3.3

「んんっ……」


 ゆっくりと、寝ぼけ眼をこすって身体を起こす。それから、「うんっ」と、前屈の要領で身体を布団の下の足先に向けて伸ばす。それが彼女の起床時のルーティンだった。


――うん、身体の調子も悪くなさそう。


 稲田姫乃はまだぬくもりを残す布団から抜け出すと、それを片す。

 もう一度、今度は背中の方に大きく身体を反らすと、庭に通ずるすっかりたゆんでしまった障子戸を開いた。

 今日も変わらずの雨を確認すると、それから戸を閉めた。ピシャリと音がなる。


「――姫乃? 起きたの?」


 その音を聞きつけ、襖の向こうから母の声が聞こえてきた。


「はい、お母様」

「身体はもう大丈夫なの?」

「はい、もうすっかりと。今日からまた学校に行きたいと思います」

「――そう。なら、顔を洗ってらっしゃい。朝ご飯の用意をしておくから」


 足音が遠ざかっていく。

 それから寝間着から制服に着替えようとしていると、別の足音が近づいてくる。


「――学校に行くのかい?」


 今度は父だった。


「いつまでも休んではいられませんので」

「無理はしなくていいんだよ。どこか気分が悪いなら休んだって構わない。お父さんからそう連絡を入れようか? だからもう少し……」

「いえ、行きます。……学生なんですからか、学校には行かないと」

「……そうか」


 心配げな声だった。襖越しでも、父がいまどんな顔をしているのか目に浮かぶ。ただでさえ細い目を更に細めて、眉根を寄せているのだろう。


「でも、途中で少しでも気分が悪くなったらすぐに先生に言って早退するんだよ?」


 それから、父の足音は離れていった。

 父はいつも優しく、そして心配性だった。時々、そんなに過保護にならなくても、と思うことさえある。

 かといって、母が優しくないというわけではない。母は言葉遣いや作法には口厳しくことある毎に何かを言ってくるが、それは娘を思ってのことだと稲田は知っていた。稲田は両親の事が好きだった。

 学校の制服に着替え、洗面所で顔を洗って居間に向かうと朝食が湯気を立てていた。


「いただきます」


 並んだ朝食に手を合わせ、食材と料理してくれた母に感謝の言葉を口にする。「はい」と、台所で洗い物をする母の背から声がした。

 食事を終えると、母が言った。


「――今朝、出雲に戻った須佐さんから連絡があったわ。今週中には戻る、そう伝えてくれと」

「……わかりました」


 立ち上がり、食器を水に浸す。スポンジを手にして食器を洗おうとしていると、


「何やってるの? 学校に行くんでしょう。ほら、こんなことは私がやっておくから。歯を磨いたり学校の用意をしてきなさい」


 母が稲田の手からスポンジを奪い取った。


「はい」


 洗面所に戻り、稲田は両手に水を貯めるとそれを顔にかけた。冷たい水が身も心も引き締まる。それをもう一度。


「……よしっ」


 鏡に映る自分を見て、そう呟く。

 その後、全ての支度を終えると稲田は家の玄関を出た。傘立てから傘を引き抜き、空に向けて開く。雨音以外何も聞こえなかった。





 教室に入ると、稲田の姿を見た同級生たちが近寄って口々に言った。


「稲田さん! 風邪はもう大丈夫なの?」「二週間近く休んでたけど大丈夫? ノートとか見せようか?」「心配してたよ~」


 稲田はそれぞれ1人1人に丁寧に答える 。


「はい。先週は念のために、様子見ということで休んだだけなので、居間はもう大丈夫です」

「ありがとうございます。ノート、お借りしますね」

「ご心配おかけしました。けど、もう大丈夫ですので。ありがとうございます」


 周りを囲まれながらゆっくりと自分の席に向かい、一時限目の用意をしようとしていると、


「久しぶりだね、稲田さん。もう身体はいいのかい?」


 同級生の男が声を掛けてきた。


「はい。おかげさまで」

「それはよかった。それで、君に伝えておくことがあるんだけど」

「何でしょうか?」

「君が休んでいる間に、下級生が君のことを訪ねに来てね」

「下級生の方が? その下級生というのは――」


――草閒さんでは?

 そう聞き返そうとしてやめる。そんなはずはない。あの金曜の日に、稲田は草閒のことを遠ざけるようなことを言ったのだ。あのときの、彼の顔を稲田は忘れていない。その彼が、あの後も自分のことを訪ねて来たとは考えられなかった。


「……いえ、それでどなたが?」

「一年生の女の子で、穂坂優菜って子なんだけど。知り合いかい?」

「穂坂、優菜さん、ですか?」


 聞き覚えのない名前だった。


「うん。スポーツ祭の時に同じチームになった子でね」


 言われて、そんな子がいたかもしれないと稲田は思う。けれど、やはりそんな気がするだけで記憶には彼女の姿はなかった。


「それで、その穂坂さんは何と?」

「いや、ただ稲田さんはいるかって聞きにきただけで、用件までは」

「そうですか。わざわざありがとうございます」

「うん。それが伝えたかったことなんだ。それじゃあ」


 男は自分の席へと戻っていく。

 一年生の女の子が何の用だろうか。彼女にとっては全く心当たりのないことだった。


 それだけに、昼休みになって穂坂が3年の教室を訪ねて来たときは驚いた。



「すみません。稲田さんはいらっしゃいますか?」


 弁当を開き、これから手を付けようといった瞬間、稲田の3年E組の教室にそんな声が響いた。教室の入り口には背の低い女子が立っていた。上履きを見て、彼女が一年生だと分かる。


「ほら、彼女だよ。あの子が今朝話をした一年の穂坂優菜だ」


 男が稲田にそう教えた。


「――はい。私が稲田です」


 稲田が席を立って答える。穂坂は彼女を見る。


「お話があります。少しお時間頂けますか?」

「ええ」


 稲田は教室を出る穂坂の後にしたがった。

 教室を離れ、人通りの少ない特別教室のある一角へと穂坂は向かっているようだった。それから辿り着き、周りに人がいないことを確認する彼女は言った。


「あなたは、草閒先輩のことをどう思っているんですか?」



******************



 それと時を同じくして。

 二年E組の教室で草閒は、二週間ぶりに中村と話をしていた。


「この前は悪かった。せっかく話をしてくれたのに、八つ当たりみたいな態度をとったりして。あれは全面的に俺が悪かった」


 そう言って、草閒は席に座ったままの中村に頭を下げた。

 久しぶりに口を利いたかと思えば、突然に頭を下げ始めた友人の姿に中村は驚く。


「い、いいって。別に気にしてなんかないから。それに俺も悪い事言ったしさ、お互いさまだろ? 俺も悪かったよ」

「そうか……ありがとう」


 たったそれだけで、2人の間にあったはずのわだかまりは解消された。


「で、その顔は何か聞きたいことがあるって顔に見えるんだけど?」

「ああ。中村に聞きたいことがあってな」

「なんだ、やっぱりそういうことか」


 中村は笑った。


「それで、何が聞きたいんだよ?」

「――ヤマタノオロチって知ってるか?」

「そりゃあもちろん、知ってるけど……」

「それについて教えてほしいんだ」

「いいけど、どうしてまた?」

「それは――」


 言ってもいいものなのだろうか。

 草閒の脳裏に一瞬そんな疑問がよぎった。


「――まぁどうせまた、稲田先輩に関係してるんだろ?」


 中村は何もかも見透かしているような、そんな表情で笑う。


「友人の頼みだ。それにこの前の詫びの意味も込めてな。俺だって俺なりにお前のことを応援してるんだぜ?」


 それから中村は、彼が知る限りの八岐大蛇に関する知識を話してくれた。

 その大部分は須佐から聞いた話と共通するものだったが、中には須佐があえて詳細を省いたであろう話や、別説も含まれていた。中村が一通り喋り尽くした頃には、昼休みも残りわずかになっていた。


 中村の話を要約すると、「大昔出雲に現れた八岐大蛇は、河川の氾濫を怪物の仕業と考えた当時の人達が産みだした伝説」とする説であったり、「たたら製鉄を行って栄えていた出雲の部族を、当時の権力者達が征服した」という説だったりと歴史的見地から見たものが多かった。しかし、その話しぶりから八岐大蛇が実在した化物とは思っていないようだった。

 そして最後に、


「――けど俺の父さんは、八岐大蛇が目覚めるだとかいって騒いでたな」


 と付け加えた。


「それは……どうして?」

「ほら、前に話しただろ? あの山は蛇神を封印している場所で、蛇は水を司るって。それで父さんは、それが八岐大蛇だって言ってるんだよ。俺が、証拠はなんだ、って聞いても、『今起こっていること、それこそ証拠だ』って言って聞かないんだよ。最近はずっと文献を調べてばっかりでさ」


 中村は「もっと現実的に考えろよな」と実の父への悪態を口にした。

 それを聞いて、須佐から聞いた話を中村に伝えるのは止めておこうと決めた。中村に話せば、きっとそれは彼の父に伝わり、それがどんなことに繋がるかは想像にやすかった。


「……そっか、ありがとう。参考になったよ」

「そうか? なら良かった。また何かあったら聞いてくれよな」


 話しを切り上げ、草閒は自分の席に戻った。

 それから間もなくして、始業5分前を告げるチャイムが教室に響いた。

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