3.5
それから二日が経った。
水曜を迎えたその日の放課後、稲田と草閒は並んで帰路についていた。
「雨、どんどん強くなってきてますね」
「そうですね」
草閒が指摘したように、雨はますますとその勢力を拡大しつつあり、毎日が嵐のような惨状になっていた。風こそないものの一日中降り続ける雨は地盤を緩め、道を水に沈め、人々の気力をジワジワと削ぎつつある。テレビもこの異常気象で持ちきりだった。
「やっぱり、台風みたいに待っていれば過ぎ去る……なんてことはないんですよね?」
一縷の望みを込めたその問いを、稲田は首を横に振って打ち消す。
「待っていてても、状況は悪化するのみです」
「そうですよね……」
どこを見ても視界には雨が映り込み、耳には地上のものを削る雨音が飛び込んでくる。どうしてもそれを無視することはできず、自然と話は湿っぽさを帯びてくる。
どうにかして稲田といる間だけは明るい空気にしようと、草閒が何か話題を探していると、隣で「あっ……」という呟きが聞こえた。そして彼女が脚を止めた。その理由は、すぐにわかる。2人が進む道の先に、傘を差した人が立っている。顔は隠れて見えない。だが、見ずともわかる。その人が着ていたのは――
「須佐さん?」
草閒がそう呟くと、離れて立っているその人は傘を持ち上げて顔を見せた。それから2人の方へと近づいてくる。
「?」
その姿に、わずかな違和感を覚える。
着ている服に違いは無く、その人は間違いなく須佐武男その人であった。だが、ほんの数日前にみた須佐とは纏う空気が違っていた。彼が近寄っただけで、肌を刺すような張り詰めた空気を感じた。
「……いつですか?」
稲田が聞く。
「――明日だ」
須佐が答える。
「明日の朝に出る」
「……わかりました」
それから稲田は横を向いて言う。
「……そういうことなので、明日からは一緒に学校に行くことはできません」
「…………そうですか」
草閒はそう答えるのが精一杯だった。
それから稲田は草閒の横を離れ、須佐と共に歩いて去って行く。後ろを向いて須佐の背中には、剣道部が持つ竹刀袋のような、細長い黒色の袋が掛かっていた。2人の背中はどんどんと遠ざかっていく。
草閒には彼女のことを呼び止めることなど出来る訳がなかった。しかし、それは諦めと同義ではないかった。
彼らの姿がやがて完全に視界から外れると、草閒は歩き出す。
自宅に帰った草間は、中学の修学旅行で使った鞄を押し入れの中から探し出して、それを引っ張りだした。今見ると少し子どもっぽいデザインだがいいだろうと、その口を広げる。そして彼は準備を始めた。稲田たちに付いていく準備を。
稲田にそのことを言えば、激しく反対されるであろうことはわかりきっていたため伝えてはいない。
洋服タンスから数日分の衣服と下着を鞄に詰め、机の上の貯金箱と封筒に入れてしまっておいたお年玉も全て鞄に収める。用意するものといったらそれくらいしか思い付かなかった。それでも、それだけあれば何とかなるだろうとも思った。
その日、草閒はなかなか寝付けなかった。
稲田たちは明日の早朝に出発すると話していたが、それがどれくらい早朝なのか予想が付かない。だからこの日は十時にはもう布団に入ろうと意気込んでいたのだが、いざ布団にくるまり部屋の電気を消して、目覚ましをセットしても草閒が夢の世界に誘われることはなかった。それどころか、明日のことを思うと思考は巡り、目が冴えていく。早く眠らないと、そう思うほどに眠りは遠ざかっていく。窓の外の雨音がやたらに気になる。雨音に混じってカエルの鳴き声も聞こえる。以前なら草閒の家がある住宅街ではカエルの鳴き声なんて聞こえなかったのだが、関東全域が雨に犯されつつある今ではカエルは至る所に活動範囲を広げていた。
結局、草閒が眠りに落ちたのは日付が変わるころで、いつもと変わらぬ入眠時刻だった。
――――――ジリリリリリッ。
耳元で喧しい音が草閒の耳朶を叩く。
「んぁっ……」
いつ聞いても深いな音に、しかめ面をしながら目覚ましを止める。
――まだ寝たりない。
それからもう一度寝ようとして、ハッとして時計の針を確認する。
寝る前に目覚ましを四時にセットしていた。それは最寄りの電車の始発より1時間ほど早い時間。時計の短針は四時を、長針は1時の方向を指していた。
――まだ大丈夫だ。
今のですっかり目を覚ました草閒は布団を出る。いつもの癖でカーテンを開くが、まだ外は暗い。
着替えを済ますと、寝る前に用意した旅行鞄を背負う。それからそっと、物音を立てないように部屋を出て、階段を降りていく。当然、家族にも今日これから行う事は言っていなかった。それこそ、言えば当然のように反対されるからだ。
一段、一段と夜中に忍び込んだ強盗のように忍び足で慎重に降りていく。重心を移動させるために足下からギーッと床板の木材が音を立てる。その音で両親が起きてしまわないかといちいち心が跳ねる。あとで気付いたことだが、多少の物音なら外の雨音にかき消されてしまうため、それほど慎重になる必要はなかったがその時はそまで頭が回らなかった。睡眠不足のせいだろう。
いつもの数倍時間を掛けて玄関まで辿りつくと靴を履く。それから玄関の扉を開けようとして、あることを思い出して一度靴を脱いでリビングに戻る。適当なチラシの裏紙に草閒はペンで「数日出かけてくる。遅くても金曜には帰るとおもう。心配無用」と大きく書いてテーブルの上に書き置きを残した。一応後で両親の携帯にメールを送っておくつもりだったが、こっちの方がてっ取り早いと思ってのことだった。それから、再び靴を履くと玄関を出る。
草閒は最初、駅に向かおうと歩みを進めていたが、途中で行き先を変えた。考えてみれば彼らが電車を使って移動するかどうかは分からない。それに気づくと、途中で行き先を稲田の家に変えた。玄関で張り込みをしようという算段だった。ここになって少しずつ頭が回り始めていた。
草閒が稲田の家に辿り着いたのは、長身の針が半分を回った頃だった。
それから草閒は玄関が見える位置に立って、2人が出てくるのを待った。ただただ待った。途中、もしかしたら2人はすでに家を出てしまったのではないかと不安に駆られたが、それでも草閒は待った。仮にそうだとしたら、もう2人は移動を初めてしまっているのだが、それでも待った。
――もしかしたら、早すぎたのかもしれない。
時刻が五時を迎えたころになって草閒がそう思い始めた矢先、稲田の家の玄関から鍵を外す音がして、扉が横に開いた。そして中から稲田と須佐が順に出てくる。先に出てきた稲田は、
立ち疲れてしゃがみ込んでいた草閒はそれを見て立ち上がった。稲田は「どうしてここに?」とあからさまに驚いていた。2人は草閒の元に歩み寄ると言った。
「……見送りに来てくれたんですか?」
そう訊ねたのは稲田だった。
「いいえ。違います」
草閒は身体を捻って、背中に背負った旅行鞄を見せる。
「俺も一緒に行きます」
「ダメです!」
稲田は声を荒げた。
「危険なんですよ!?」
「分かってます。先輩が覚悟を決めたように、俺も決めたんです。先輩達に付いていくって」
「何を言ってるんですかあなたは!? 来たって意味がないんです! あなたはここでわたしたちの無事を祈って、待ってくれればそれで十分なんです!」
草閒は彼女が何と言おうと食い下がってやめなかった。
やがて自分1人では説得仕切れないと判断した稲田は、黙って2人のやりとりを見ていた須佐に助けを求める。
「須佐さんも何か言ってください」
そう催促されて、須佐は呆れたように言った。
「……無駄だよ。彼はもう付いてくると決めた目をしてる。たとえオレが何を言っても彼は付いてくる気だ」
「そんな」
「そうです」
「これ以上言い合うのは時間がもったいない。……付いてきてもいいが、それは途中までだ。君に何かあってはいけないからね」
「須佐さん!」
「はい、わかりました」
「よし、じゃあいこう」
そう言って須佐は歩き出し、その後を草閒は追う。
「ちょ、ちょっと! 待ってください!!」
最後まで稲田は草閒が同行することに反対していたが、それが意味をなさないと知ると、ついに諦めて2人の後を追った。
それから三人は電車に乗って東京駅まで向かうと、そこから東海道・山陽新幹線に乗り換えた。窓口で草閒が切符を買おうとしていると、須佐が草閒の分も支払おうとする。
「俺は自分の意思でついてくると決めたんだから、それくらい自分で払います」
そう言って断ろうとすると、
「変な意地を張るなくていい。お金のことは大人に任せておけばいいんだよ」
須佐がそう言って無理矢理に支払ってしまった。どうも子ども扱いされた気がして少しムッとしたが、素直に「……ありがとうございます」と頭を下げた。
新幹線に乗り、席につくとすぐに草閒は眠りに落ちた。寝不足がたたってのことだった。
その姿を見て苦笑する須佐。そこに稲田が言った。
「須佐さん。どうして草閒さんが付いてくることを認めたんですか」
彼女はまだ納得してなかった。
「それに、彼に大蛇のことを話したのも」
言いつつ、稲田はチラリと眠りの世界に落ちた草閒が目を冷ましはしないかと様子を窺う。
「何か考えがあってのことなんですか?」
「――ただ彼のことを応援したいと思ったからだよ。彼が姫乃ちゃんに好意を抱いてることはすぐにわかったからね。その恋を俺なりに応援したかったんだよ。余計なお節介だったかな?」
「見え透いた嘘はやめてください。須佐さんがそんなことで、無関係の人を巻き込むようなことはしないってことくらいはわかっています」
「嘘、ではないんだけどな。……まあそれだけじゃないことは事実だけども」
「一体どうして?」
「それは、たぶんあとで分かる時がくるさ」
そう言うと須佐は席のリクライニング機能を作動させた。
「さ、オレたちも彼に倣って休息を取ろう。到着まではしばらく時間があるから」
「須佐さん」
「おやすみ」
まだ話は終わってないと抗議する稲田を無視して、須佐は耳栓を付けて寝る態勢に入ってしまった。こうなってしまえば彼に声は届かない。
話を途中で切り上げられたことに稲田は不満を抱き、気を紛らわせるために窓を流れる景色に目をやっていたが、やがて眠気に誘われて眠りについた。彼女もまた、今日のことを考えていたせいで十分な睡眠を取れてはいなかった。目を閉じてから、意識を手放すまでにはそう時間はかからなかった。
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