2.11

「俺は……穂坂の気持ちに責任がある」

「……どういうことですか?」


 期待していたのとは違う答えに、穂坂は怪訝な表情を見せた。


「穂坂が俺のことを想ってくれるのは、スポーツ祭のときのことがきっかけだろ。だから……」

「先輩のことを好きになったのはそれがきっかけだって、いいましたか?」

「え? ああそれは」

「先輩は、私が先輩に守られたと思ったから、好きになったって、本気でそう思っているんですか?」

「だって、そうだろ?」


 草閒はそれ以外に、目の前の後輩が自分を好く理由などないと思っていた。事実、それ以外に2人の間でそれといった出来事がないのだから。

 穂坂は呆れたように肩をひそめた。


「物語のお姫様じゃないんですから、そんなことで好きになるわけないじゃないですか。それに、先輩は隠しているつもりかもしれませんが、あのとき先輩が私を守ろうとしたんじゃないってことくらい気がついてますよ」

「……え、え?」

「だって、先輩がそんなことする理由がないじゃないですか」


 今となっては言うまいとしていた真実が知られていると分かり、草閒はうろたえた。同時に疑問を抱く。


「そこまで知っていながら、穂坂はどうして、俺のことをそんな風に想ってくれるんだ?」


 不思議でならなかった。これはひどい裏切りに当たると、草閒は自分のことながらに思っていた。穂坂の立場を考えれば怒りを露わにするのが当然のことだと。けれど、彼女は怒っていないといった。

 

「それはもちろん――」


 それは………………。

 草閒の問いに答えようとして、穂坂は言葉に詰まった。


――私は、どうして先輩のことを好きになったんだろう。


 穂坂の内に小さな疑問が芽生えた。それは、きっかけなど何でもいいと、無視するわけにはいかないものだった。


――草閒先輩があのとき、私のことを守ろうとしたのではないことに気がついたのは、あの後ファミレスで話をした時だった。


 穂坂は自らの記憶を呼び起こす。


――それまではぼんやりとだが、先輩は私に気があるのだと思っていた。だが、ファミレスで話をしてそれは違うのだと気がついた。先輩の戸惑うような、どうして自分が呼び出されたのかと不思議がる態度を見て気づいた。あのとき先輩は意図して私を守ろうとしたんじゃないって。それに気づいたとき、不思議と悲しさはなかった。


 穂坂の心に芽生えた疑問の種は急激に成長して、根を茎を伸ばしていく。


――それに気づきながらも私は先輩に交際を迫った。先輩が私に気がないと分かっていながら。

……なんで私はそんなことをしたんだろう。あのとき、先輩がそれを断るとは思わなくとも困惑するだろうことは予想がついたはずだ。それだけじゃない。先輩はきっとあのとき、私以外の誰か――それこそ稲田先輩かもしれない――を守ろうとしてああしたということも、分かっていたはずだ。それが分かっていながら私はどうして先輩に…………。


 そして、その種は花を咲かせた。それはけっして綺麗なものではなかった。



「……穂坂?」


 彼女の顔は、青白くなっていた。悪いものでも見たかのような、そんな顔をしていた。草閒が疑問の声を上げると、少女の目からは涙がこぼれた。


「どうして泣いて……」


 静かに、穂坂は静かに泣いていた。声を上げることはなく、ただ静かに、両の目から溢れた涙が一筋の線を描いて顎を伝って落ちゆく。

 草閒はすぐさま自分の言動を悔いた。


「……そんなの聞くまでもないよな……ごめん」

「いえ、違うんです」


 彼女は涙を流しながら、言った。


「私が……私が悪いんです」

「……何言ってるんだ。穂坂が悪いわけないだろ」

「違います。私のせいなんです」


 穂坂はそう言って聞かなかった。


「なんでそうなるんだ。穂坂が悪いなんてことがあるわけないだろ」


 なぜ穂坂が突然にそんなことを言い出したのか、草閒は分からなかった。


「気づいたんです。自分がどんな人間なのか。……先輩は聞きましたよね。どうして私が先輩のことを好きになったのかって」

「あ、ああ」


 穂坂の涙は止まっていた。代わりに、青白いままのその顔に自嘲の色を浮かべていた。


「先輩を好きになったわけじゃないんです」


 彼女は言った。


「私は、誰かに恋をする先輩を、好きになったんです」

「それは」――どういう。


 草閒が言うよりも早く、穂坂が言葉を続ける。


「知ってたんです。先輩が私じゃない誰か、稲田先輩のことを好きだって。知りながら、先輩に交際を申し込んだんです。それがどういうことになるかまで分かりながら。それでも告白したんです。私が先輩の恋の邪魔をしたんです」

「な」


 草閒は一音節より多くの言葉を発せない。


「私が同級生の子の彼氏を盗ったって話しましたよね。……たぶん、その時からそうだったんです。気づいてなかっただけで、ずっとそうだったんです。。……悪女、その通りですよね。自分のことなのに今の今まで気づかなかったんですから。気づかないで、そうしていたんですから」


 穂坂は笑った。これまで彼女が見せた笑顔とは決定的に何かが違っていた。


「それなのに、いざ先輩と付き合い始めると、『これは違う』と思ってしまったんです。付き合っているのに、その想いが自分に向けられてないと分かると途端に。……自分勝手ですよね。人から横取りしておいて、いざ手に入れたら不満を抱くんですから。本当にどうしようもないんです。そんな女のことを好きになるわけがないのに」

「俺は、穂坂のことをそんな風には……」

「それは先輩が私のことを知らないからです」


 いえ、心のどこかで気づいていたから知ろうとしなかったんでしょうね、と穂坂は乾いた笑いを漏らす。


「だから先輩、もう別れましょう。先輩が私と付き合う理由なんてないんです。先輩が私のことを責める理由はあっても、先輩が謝ることなんてないんです。全部私が悪いんですから」


 そう言って穂坂は一方的に別れを告げた。話はもう終わったとばかりに、ホームの階段を降りて去ろうとする。


「待って!」


 走り寄り、穂坂の腕を草閒は掴んだ。


「離して下さい!」


 穂坂は腕を振り回し逃げようとする。穂坂の手を離れた水色の傘が落下して、やけに大きな音を立てる。草閒は彼女の腕を離さなかった。


「話はまだ終わってない! 一方的に言うだけ言ってそれで終わらせようとするなよ」


 草閒は握る手に力を込めた。その手を振りほどく事が出来ないと分かると、穂坂は暴れるのを止めて草閒に向き直った。


「……手、離してください。……痛いです」

「あっ、ごめん」


 草閒が手を離すと、穂坂は掴まれていた箇所を反対の手でさすった。


「これ以上何の話があるっていうんですか。私と先輩はもう赤の他人です。何の関係もありません。それとも、文句の一つ言わないと気がすみませんか? いいですよ。なんでも言ってください。私はそれを受け止めます。私にはその責任がありますから」


 言って、穂坂は草閒の目をまっすぐに見る。その瞳の中の光は揺らいでいた。

 草閒もそれを正面から見返す。今度は目を逸らさなかった。


「――俺は稲田先輩の事が好きだった。穂坂はあのとき何を話してたのかって聞いたよな。俺はあのとき――」


 草閒は稲田との間にあったことを話した。そうするべきだと思った。儀式に関することはぼかしたがが、それ以外の話せることは全て話した。草閒が話している間、穂坂は静かにそれを聞いていた。


「――だから穂坂が気にするようなことなんてない。穂坂が邪魔をしただなんてそんなことはないんだ。そうやって自分を卑下するほどのことじゃないんだ」

「……ですか」


 穂坂が言った。しかし、呟くようなその言葉は、上手く聞き取ることが出来なかった。何を言ったのか、草閒が思っていると彼女は今度はしっかりと聞き取れる声で言った。


「なんですか、それ。先輩は私のことで思い悩みもしなかったってことですか。最初から、私のことなんて眼中に無かったってことですか!?」


 怒りと、悲しみを混ぜ合わせた声だった。


「違う。そういうことが言いたいんじゃなくって」

「そういうことですよ。先輩が言ったのはそういうことです! お前のことなんて最初から眼中に無かった。だから、お前が何をしようと言おうと心は揺らがなかった。先輩はそう言ったんです!」


 当然、草閒にそんなつもりはなかった。そんな意図はなかった。穂坂が思うような、草閒と稲田の関係を壊したという事実はないということを伝えたかった。しかし、言葉が悪かったのか、草閒の思いは穂坂に正しい形で伝わらなかった。それが彼女の感情を逆なでした。


「そんなの……ただの道化じゃないですか。全部ひとりで一喜一憂して。最初から最後まで一人芝居で。先輩はそれを笑ってたんですか? 笑うために、私と付き合ったんですか? ……だとしたら傑作だったでしょうね。これ以上笑えることはないでしょうね」


 彼女の目には再び涙が浮かんでいた。今にでも溢れてしまいそうだった。


「……先輩は、今でも稲田先輩のことが好きなんですか?」


 穂坂はそう訊ねた。

 問われ、草閒は考える。自分は今誰の事が好きなのか。

 そして、答えた。

 

「……ああ。俺は、今でも稲田先輩の事が好きだ」


 それが草閒の気持ちだった。嘘偽りのない、初めから分かっていた自分の気持ちだった。


「だから、ごめん穂坂。君とはもう、これ以上付き合う事が出来ない」

「……先輩が何を謝る事があるんですか。言いましたよね、私が悪いんだって」

「――それでも、たとえそうだとしても俺は謝らないといけない。穂坂の想いに答えようとしなかったことに、穂坂に真剣に向き合おうとしなかったことを。……だから、ごめん」

「やめてください。そんなことを言わないでください。悪いのは私なんです。そんなこと言われたら……私は、自分を許してしまいそうになる……」


 穂坂の目から涙が落ちた。彼女の涙が、ホームのコンクリートをポタポタと黒く染める。

 彼女は涙を拭った。


「いいんだ。穂坂は悪くない。自分の気持ちに正直になれなかった俺が全部悪いんだ」

「――そうですか」


 言うと、穂坂はゆっくりと草閒との距離を詰める。

 彼女は草閒のすぐ前で足を止めると「目を閉じてください」と言った。それを聞いてどうしようかと考えたが、結局草閒はゆっくりと瞼を閉じた。

 それから乾いた音がした。

 一瞬、何が起こったのか分からなかった。パシンという音がしたと思うと、正面を向いていた筈の顔は斜め右を向いていた。それから頬がジンジンと痛んだ。

 目を開くと、右手を振り抜いた姿勢のまま固まる穂坂を見て気がつく。穂坂に頬を叩かれたのだと。


「目は醒めましたか?」


 穂坂は言った。


「これが私に出来る、せめてもの贈り物です」


 彼女は草閒から距離を離す。


「それじゃあ先輩、さようなら。頑張って下さいね」


 そう言うと彼女は落とした傘を拾い上げ、ホームの階段を降りて行った。


「ああ、ありがとう。でも、穂坂――」


 草閒は左手でまだ痛む頬をさする。


「――やっぱり怒ってるだろ」


 遠くで、踏切の音が聞こえた。

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