう意味で聞いたんじゃなくてって……」

「それでもこの雨は想定外の強さだ。……もしかしたら、オレ達の接近に感応しているのかもしれないま」


 須佐の運転する車はその後も走りつづけた。そして、ある一件の古家の前で止まった。

 須佐が車を降りる。それに続いて稲田と草閒も車を降りた。

 草閒は辺りを見渡す。視界を埋め尽くさんとする降雨の隙間から見えるのは鬱蒼とした山々。その古家はとある山の山中に建てられていた。その家は今朝見た稲田の家と似ていた。


「ここは?」

「須佐家の別邸です」


 草閒の質問に稲田が答えた。須佐は1人で先に家の戸口へと向かう。すると、須佐が扉を開けるより早く内から扉が開かれ、中から赤子を抱えた女性が姿を見せた。


「――武男さん」

「……冬美」


 出迎えた女性を見て須佐はホッとした表情をする。それから女性が胸に抱く赤子の頭を撫でる。その女性の背後から老人が姿を現して言った。


「戻ってきたか、武男」

「――はい」

「それで、稲田家の当主は」

「あちらに」


 その老人は須佐に促され、少し離れて立つ稲田に目を向けた。


「――稲田家のご令嬢、いえ今代当主稲田姫乃様。どうもご足労頂きまして。この老いぼれから感謝申し上げます」


 そう言うと老人、須佐の祖父に当たる須佐光男は深々と頭を下げた。

 自分より一回りも二回りも、いや四回回ってやっと追い付くほどの年長者から礼を尽くした態度に、稲田は恐縮しながらも応える。


「いえ、こちらこそ……まだ未熟な私ではありますが、このたびは持てる力全てを持ってして大蛇の討伐に望みたいと思います」

「そのようなお言葉を頂けただけで。貴女とわが孫の力を持ってすれば、必ずやあの邪悪な大蛇を今度こそ完全に黙させることが出来るでしょう。――さあ、いつまでもそんなところにいらっしゃらないでどうぞ中へ。礼装の用意はとうに整っております。――冬美さん、頼めるかな?」

「はい」

「ありがとうございます。それでは」


 促され、稲田と須佐の妻冬美は家の中へと入っていく。


「――して、そこの少年は?」


 須佐の祖父は、稲田の側に立っていた草閒を見て言った。


「――あっ、俺、僕は……」


 何と答えべきか言葉が見つからず口ごもる。見かねて須佐が助け船を出した。


「姫乃ちゃんのご学友です、じい。彼女とそれを取り巻く事態を知って、一緒に来て彼女を励ましたいとのことなので、連れて参りました」

「……ふむ、そうか。分かった、君も中に入りなさい。風邪を引いてはかなわん」

「は、はい。ありがとうございます」


 頭を下げると、それから草閒も家の中へと入った。

 適当は部屋を借りて濡れた服を着替える。そこで草閒は一息つく。朝から電車、新幹線、車と狭い空間に身を収めていたため、妙な疲労感が身体に蓄積している。スゥーッと息を吸うと、木造建築特有の木の香りがして少し心が安まる。それを何度か繰り返し、脱いだ服をどうしようかと考えていると部屋の外から声がかかる。


「脱いだ服は洗濯しますので、脱衣所へ持ってきてください」

「あ、わかりました」


 須佐の妻だという冬美の声に、草閒は脱いだ服を片手に脱衣所に向かって、そこにあったカゴに服を入れた。外にいるときは言い知れぬ不安感に駆られたが、この家に入ってからはそれもなくどこか安心した自分がいることに驚く。

 それから、摂り忘れていた昼食を食べると、いよいよその時が来た。



 いつもの甚平ではなく、真っ白な法衣を身に纏い、腰には刀を下げた須佐が襖越しに稲田に言った。


「そろそろ」

「……はい」


 襖の奥から声が返ってくると、それから襖が開く。中から、須佐家が用意した礼装に身を包んだ稲田が出る。その姿は、あの封印の儀での姿と似ていたが、髪型が違った。白と緋で統一された衣服にぱっと見の違いはなさそうに見えるが、儀式では結んでいた髪を今は結ばずになすがままにしていた。廊下を歩いて玄関に向かう稲田の姿を見て、綺麗だと草閒は思った。


 稲田たちは玄関から外に出た。その後ろを、冬美や光男と並んで見る草閒は奇妙なものを見た。

 傘を持たずに外を出た2人は絶え間ない雨に濡れてしまうかと思われたが、不思議なことに彼らの頭上で雨は忽然と消え失せ、彼ら2人は雨に濡れることはなかった。

 一体どうしたことかと、軒下から手を出してみると、なんのことはなくすぐに腕は水で濡れた。


「――それでは、行って参ります」


 須佐が振り返って言う。流石に、その顔には緊張が見えた。


「ああ、頼んだぞ……!」

「武男さん、どうかご無事でっ……!」

「姫乃様も変わらぬお姿でお戻り頂くことを願っております」

「……はい」


 彼らは各々に言葉を交し合う。彼らが思いを伝え合うと、最後は草閒の番だった。

 草閒は稲田を見る。

 あのとき、初めて彼女を見た時と彼女は変わっていなかった。変わったのは彼女との距離。あれからどれだけ距離が縮まっただろうか。それは草閒には分からない。

 ただ、草閒の願いは1つ。


「先輩、いってらっしゃい。俺、待ってますから。先輩が帰ってくるのを」


 彼女ともっと話をしたい。ただそれだけだった。


「はい……いってきます」


 はにかみながら彼女はそう言った。

 そして、須佐と稲田は家に背を向けて歩きだした。ゆっくりと、それでもどんどんと彼らは遠ざかっていく。2人の姿が完全に見えなくなってしまうまで、草閒たちは家の前で見送った。やがて見えなくなると、光男、冬美と順に家の中に戻って行く。それでも草閒は家の前に立ち続けた。一緒に行くことは出来なくても、せめてここで彼らの帰りを待ちたい。草閒はそこでただ待ち続ける。


 どれだけ待っただろう。その場から動くことはなく、いつ返ってくるかも分からぬ人をただ待ち続ける。空の模様を見ても日のありどころはわからない。脚は限界を迎えつつあった。それでも草閒は待つのを止めない。何度も冬美や光男が「中で待とう」と言ったが、草閒聞き分けのない子どものようにその場を動かなかった。


 ただ山の向こうを見つめる。その向こうにいるであろう稲田を思って。風が吹き、雨が身体をぬらしてもその場を動かない。てこでも動かないつもりでいた。


 そして、空が割れた。

 疲労からつい首が下を向き地面に出来た水溜まりに生まれる波紋を眺めていると、影一色だった地面に光が差した。

 目の錯覚かと思った。だがそれは錯覚などではなく、現実の事だった。草閒は顔を上に向ける。それは見たことのない光景だった。

 これまで空を覆い尽くしていた分厚い灰色の雲に切れ目が入り、そこから雲が割れてその向こうに広がる青い空が顔を出し始めていた。一月振りに見る空の青さに、「空とはこれほど青かったのか」と初めて空をみた地底人のような呟きが口をつく。

 だが、それは決して草閒の思い違いではなかった。一月降り続けた雨は大気中の微粒子を捉えて地に落としつづけ、一月振りの青空はこれまでにないほど青々としていた。

 一度切り込みの入った空はその口を広げる一方で、雲は次第に勢力を弱めていく。そして空には太陽が戻った。土砂降りだった雨も止んでいた。対照のまぶしさに目を細める。以前と変わらぬ太陽の姿がそこにはあった。

 あれほど濃かった雲の影は、すっかり消えて無くなった。どこかに流れていったのではなく空の青さに溶け込むかのようにかき消えた。

 気温が一気に上がった。さっきまでは寒いくらいだったのに、今や草閒は額に汗の粒を浮かべていた。


 だが、それでも草閒はその場を動かない。

 雨が止み、雲が消え去ったということは、稲田たちが八岐大蛇を無事に退治することができたのだろうということは想像がついた。あとは彼女たちが返ってくるのを待つのみだった。草閒は待ち続ける。晴れた空の下を2人が歩いて帰ってくるのを。


 そのまま待ちつづけていると、山の中からこちらに向かってくる人影が見えた。急激に暖められた地面は上昇気流を発生させ、目には見えない炎を起こし、人影が揺らめいて見える。

 人影はまっすぐと草閒の方へと近づいてくる。


「……あれ?」


 人影が近づいてくるにつれ、明るかった草閒の顔は曇っていく。

 背格好から、近づいてくる人影は須佐のものだと分かった。それはいい。

 問題は、その人影は1つだということだった。

 陽炎のせいで重なって1つに見えるのかと、草閒は何度も目をこすり、目を凝らした。しかし、何度見ても近づいてくる人影は1つで、それは須佐のものだった。

 そして、須佐はたった1人で帰ってきた。


「…………須佐さん。……稲田先輩は……?」


 須佐は答えず、懐から櫛を取り出すと、それを草閒に手渡した。


「…………これは?」


 手のひらに乗せられた櫛を見る。その櫛は白と緋の二色で彩られていた。


「……稲田先輩は、どうしたんですか?」

「それを、持っててやってくれ。……それは姫乃ちゃんのものだ」

「それって…………まさか……」


 草閒はもう一度、手の上の櫛をみる。


「……遺品ってことですか?」

「…………」


 須佐は、「違う」とも「そうだ」とも言わない。けれど、彼が見せた表情が答えを告げていた。

 草閒は崩れるように両膝を折った。稲田たちを待つ間、一度も折ることのなかった膝を折った。膝をついた地面が泥を飛ばす。


――どうして、なんで。こんなことがあるのか。


 声にならない叫びが草閒の喉から生まれる。

 遅れて、須佐を出迎えに玄関から出てきた冬美と光男は、須佐を見て表情を明るくし、それから両膝を地面につき頭を垂れて叫び声を上げる草閒を見て、稲田の姿が見えないことに気がつき唇を噛む。


「――草閒君……」


 草閒の耳には誰の声も聞こえなかった。ただ激情に従って、声にならない声を上げる。

 胸に抱いた彼女の櫛が、ほんのり温かかった。

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