2.10
朝が訪れた。
カーテンを開け放ち、空を見上げ、開ける前から分かっていたことだが草閒は嘆息する。もはや慣れたものだが、空は相変わらず薄暗い雲に覆われて涙を流し続けていた。
開いたカーテンを戻し部屋の灯りを点ける。
今日は穂坂との付き合い初めてから最初のデートの日だ。
寝起き直後の思考のモヤを、首を振ることで追い払うと部屋を出て階段を降りた。
待ち合わせの時間が近づくと、傘を手に玄関を出る。道路の側溝は、空から絶え間なく落ちてくる水をどうにかしようと轟音を立てている。このままずっと雨が止まなければ、いずれ排水が間に合わなくなりそこから水が溢れてくるのだろう。
途中、物が詰まって機能していないのか、水が逆流して大きな水溜まりを作る場面に遭遇した。足の踏み場がなく、仕方なく草閒はその道を迂回して駅に向かった。
穂坂との待ち合わせ場所は、以前と同じく駅だった。電車に乗って出かけようと言うのだから当然だ。駅の軒下に入って、傘についた雨滴を振って落とす。改札を通る前に、交通系ICに3千円をチャージする。どこまで行くことになるかは分からないがそれだけあれば足りるだろう。
改札を通ってホームに上がった。ホームには草閒の他に数人の人がいる。その中に穂坂の姿はない。
穂坂とは直接電車の中で合流することになっている。それを分かっていながら視線を巡らせたのは、誰の姿を探そうとしてのことか……
間もなく、ホームに電車が到着する。しかし、それは穂坂の乗る電車ではない。あらかじめ示し合わせた電車より一本早い。草閒はそれを見送ると、次の電車を待った。
そしてそのままホーム上で10分ほど経つと、アナウンスが流れる。それが終わると、電車がホームに入ってくるのが見えた。
停車の為に減速をかけ、ゆっくりと流れる窓の向こうに穂坂の姿を見つけた。穂坂が乗っている車両が止まるのを歩いて追いかける。やがて電車は停止して、口を開く。草閒は電車に乗った。草閒の姿を見ると、座席についていた穂坂が手招きをした。
草閒は彼女の横に、拳二つ分の距離を空けて座った。それからドアが閉まり電車が動き出す。すると、穂坂が言い出した。
「予報で分かってたことですけど、やっぱり雨ですね」
「そうだな」
窓の外に目を向けながら言う穂坂に草閒は同意した。
「それで、先輩はどこか面白そうな場所に当たりはつけてきましたか?」
「いや、してないけど。――もしかして、そうした方が良かったか?」
「そんなことはないですよ。ただ聞いてみただけです。それじゃあ昨日言ったように、どっちかが気になった所で降りる感じでいきましょうか」
「ああ」
二人は車窓の向こうで流れゆく景色に目を向ける。
窓に映るのは通い慣れた商業施設や何の変哲も無い民家ばかり。今さら気になるようなモノは見当たらない。
「この辺は来たことありますか?」
それから二駅ほど通り過ぎた頃に穂坂が言った。
「そんなに多くはないけど、何回かは。穂坂は?」
「私もそんな感じです」
「へぇ。そういえば、もうすぐ定期テストだけど大丈夫なのか?」
「今のところは、なんとかですね。中学と比べて科目が多くて……高校生って大変なんだって実感中です」
「ははっ、そうだよな。俺も最初は苦労したよ。今ではギリギリ平均越えればいいかなって割り切ってる」
「平均越えてないって、それはダメな方なんじゃないんですか?」
「穂坂もそのうちわかるさ……」
そんな話を交しながら二人は電車に揺られ続けた。
車窓の向こうの景色は次第に様相を変えていった。
人工物は駅を経る毎に少しずつ姿を消し、その代わりに緑が増えてくる。車内の乗客も、乗り始めからだいぶ数を減らしていた。見れば2人の他には、年老いた男が1人いるだけだった。
ここまで来てしまっては、この先は本当に何も無くなってしまうのではないか。そろそろ一度降りて引き返してその中からどこか探した方がいいので、はと思い始めた矢先に隣の彼女が言った。
「3年の稲田先輩って、知ってますか?」
脈絡のない問いに、草閒は驚いて隣を見る。
――なぜ今、穂坂が稲田先輩の名前を出したのか。
「やっぱりそうなんですね……」
穂坂はそう俯きがちに呟いた。
「やっぱりって?」
状況が飲み込めず、草閒は聞き返す。そのタイミングで、2人を乗せた電車は名も知らぬ駅に止また。乗ってくる客はいない。すると、穂坂は唐突に席を立って電車を降りてしまう。草閒を残してドアが閉まり始める。慌てて草閒は、ドアに挟まれそうになりながらホームに降り立った。草閒の行動を咎める車掌の声が聞こえた。
ホームには穂坂と草閒の二人を除いて他に誰も居ない。閑散として寂れた駅だった。
こんな所に何かがあるのだろうか。そう思っていると、穂坂が振り向いた。
「私は隣の県から電車で通ってるって前に言いましたよね。どうしてだか、分かりますか?」
振り向いたと思うと彼女はそんなことを言い出した。
それが今、何か関係あるのだろうかとは思うが、草閒はその理由を考えてみる。が、そんなこと分かるはずもなく、草閒は「……さあ」とだけ返した。
「私、中学の同級生と仲良くないんです。だから、同じ高校にならないようにわざわざ今の学校、花島高校を選んだんです」
穂坂は言った。
「……そうなんだ」
草閒はそれしか言えない。どうして穂坂がそんな話を始めたのか意図が読めなかった。だからといって何も言わないわけにはいかず、ただ相槌を打った。
「というより、正直に言うと嫌われてます」
今度は何も言えなかった。相づちを打つべきなのか、打ってもいいものなのか分からなかった。
草閒が何も言わないと、穂坂も口を開かなかった。2人が黙ってしまうと聞こえるのは駅のホームの屋根を打つ雨の音しか聞こえない。
――聞いて良いのか?
草閒は湧き上がった当然の疑問を越えに出した。
「……それは、どうして?」
「中三の時、同じクラスの子の彼氏を横取りしちゃったんです」
「え」
穂坂はなんでもないことのように言った。
「あっ、もちろん、最初はそうと知らなかったんですよ? 知ってて人の彼氏に手を出そうとするだなんて、悪女そのものじゃないですか」
穂坂はつまらない思い出話を語るようにして笑った。草閒は一緒になって笑うことができなかった。
困惑した顔をする草閒をよそに、彼女は続けた。
「私がある同級生の男子と付き合い初めるとすぐに、ある女子が私のところに数人の取り巻きを引き連れて現れて、『謝れ』って詰め寄ってきたんです。最初はなんのことか分からなかったんですけど、話を聞いて分かりました。その女子は、私が付き合った男子とそれより前に付き合ってたんです。それで私が、『彼氏をたぶらかした!』って言うんです。
私は謝りました。知らなかったとはいえ、彼女から見ればそうなんですから。でも、彼女は許してくれませんでした。
それからのことは大体想像がつきますよね。彼女たちは影でコソコソ噂を流し続けるんです。あいつは悪女だって。人のモノを横からかすめ盗る悪女なんだって。どうして私がそんな風に言われないといけないんだって思いました。一番悪いのは、その男子なんじゃないかって思いました。でもその子は、私が悪いって言って聞かないんです。
彼女たちのロビー活動のせいか、次第に私はクラスで、学校中で浮いた存在になりました。そんな悪評が立った私にあえて近づいてこようとする人はどこにもいませんでした。
でも幸いなのが、その時はもう中三の秋だったんです。だから、私は同じ中学の子が誰も行かなさそうな高校を志望しました。あと数ヶ月もすればもう会わなくだろうからもうどうでもいいやって、そう思ったんです」
穂坂は喋り終えふっと息を吐くと、ホームの外を見た。それからすぐに草閒に向き直ると、
「――先輩は、稲田先輩と付き合っているんですか?」
「なっ」
彼女はそう訊いてきた。
「何言ってんだよ。そんなわけないだろ。それに俺は穂坂と付き合ってるんだから」
「……そうでしょうか」
「そうでしょうかって、なんでそんなこと言うんだ。俺はお前と――」
「いいえ。違いますよね」
穂坂はきっぱりとそう言い切る。そして、
「もう一度聞きますね。――あなたは稲田先輩と付き合っているんですか?」
草閒の目を正面から見据えた。
その目を正面から見る事が出来ず、草閒は眼を逸らし、足下の灰色のコンクリートを見ながら答える。
「付き合ってなんかない……」
古傷を抉るような痛み。出来たてのかさぶたを剥がすようなむず痒さが心をざわつかせる。
「……ただの学校の先輩と後輩、それだけだよ」
「だったら……あの日、先輩達は二人で何を話してたんですか?」
「――っ」
「先週の金曜日の放課後、私と会う前に先輩は稲田先輩と話をしていたんじゃないんですか?」
「見てたのか……?」
――全てを見ていて、あの時声を掛けてきたのか。
「いえ、私は見ていません。けど、本当だったんですね」
「うっ」
言外に穂坂の言い分を認めてしまったことに草閒は一瞬怯む。
「けど、俺が稲田先輩と話すことがそんなにおかしいか? 別に話をするくらい誰だって――」
「あのとき言っていた、『嫌なこと』ってそのことだったんですね。……付き合ってもない女性と話して、泣いてしまうくらいに嫌なことって何でしょうか?」
「それは……」
草閒は再び目をそらす。
穂坂の声は淡々としていた。
「先輩、私は怒ってるわけじゃないんです。ただ事実を知りたいだけなんです。
先輩は、稲田先輩とは付き合ってないと言いましたよね。それは本当ですか?」
穂坂の言葉はやけにはっきりと聞こえた。
「……本当だ」
「それは今も昔もですか」
「ああ。誓って本当のことだ。先輩と付き合ったことなんてない」
「それじゃあ、稲田先輩のことをどう想ってるんですか?」
「どうって……先輩はただの先輩で――」
「嘘はいいです」
「嘘じゃない!」
「嘘ですよ。先輩は嘘をついてます」
穂坂は言う。
「先輩は私と居ても私のことを見ていません」
「そんなことは……」
「ない、本当にそう言い切れますか? この一週間、先輩を近くで見てきた私が言ってるんです。それを嘘だって、そう言うんですか? ……今だってそうです。先輩はここに居ても、先輩の心はここにありません。私を見ていません」
「見てる。俺は穂坂を見てる」
そう言って草閒は目の前の彼女の目を見る。暗褐色の彼女の瞳の中に映る自分の姿が見えた。
「…………先輩の目に、私は映ってません。本当は誰のことが好きなんですか?」
「誰ってそれは……」
「私ですか? 稲田先輩ですか? それとも別の誰かですか?」
「……そんなの言わなくても分かるだろ。好きでもない奴となんか付き合ったりはしない」
「じゃあ言ってください」
「何を」
「私の目を見て、私のことが好きだって言ってください」
穂坂は言った。彼女の目が草閒を捉えてはなさない。
「俺は……」
――穂坂のことが好き。
そのわずかの短い言葉を言おうとするが、続きが出てこない。声ともならない息が喉から擦れて洩れる。
「俺は……俺は…………」
山びこのように、同じ言葉を弱々しく何度も繰り返す。
目の前に穂坂がいるというのに、穂坂の想いは自分に向いているというのに、草閒はその想いに答えることができなかった。穂坂の言うとおり、草閒の心にはすでに別の女性が住んでいた。
「俺は……」
言葉の先を続けられず、何度もそう呟く。その小さな声は、駅のホームの屋根を叩く雨音にかき消されて誰にも届かない。
けれど、しばし沈黙が続いたあと、草閒は肺から空気を搾りだすようにしてようやく言葉をつむいだ。
「…………穂坂の気持ちに、責任がある」
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