3.2
「あれが雨乞いの儀式じゃないってことはもう知ってるんだったよな?」
階段を降り終えたところで須佐が言った。
すでに知っていることを前提としたその言い方に多少疑問を抱きはしたが、たぶん稲田先輩から聞いたのだろうと草閒は頷いた。
「はい。人にとって善くない神様を封印しておくための儀式なんじゃないか、っていう話を友人から聞きました。あのとき、俺と一緒にいた奴です」
中村の姿を思い浮かべる。
「ああ、何やらあの場所を散策していた彼か。……なかなかに鋭いね」
「ということは」
「ああ、その彼の言うとおり、ここで行われていたのは、とある神を封印したままにしておく為の儀式だった」
須佐はあっさりと中村が語った説を認めた。
「……良いんですか、そんな簡単に認めちゃって。今まで誰も知らなかったってことは隠しておく理由があったからじゃないんですか?」
自ら望んだことだが、あまりにもあっさりと認められ拍子抜けの気分だった。
須佐は言う。
「隠してたわけじゃない。ただ年月を経るにつれて真実を知る者がいなくなり、この周辺の土地利用も相まって雨乞いと同一視されただけのことだ。けど、それを敢えて正そうとしなかったんだから、隠しているといわれたらそうかもしれないな」
「……それで、ここにはどんな神が封印されていたんですか?」
草閒は核心に踏み込んだ。
きっと神の名前なんて聞いてもピンと来ないだろうとは思ったが、知っておきたかった。名前さえ聞いておけば後で調べたり、中村に聞くことが出来る。
しかし、返ってきた答えは草閒でも聞き覚えのあるものだった。
「――八岐大蛇。2400年前に、出雲の地に現れたとされる怪物だ」
「へ? ヤマタノオロチって…………あの?」
八岐大蛇。それは中村ほど歴史や神話に熱心でない草閒でも聞いたことのある名だった。
名前の通り八本の頭を持ったとされる蛇、というよりかは龍に近い想像上の怪物。幼い頃に絵本か何かで見たそれは、緑の身体に真っ赤な目をしていたのを記憶している。
「そうだ。どんなイメージを抱いているかは知らないが、おそらくそれに大きな間違いはないだろう。そいつの頭の一つがこの山に封印されていた」
須佐は背後にそびえる小山をふりかえりながらそんなことを言った。
草閒は動揺した。八岐大蛇という名前を聞いて恐れたからではない。むしろ、その逆だった。
須佐から語られる神の名が全く聞いたことのないものであったのなら「なるほど。そんなものが」と、理解の範疇を超えた未知の存在に対してある種の諦観とともに受け入れることが出来たのかもしれない。けれど、八岐大蛇という中途半端に知っている名が出たことで、一挙に現実に引き戻された気がした。幼い頃耳にしたその名は、空想上の存在という認識が草閒の中に根付いていて、どう反応すればいいのかわからなかった。。
「――いまいち飲み込めてないようだな」
表情からそれを察したのか、須佐が言った。
「草閒くん、君の八岐大蛇に関する認識を教えてはくれないか? 一度言葉にして客観的に見てみることで変わるものもある」
「けど、そんな人に言えるほど知ってるってわけじゃないんですが……」
「何でもいい、言ってみてくれ」
「それじゃあ……」
渋々と草閒は知っていることを言葉に起こす。とはいっても、本当に草閒は大した知識を持ち合わせていなかった。渋々と、草閒は話す。
「……八つの頭を持つ蛇みたいな龍で、身体は緑で目は赤くて、大昔の日本に現れたところをどこかの神様に退治された想像上の怪物。……本当にこれくらいしか知らないんですけど」
「ありがとう。それが世間で言われる八岐大蛇神話の大筋だね。けれど、それには2つ大きな誤りがある」
須佐はそう言って2本の指を立てる。
「間違い?」
「1つは、想像上の存在だということ。あれは間違いなく実在した怪物だ」
須佐は立てた指を1つ折る。
「そしてもう1つは、八岐大蛇は完全には退治されなかった、ということだ」
そう言って須佐は残っていた指を折った。
彼が言った1つ目の間違いというのは、話の流れからそうであることは想像出来た。しかし、2つ目の内容はすぐに飲み込むことが出来なかった。
「だとしたら、実在しているのに退治されていないっていうなら、俺が昔読んだ話は全くの嘘ってことになります。どういうことなんですか? 須佐さんの話が本当なら、なんでそんんは話が世間に広まっているんですか?」
「確かに退治は出来なかったが、全くの嘘ってわけじゃない。かつて奴を退治しようとした神にはその力が足りなかったんだ。自らの力に驕った神は、1人でやつに挑んでその首を幾つか斬り落とした。だが、全ての首を切るには至らなかった。そこで、切った首を持ち去ってその存在を封印しておくことにしたんだ。……間違った話が広まったのは、多分その神が失敗を隠すためにそう言って回ったからかもな」
「……」
草閒は山の方を見る。
「それで首の1つが運ばれたのが、ここ……?」
「そうだ。その他にも日本の各地に切った首は持ち運ばれ封印された。上は福島から、下は鹿児島まで。日本各地に散らばらせた。本体が眠る出雲、島根からはなるべく遠ざけるようにしてな。――ところで、蛇、または龍が何を象徴するかは知っているか?」
視線を須佐に戻す。
「たしか、水辺に見ることが多いから、水神や農耕の神だとか……これも友人が言ってたことなんですが」
「なんだ、知ってたのか。なら話は早い。……封印したといってもその力は強大で完璧に押さえ込むことは出来なかった。封印から洩れ出た力が引き起こしていたのが、梅雨と呼ばれる現象だ」
須佐は言う。
「あれは二つの気団がなんたらとか言われているが、その実、あれは封印された八岐大蛇が引き起こしているものだ。学校で学ぶことは因果関係が逆で、雲が出来るから雨が降るんじゃなくて、雨を降らせるために発生するんだ」
その言葉に草閒はあの儀式の日の事を思い出す。確かに、アレは雲が出来たから雨が降ったというより、雨を降らすために雲が現れたように思えた。
「それじゃあ、日本に雨が降るのは全部……」
「日本に降る雨が全てそうっていうわけじゃない。当然、自然現象による降雨もある。だが、こと梅雨に関して言えばそれは八岐大蛇のおかげ、というのも変だがそうなってる。けど、それで日本に稲作が定着したっていうんだから悪い話ばかりじゃない」
不思議と、草閒は須佐の語る話を信じ始めていた。だが、彼はまだ大事なことを聞いていなかった。
「……なんとなくの話しは分かりました。けれどそれに稲田先輩は、あなたはどう関係しているんですか? 今の話を聞いた限りではそれらしい話はなかったと想いますが……」
正直なところ、何が封印されていたかなどどうでもいい話だった。知ったところで、それらを草閒がどうこう出来るとも思っていないし、そうしようとも思っていなかった。
須佐は頭を搔いて言った。
「ああ、そうだった。君が感心があるのはそれについてだったね。つい話が逸れてしまった。でも、オレ達の話をするには避けて通れない話でもあったんだ」
それから須佐は話をつづける。
「ここには八岐大蛇の首の1つが封印されていて、出雲には本体が封印されているといった。で、その封印を監視して適宜封印を張り替える役目を負ったのがオレの家でもある須佐家と姫乃ちゃんの稲田家だったんだ」
「それは、わかります。でも、どうしてそれが稲田先輩でなきゃいけないんですか」
「そう焦るな」
つい熱が入りかけた草閒を、須佐が抑える。
「封印されているとは言っても、梅雨の話でも触れたとおり危険が伴うことは必至だった。それを普通の人間に任せる訳にはいかない。そこで二柱の神がそれを監理することになったんだ。さっき、とある神が八岐大蛇討伐に名乗り出たと言ったね。その神の名前を知ってるかい?」
「いえ」
首を横に振る。思い出せそうで思い出せなかった。
「その神の名前は須佐之男命という」
「あっ」
思い出した。名前を聞いて記憶が蘇った。
「たしかそんな名前だった気がする」
「そうか。思い出してくれたか」
須佐は苦笑した。それから、「つまりはそういうことさ」と言った。
――つまりはどういうことなのか。
草閒は一瞬分かりかねた。
かつてヤマタノオロチと対峙した神の名前が「スサノオ」だと分かったところでどうというのか。
それから「須佐さん」と、目の前の男の名前を呼ぼうとして、ようやく草閒は気がついた。彼の名字と神の名前の響きが似ていることに。
「もしかして」
草閒は男の顔を見上げる。
「須佐さんは……その神の、末裔なんですか?」
男は少し照れたような顔をして「そうだ」と認めた。
「それじゃあ、稲田先輩も……」
あの金曜の日、稲田は「自分が特別な血を引く家の人間だ」と言っていたのを思い出す。聞いた時は、その前の話による動揺が大きく、あまり考えなかったが、今になってその言葉の意味を草閒は理解した。
「ああ。姫乃ちゃんも、オレの家とは由来を別にするが同じく神の血を引いている。そして、だからこそオレ達は神代から受け継がれてきた使命を果たさなければならない」
「その使命っていうのが、封印から目覚めたヤマタノオロチをどうにかする……そうなんですね」
「どうにかするんじゃない。今度こそ、完全に退治するんだ」
須佐は言い切った。
「退治って、そんなこと出来るんですか?」
思わず草閒は訊いた。
「大昔の神様が退治出来なかったから封印されていたんですよね? それなのに、いくら神の子孫だからって須佐さんがどうにかできるようなものなんですか?」
甚だ疑問だった。神の末裔と言えども、始祖である神と比べたらその力は劣っているに違いない。それなのに始祖が出来なかった退治が出来るのだろうか。
しかし、その疑問も想定の内だったのだろう。須佐は言う。
「八岐大蛇が完全に復活してしまったら、オレなんかじゃ歯が立たないだろう。それこそ赤子の手を捻るようにあしらわれるだろう」
「――っ、それじゃあ!」
「けど、やつはまだ首の1つを戻しただけだ。まだ封印が全て解けたわけじゃない。それならまだ勝ち目がある。……それに、オレのご先祖が負けたのは力に驕って単身で戦いに挑んだからだ。今度は、1人じゃない」
「それって…………」
嫌な予感がした。須佐はついさっき二柱の神が封印を監視することになったと言った。そしてそのひとつが須佐家で、片割れは稲田家だと言った。
その予感はすぐに現実となる。
「……そうだ。オレと、姫乃ちゃんの2人で奴を退治する。それが、須佐家と稲田家に伝わる当主の責務だ。彼女は当主として儀式を行った。彼女はもう立派な稲田家の当代当主となったんだ」
「それは危険なことなんですか?」
そうであってくれるなと、9割がた期待を込めての問いだった。しかし、須佐は首を横に振る。
「危険がないとは、いえない。……いやこの際、ハッキリ言おう。……生きて帰れる確証はない。それほどまでに奴の力は強大だ。君もすでに感じただろう。首一つだけであの瘴気だ。それが本体ともなればその数倍に及ぶ」
草閒はつい先程感じた感覚を思い出した。立っているだけが精一杯で近づくことすらままならないほどの、目の前に壁があるのかともおもうほどに身体を鈍くさせたあの感覚。あれが数倍にもなったら自分はどうなってしまうのだろうか。
「どうにかならないんですか?」
いくら神の末裔だと言っても無事では済まないのだろう。話をする須佐の表情も先程とは違って硬いものになっていた。
「どうにかなれば、とっくにそうしてる、……オレひとりでどうにかなるならそうしたい。だが、そうはいかないのが現実だ。それにこのまま何もせずにいれば、他の首の封印も解かれ奴は力を取り戻す。そうなったら、もうオレたちがどうしようと敵う相手じゃなくなる」
「須佐さん……」
傘の取っ手を握る須佐の手は固く閉じられていた。
それから、草閒は彼に声を掛けようとして、
「あれ……?」
身体に違和感を覚えた。身体を支える日本の脚に、傘を持つ右手に力が入らない。
草閒の不調に気づいた須佐が手を伸ばして身体を支える。
「――悪い。長話をしすぎたな。そろそろ行こうか。ここに長居するのは君の身体にとってよくない」
草閒は、須佐に身体を支えられながら山のふもとを離れた。森を抜けた頃には身体に力が戻っていた。
その数日後、須佐は出雲に向けてひとりで関東地方を発った。
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