3.4

「稲田先輩、あなたは草閒先輩のことをどう思っているんですか?」



 人の気の少ない、特別教室が並ぶ廊下の一角で、稲田を目の前にして穂坂はそう言った。問われた稲田は、その言葉に面食らう。


「どうして、あなたが草閒さんのことを?」


 目の前の一年生がどうしてそんなことを聞いてくるのか、その意図が分からなかった。稲田の表情が険しいものになる。

 しかし、穂坂はそれには答えず、


「私のことはどうでもいいんです。今は私があなたに聞いているんです。どうなんですか?」


 と、先程よりも強い語調でせまった。

 一度か二度顔を合わせた程度で、ほとんど見ず知らずといってもいいほどの他人から向けられる敵意が込められた視線と言葉に、普段から物腰穏やかな稲田も流石に感じるものがあった。


「――それにはお答えすることはできません」


 彼女はきっぱりと、穂坂の要求をつっぱねた。

 何者をも寄せ付けないその物言いに穂坂は一瞬鼻白む。それでも彼女は追及をやめない。


「どうしてですか?」

「わたしや草閒さんとどのような関係があるのか判らない方には、お答えする理由がないからです」


 稲田は年長者らしい毅然とした態度だった。


「申し訳ないですがお引き取りください」


 そう言うや、会釈をして穂坂の横を通り教室に戻ろうとする。

 だが、穂坂はそれで引き下がるほどやわではなかった。稲田とのすれ違いざまに、穂坂は言った。


「それじゃあ……私が草閒先輩の元恋人だと言ったらどうですか?」


 その言葉に稲田は足を止めた。

 一矢報いてやった。穂坂はそんな表情を浮かべる。


「気になりますか? 先輩が私の質問に答えてくれるでしたら、お話してもいいですよ」


 穂坂は交渉を持ちかけた。稲田の反応を見るに、交渉する余地はあるように思えたからだ。

 けれど、返ってきた答えは違った。


「…………いえ、結構です。私にはもう関係のないことですから」


 稲田はそう言って、止めていた足を再び動かした。

 穂坂は唖然とした。そして、それからわなわなと肩を震わせた。


「あなたは……何様のつもりなんですか!?」


 気づけば穂坂はそう口に出していた。彼女の内には、怒りに近しい感情が渦巻いていた。

 その声に、稲田は驚きながら振り返る。


「そうやって、上から人を見るような、そんな態度でいるから。そんなんだから!」

「わたしは、そんなつもりは決して……」

「あなたがそんなんだから草閒先輩は……私なんかに逃げてしまったんです。どうしてあなたは先輩にあんなことを言ったんですか!? どうしてあんな中途半端な……拒絶するならするなりに、相手のことを考えてあげて下さい! あなたがそんなだから……」


 それは純粋な怒りではなく、幾ばくかの悲しみや憐れみも織り交ぜたものだった。

 放っておけば今にでも泣き出してしまいそうな15歳の少女を前に、稲田は離れていた距離を歩いて詰める。


「大丈夫ですか……?」


 そう言いながらハンカチを取り出して向けるが、少女はそれを受け取らない。そして、彼女は俯きがちだった顔を上げた。


「……教えて下さい。あなたは草閒先輩のことをどう思ってるのか」


 穂坂の目には涙が浮かんでいた。

 目が合うと、たちどころに目を離せなくなる。涙の海を広げる暗褐色の瞳が稲田を見つめて放さない。


「あなたは、草閒先輩のことをなんとも思っていないんですか?」

「…………」

「違いますよね」


 涙声だった穂坂の声は次第に乾いていく。


「本当にどうとも思ってないなら、他に言いようがあったはずです。でも違う。あなたは、あの人のことを憎からず思っていた。だから、あんな言い方しか出来なかった。違いますか」

「……あなたに、私の何が分かるんですか」


 それまで黙って聞いていた稲田は口を開けた。


「私の何を知ってるんですか」


 その言葉には強い思いが込められていた。静かだけれど、小さくはない声。

「あなたに何が分かるのか」と稲田は言った。けれど、


「知りませんよ」と、穂坂は言う。

「あなたのことなんて知りません。これっぽちも知らないし、別に知りたいとも思わない」

「なら……」

「でも、草閒先輩は違った。あの人はあなたの事を知ろうとした。あなたはそれをないがしろにしたんです」


 穂坂は草閒の姿を思い浮かべる。


「――けど、それでも先輩は、あなたへの思いを捨て去れなかった。先輩は今でもあなたのことを想っています。……これはあなたの責任ですよ」


 穂坂が言い終えるのを待っていたかのように、チャイムが鳴り響いた。始業5分前を伝えるチャイム。


「――なんにせよ、今度はしっかりと草閒先輩の思いに応えてあげてください。……その答えが、たとえ良いものでなくたとしても」


 穂坂は身を翻す。


「それじゃあ、失礼します。お時間をいただきありがとうございました」


 最後にそれだけ言うと、穂坂は稲田を残して一足先に教室に帰っていった。

 稲田は1人、廊下に残される。


「私の……責任……」


 廊下の向こうから、階段を昇ってくる足音と数人の話し声が聞こえてきた。次の時間に特別教室を使うクラスの生徒達が近づきつつあった。

 それから彼女は、彼らの流れに逆らいながら来た道を戻る。

 教室に辿り着いたのは、始業ギリギリだった。




 そして、その日の放課後。稲田と草閒は再び顔を合わせることになった。





 3年E組の教室で行われる帰りのホームルームが終わり、教室からはまばらに人が出て行く。

 以前なら、残り数ヶ月の部活動を最後までやり遂げようと、主に運動部の生徒達が意気揚々と真っ先に教室を出て行ったものだが、今はその勢いも衰えている。降り続ける雨のせいで、サッカー部を主とした室外競技部は室内トレーニングを強いられているせいだった。それでも彼らは雨が明ける日を待ち望みながら、日々地道なトレーニングに勤しんでいた。

 憂鬱気な運動部達が出て行くと、そのあとに室内部活、文化系部活の生徒達が教室を出て行く。部活動に所属していない生徒達は各々のタイミングで教室を出て行った。


 稲田姫乃はその様子を、席に座って級友から借り受けたノートを書き写しながら見送っていた。全てノートを書き写し終わる頃には、稲田を除いて教室に人の姿は見えなくなっていた。

 借り受けたノートを「ありがとうございました」と言葉を添えて、持ち主の机の中に返却する。それから荷物を持って教室を出る。

 廊下に出ると、そこで待っていた人物は稲田の姿に反応したようで顔を向ける。それからその人物、草閒は彼女の名前を呼んだ。


「稲田先輩!」


 その声に稲田はつい顔を下に向ける。

 あまり会いたいと思う相手ではなかった。最後に会った時のこと、昼休みに穂坂が言ったこと。それらが彼女の内で気まずいという感情を作り出す。できるなら、そのまま無視して草閒の前からいなくなりたかった。


「聞きました。稲田先輩のこと……あの山に封印されていた怪物のこと」


 稲田はそれを聞いてハッと顔をあげる。誰が彼にそのことを話したのか……


「須佐さんですね……」


 考えるまでもなかった。自分以外にそのことを知り得て、さらに草閒と面識のある人物と言えば須佐以外には思い当たる人物はいなかった。


「あの人はいったい何を考えてそんなことを……」


 須佐の思惑がわからなかった。なぜ教える必要のないことを彼に教えてしまったのか。どうしてそんなことをしたのか。


「……けど、それでわかったでしょう。どうにもならないことなんです。私には……もちろん、あなたにも」


 だが、逆に都合がいいかもしれない。稲田は思った。

 話しを聞いたというのなら話しが早い。自分には何も出来ないのだと彼は思い知ったはずだ。


「……そうですね。先輩の言う通り、確かに俺が知ったところでどうにか出来るような話ではありませんでした」

「ほら……ですから」

「けど!」


 草閒は彼女の言葉を遮って、光の灯った目を向ける。


「それでも、俺にできることを何かしたい。先輩の助けになりたいって。そう思ったんです」

「そんなもの、ありませんよ」


 稲田は鋭く、草閒の言葉を切り捨てた。


「草閒さんがいたって何も変わらないんです。だからもう私には関わらないで下さい。――はっきりいって、迷惑なんです」


 稲田は草閒の申し出を、今度こそ明確に拒絶した。

 昼休みに話した後輩の女子は言った。彼の気持ちにしっかりと答えるのが責任だと。

 その言葉を口にすることは、稲田自身も心苦しかった。自分のことを思ってくれる相手に、それを迷惑だと言ってみせる。簡単なことではなかった。

 だが、穂坂が言うところの責任を、稲田は果たした。


「…………」


 草閒はしばらく何も言わなかった。その表情からは、何を思っているかは分からない。ただ、固く握られた拳がかすかに震えていた。

 稲田はそれ以上に言う言葉を持たず、目の前の少年が何か言うのを待っていると、彼は言った。


「……先輩は本当にそれでいいんですか?」


 何を言い出すかと思えば、今さらにしてそんなことを聞いてきた。稲田はそれに、決まりきった言葉を返す。


「いいもなにも、それが当然なんです」

「けど、それじゃあ先輩は」

「なら、あなたは私にどうしろっていうんですか?」


 稲田は目の前の草閒を厳しい目で見やる。


「須佐さんから話を聞いたんですよね」

「はい」

「それなら私達がどうにかしないと、どんなことになるかもわかりますよね?」


 これまで向けられたことのない稲田の睨むかのような視線に草閒は少しだけ怯む。しかし、ここで折れるわけにはいかなかった。草閒には、稲田に聞かなければいけないことがあった。それを聞くまでは彼とて引き下がるわけにはいかなかった。


「……はい。わかっています。わかっているつもりです」

「なら、そうしないといけないこともわかるでしょう?」

「それが、先輩の望むことなんですか?」

「……だから何度もっ――!」


 本当に現状を理解しているとは思えない草閒の言葉に、ついに稲田は気持ちを抑えられなくなった。


「――わたしが望むと望むまいと、わたしの意志は関係無いんです! わたしがやらないといけないんです! そうしないといけないんです!」

「そうじゃなくって!」


 相対する草閒の言葉も熱を帯びる。


「俺は先輩の気持ちが知りたいんです! 先輩は本当にそれでいいんですか!?」

「だからっ!! 私の気持ちなんて関係ないんですっ! あなたがどう思おうと、私がどう思うと、そんなものは関係無いんです!」

「俺は、先輩自身がどう思っているのかを、聞いてるんです!! 先輩は何も思ってないんですか!? 聞きました、先輩たちがやろうとしていることはとても危険なことだって。それこそ命に関わるかもしれないって。それでも先輩は自分の気持ちが関係無いって言うんですか!?」

「それがどうだって言うんですか!? 私がどう思っているかなんて……そんなものは、考慮に値するものじゃないんです。何を思おうと、結果は変わらないんです。……関係、ないんです…………」


 答えた稲田の声は、小さかった。最後の声は空気に消え入りそうなほど小さかった。


「……関係ないなんてことは、ありませんよ」


 草閒は言う。しっかりとした声で言う。


「だって、それは先輩のことなんですから。俺は関係なくても先輩自身は関係あるはずです」


 稲田は応えない。


「弱音を吐いたって良いんです。不満を漏らしたって良いんです。……またあの時みたいに、俺を不満のはけ口にして良いんです。先輩はそうしていいんです。いいえ、そうするべきなんです」


 草閒は思い出す。あの夕方、稲田が漏らした彼女の本当の気持ちのことを。彼女は今、それを責任という外部からの色で塗りつぶしてしまおうとしている。彼女自身がたとえそれを望んでいたとしても、草閒はそれを望まなかった。


「だから、教えて下さい。先輩の本当の気持ちを」

「……草閒さん……あなたは、どうしてそこまで」

「あなたのことが好きだからです」


 草閒は、嘘偽りのない正直な気持ちをぶつけた。


「俺はあなたのことが好きなんです。好きだから、何か助けになりたいと思うのはおかしいことでしょうか?」


 草閒は少し恥じらいながらも言った。

 しかし、目の前の彼女の顔は明るくない。


「けど、わたしはその想いには……わたしは今他のことに気を割くことはできなくて……」

「……いいんです。分かっていました。それでも俺は先輩の助けになりたいんです。先輩が弱音を吐きたくなった時に、何もできやしないけど話を聞くくらいは出来る。そういう存在でありたいんです」

「草閒さん……」

「先輩が、本当に何も思ってないならそれでいいんです……けど、やっぱり何か近い人には言えないようなことがあるなら言って欲しい。それが俺の望みです」

「…………」


 稲田は押し黙ってしまった。何か、考えているような表情。

 やがて彼女は口を開いた。


「…………怖いんです」


 ぽつりぽつりと、心の内を明かし始める。


「……本当は怖いんです。封印が解けて、こんなことになてしまって怖いんです。どうすればいいのいか、どうしなければいけないのかは分かっていても、やっぱり怖いんです。目覚めつつある大蛇を鎮めることが、大蛇と対峙することが、失敗してまうことが……そして、命を落としてしまうことが」

 

 彼女はつづける。今まで誰にも明かすことのなかった、彼女の思いを声に出して吐き出す。

 

「全てを放り出して逃げてしまうことも、考えました。でも、やっぱり怖いんです。私が逃げてしまえば、大蛇は他の封印を破って力を取り戻してしまう。そうなったら終わりです。手が付けられなくなった大蛇は列島を水の下に沈めてしまうだけの力を持っている。

 だから、結局わたしに選択肢は1つしかないんです。そして……それが恨めしい。どうして私なんだって。最初から分かっていたことだけど、思ってしまう。思わずにはいられない。私は出来た人間なんかじゃない。代わってもらえるものなら、だれかに代わってほしい。そんなことを思ってしまう、弱くて自分本位なただの女なんです」

「……それが普通ですよ。誰だって、痛い目やツラい目には遭いたくない。そう思うのが当然のことなんですよ。だから、先輩がそう思うことは何も悪くありません」

「わたしだって、同じ年代の女の子と同じように遊んだり、大学に行ったりしたかった」

「……出来ますよ。やるべき事を終えた後に、好きなだけ遊べばいいんです。大学にも行けばいいんです」

「わたしは……お父さんとお母さんの娘で、代々受け継いできた使命なんてそんなものはないただの女の子でいたかった」

「…………先輩は――」

 ――弱くなんてないですよ。


 草閒は言う。


「そんなの、俺だったらとっくに潰れてます」

「……私だっていまにも潰れてしまいそうです」

「けど、それでも先輩は、自分の気持ちを押し殺してまで覚悟を決めた。やっぱり先輩は凄いんです」

「わたしなんて……」

「だから、先輩なら大丈夫ですよ」


 あのときと同じ事を、草閒は言った。


「先輩ならきっと上手くできますよ」


 けれど、今はあのときとは違う。草閒は知っている。全てを知った上で言っている。


「先輩なら大丈夫です。俺がそう保証します」


 彼女なら絶対になんとかできる。草閒はそう確信していた。


「俺なんかが保証したところで、気休めにもならないとは思うけど、それでも言います。先輩なら大丈夫です!」


 その根拠を問われても、上手く説明することはできない。それでも草閒はそう思った。


「…………そうやって、何度も言われると、本当にそうなんじゃないかって思えてくる。


彼女の顔には色が戻りつつある。


「……不思議ですね。どうしてでしょうか」


 稲田の顔から、不安や恐怖の色は薄らいでいた。全てが取り除かれたわけではないが、その表情はもう悲壮なものではなかった。


「それは先輩が、それができる人だからですよ」

「そうでしょうか?」


 言って、稲田は笑った。


「……いえ。そうなんですね。草閒さんが信じるわたしを、少し信じてみようと思います」

「稲田先輩……」


 それから2人は並んで学校を出た。

 結局稲田は、草閒が寄せる彼女への好意には答えというものを出さなかった。けれど、草閒はそれでいいと思った。


「先輩」


 傘を並べて隣を歩く稲田を見て、言う。


「明日から登下校だけででも、ご一緒してもいいですか?」

「……はい。もちろん」

「ありがとうございます」

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