3章

3.1

 穂坂が去り、2人から1人になった草閒は赤く腫れた頬のまま小山に向かった。


 穂坂と別れて背を押された今、稲田のことを、稲田を取り巻く状況について知る必要があった。そのためには、あの小山に行く必要があった。あの儀式の場を調べれば、稲田先輩の身に何が起こったのか、それを知る手がかりがあると思ったからだ。

 帰りの電車に乗る間も、歩いて小山に向かう間も、穂坂のくれた贈り物は左頬でその存在感を主張し続けた。


 田園地帯を歩き、儀式の前日に稲田と出会った場の変わりように草閒は愕然とした。

 過剰な水の供給により限界を超えた田の水は畦を越え、その間に作られた農道までもを飲み込もうとしている。植え付けられた筈の幼稲は水に流され、田の表面をたゆたっている。稲田と共に見た、あの幻想的な光景はもはや見る影もない。

 驚きと悲しみを胸に抱きながら、農道の上を歩いて行く。その先の森に入り、抜ける。そうすればいつか見た小山の入り口が姿を現す。


「っ――」


 森に入った瞬間から、草閒の身体を倦怠感、不快感、焦燥感が襲った。あの儀式の時に感じたものと同質のものだった。森の中を進むにつれ、それはどんどん強くなっていった。一歩足を踏み出す度に、身体が前に進むことを拒む。

 真夜中に1人でいわくつきの墓地に行くような、そんな気分だった。

 周囲は木々に囲まれ、頭上も林冠に覆われているせいで光は届かず、辺りは夜のように暗い。


 けれど、草閒は歩みを止めなかった。ジンジンと脈を打つように痛む左頬が、穂坂の想いが草閒をそうさせなかった。

 洪水のように正面から押し寄せる瘴気に抗いながら森を抜ける。山の頂上に続く石畳の階段が見える頃には、すでに限界を迎えかけていた。気を抜けばすぐさまその場に膝をついてしまいそうな得体の知れない重圧に耐えしのぎながら、石畳の階段の先を見上げる。頂上からはら、下に向かって小さな滝を作りながら雨水が流れ落ちている。


 ――これからこれを登るのか。


 そう思った途端、草閒の足から力が抜けた。膝を折るようにしてその場に座り込みそうになる。しかし、そうはならなかった。誰かが座りかけた草閒の腕を掴んでいた。


「……須佐、さん?」


 どこから現れたのか、草閒の背後に須佐が立っていた。須佐は腕を持ち上げ、草閒をじぶんの足で立たせる。


「どうしてこんなところに?」

「それはこっちの台詞だ。ひとりでこんなところに来て、死にたいのか?」

「死ぬだなんて――」


 ――何をそんな物騒なことを、と言おうとして草閒はつづく言葉を飲み込んだ。須佐の眉根を寄せ固く結んだその口許が、冗談ではないと如実に語っていた。


「……死ぬんですか?」


 急に不安に駆られた草閒が訊いた。須佐は口許を緩めた。


「言葉の綾だよ」


 それがどういう意味かは理解しかねたが、草閒は「そうですか」と一息ついた。


「けど、そうでなくてもこの雨だ。滑って足を怪我でもしたら大事になりかねない。危険なことに変わりはないんだ」


 だから早く帰るんだ。須佐はそう言って草閒を追い返そうとする。

 しかし、それに素直に従う草閒ではなかった。彼は毅然として二本の足で立ち、須佐の手を払った。


「そういうわけにはいきません」


 不思議なことに、つい先程まであった胃を締め付けるような不快感は消え去っていた。


「俺にはやるべき事があるんです」


 そう息巻いて、階段に向かって歩を進める。だが、数歩も歩かないうちに草閒はその足を止めることとなった。彼を再び謎の不快感が襲ったからだ。

 思わずその場にかがみ込む草閒の肩に須佐の手が置かれた。


「無理はしないほうがいい。いるだけでツラいんだろう?」


 彼はそう言った。草閒は隣に立つ男の姿を見上げる。


「あなたは、なんともないんですか?」


 須佐は、草閒の横に立ちながらなんでも無いような顔をしていた。それが不思議でならなかった。


「それに……」


 草閒は立ち上がる。須佐が平気な顔をしているのもそうだが、


「どうしてだか、須佐さんの近くにいるとなんともない。これはどういう……」


 またも不快感は身体から消え去っていた。一度でなく二度までも。そのきっかけは須佐であり、それが彼に起因するように思えた。

 須佐は考えるようにしていたが、やがて言った。


「……オレはこの上に用があるんだ。君もそうなんだろう? だったら一緒に行こう。1人で勝手に行動されるほうが恐いからね」


 願ってもない話だった。草閒それに頷いた。


 2人はゆっくりと階段を登った。雨に濡れた石畳は滑りやすく、草閒は何度か足を滑らせかけたが、そのたびに須佐がそれを助けた。

 階段の上に広がる空は他より色が濃いように見えた。大質量の雲が、今にも落ちて草閒達を飲み込んでしまいそうな、そんな圧迫感を与えた。


 足下に気をつけて階段を昇りながら、隣を歩く偉丈夫を見る。

 こうして須佐の横を歩いていると、彼の存在を強く感じた。背が高いということも関係しているだろう。須佐と草閒の頭の位置はそれ一つ分ズレている。だが、それだけでは言い表せない、目には見えない生命力のような、なにか人とは違うと思わせるものを感じた。それは稲田と対峙した時に感じる気持ちの高ぶりとどこか似ているような気もした。


「どうかしたか?」


 隣から浴びせられる無遠慮な視線に気づいてか、須佐は訊いた。


「いえ……須佐さんはどうしてここに来たのかと思って。さっきは答えてもらえなかったので」

「ああ。出雲……本家の方に戻る前にここをなんとかしておこうと思ってな。ほら、この前の儀式の時に注連縄が切れただろ? あのままほったらかしになってるんで、それはマズイだろうって」

「なるほど」

「まあ、でもそれはおまけ程度で。本当のとこは、1人でここに向かう君の姿を見かけたからだ。後を付けて正解だったな」

「……というと?」

「あのままオレが来なければ、君は階段の目の前で意識を失ってただろう。……さっきは脅かすように『死ぬ』だなんていったが、あれは丸っきりの嘘ってわけでもない。

 こんなところ滅多に人なんてこないだろ? あのまま君が無理をしていたらやがて倒れ、誰にも見つけられることなく、雨で濡れた身体は熱を奪われて低体温症に陥り、やがて眠るようにして凍死していただろう」


 淡々と語られる自らが辿り得た別の可能性に、草閒は身を震わせる。急に妙な寒気がして、腕をさすった。


「そう不安がることはない。あったかもしれない話だ。俺といればその心配はない」


 そう言って須佐は笑うが、草閒は笑えなかった。もし須佐が自分の姿を見かけていなかったら、もし彼が後を追おうと思ってくれなかったら。そう思うと笑えるわけがなかった。


 階段を上りきると、あのとき見た儀式の場が見えてきた。あの儀式の日と違うのは、足元はすっかりと水に覆われ足の踏み場がないことだった。平坦に整えられた地面は雨水の逃げ道を考えていなかったのか、地に落ちた水はあるがままになっている。

 どうするのかと横を見ると、須佐は足が濡れるのも意に介さず足を踏み出した。一瞬躊躇するが、草閒もその後に続いた。彼の側を離れはいけない、そんな気がしたし実際そう言われた。


 一歩足を踏み出しただけで靴の中に水が入り込み、靴下もろとも足が濡れる。歩く度にぐちゃぐちゃと、不快感が足にまとわりつく。須佐はそんことは気にも留めず、足を進める。

 須佐は裸のまま置かれる大岩に一瞥をくれると、それから儀式の時に稲田が姿を現した木造の社殿に土足のまま踏み入った。少し躊躇いながら草閒もその後につづいた。


 社殿の中には、結局使われることのなかった注連縄が壁に掛けられている他に、同じく焚き上げで使う予定だった稲藁が部屋の隅に積まれていた。しかし、この長雨で湿気を含んだせいか、もう火種にはならなそうだった。

 足を乗せると床板がミシミシっと嫌な音を立てた。だいぶ老朽化が進んでいる。底が抜けるんじゃないかと一瞬不安に駆られるがそんなことはなかった。

 須佐は壁に掛けられた注連縄を手に取ると、それを肩に乗せて外に出た。もう少し中を見ていたかったが、須佐の後に続いて外に出た。


 須佐はそれから傘も差さずに岩の目に立つと、1人で岩に縄をかけはじめる。普通なら数人で行う作業であり、須佐が難儀しているのを見て草閒は手伝いを申し出たが、彼がそれを断った。


「いや、結構だ。間違って岩に触れでもしたら、それこそ本当にどうなるかわからない。そこで見ててくれ。いいか、見てるだけだぞ。絶対にこっちには近づいてくるなよ。そうだ、そのまま」


 岩に縄を巻きながらも須佐は、少し離れた傘を差してその様子を見守る少年から目を離さなかった。

 あの儀式の日、自分が目を離したわずかな間に稲田が倒れてしまったことは須佐は気に病んでいた。彼女だから気を失ってそれからしばらく寝込む程度で済んだが、もしあれがそれ以外の人間だったらと思うと、身が凍る思いだ。


 どうにかして注連縄を巻き終えると、草閒に預けていた自分の傘を須佐は受け取る。すでに身につけていた甚平は水を含んでいたが、それでもこれ以上濡れるのを嫌って傘を開く。

 それから2人は登ってきた階段を下りはじめた。

 最初、草閒は黙って須佐の後につづいていたが、やがて我慢出来なくなり口を開いた。


「ここは一体なんなんですか? ここを登る前入り口で感じた嫌な空気といい、儀式といい、雨と良い、あの岩といい。ここには一体何が封印されていたっていうんですか?」


 溜まりに溜まった疑問を草閒は目の前の男の背中にぶつけた。

 稲田は答えてくれなかった。しかし、どうしてだか、目の前のこの男なら答えてくれる気がした。


「それを知って君はどうするんだ?」


 ふりかえり、須佐はあのとき稲田が口にしたの同じ事を訊いた。

 あのときの草閒はその問いに対して答えを持っていなかった。


――知って、あなたは何をするんですか?

 

 あの瞬間、あのときの感情が蘇る。これはあのときのやり直しだった。今目の前に立っているのは須佐ではない。あのとき、悲しそうな、それでいて全てを受け入れたような顔をした稲田がそこには立っていた。

 草閒はあのとき言えなかった答えを口にした。


「俺にできることをします」


 何が出来るかはわからない。何があるのかもわからない。それでも、その中で自分に出来ることをする。それが、草閒の出した答えだった。

 穂坂からの後押しがあり、ようやく草閒は自分の答えを見つけることができた。

 須佐はそれを聞いて笑った。


「――分かった。俺が知ることを全て教えよう」


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