2.9


 草閒が去り、残された穂坂は廊下の影に消えていく彼の背を椅子に座ったまま見送っていた。


「……やっぱり、なんかおかしい」


 穂坂はひとり呟く。

 先週の放課後、雨に打たれる草閒を見た時から何かがおかしいと彼女は思い続けていた。

 あれから何度かあのときの理由を聞こうとしたが、草閒は毎度はぐらかしてあからさまに話を変えたりと、そのわけを教えようとしなかった。それだけじゃなく、草閒は時折、空から落ちてくる雨を見て物憂げな表情をすることがあった。


 それでも、穂坂はそれ以上深く追求しようとはしなかった。今は話したくなくても、時が経てばいずれ話してくれると思っていた。


 けれど、先程の草閒は明らかに様子がおかしかった。

 話の最中に突然眼を見開くと、そのままの格好で石像になってしまったかのように動きを止めた。まだ6月で、雨のせいで湿度は高いが比較的過ごしやすい気温だというのに額に汗をかき始める。幽霊でも見たかのような態度に、思わず穂坂は自分の背後を振り返ってしまったほどだ。しかし、当然そこには幽霊などいるわけはなく。

 心配になり「どうかしましたか?」と穂坂が呼びかけるも、彼は目の前にいる人のことなど視界に入っていないかのように、その呼びかけに答えることはなかった。顔は正面を向いているが、その目は穂坂を見ていない。その視線の先には何があるのかと穂坂が顔を向けたところで、正面の石像が息を吹き返した。


 それから草閒は、ついさっきまで渋る様子を見せた提案を手のひらを返したようにあっさりと承諾し、終いには何かと言い訳をつけて逃げるように去っていってしまった。移動教室とはいっても、まだ5時間目の授業までは10分近くある。特別教室への移動にそんなに時間がかかるとは思えなかった。


 そのことが、この一週間溜まりに溜まった草閒への不信感や不満を一気に増長させた。

 付き合い初めてからの彼は、付き合う以前と比べて積極的になるどころか、なんだか気の抜けた感じがした。一緒に通学路を歩いていると頻繁に空を見上げるのもそうだが、どこか遠くの山を眺めて心ここにあらずといった風に見えることが多々あった。

 そう見え始めたのは付き合い初めてからで、あの先週の出来事が原因に間違いなかった。あのとき、穂坂の知り得ぬところで何があったのかは分からないが、それが関係しているのだと穂坂は信じて疑わなかった。


 穂坂は空になった弁当を手に共有スペースを出る。

 空中廊下を渡り、穂坂たち一年の教室がある棟へ移ろうとしていると、横並び3列になって前を歩く同級生女子たちの話が耳に聞こえた。噂話などに興味の無い穂坂はその脇をすり抜けようと足を早めるが、彼女達に近づいてたところで足を緩めた。


「――ねえ、『雨に打たれる男子生徒』の噂、知ってる?」


 3人の内の1人が言ったその言葉が、穂坂の関心を惹いた。悪いと思いながらも、穂坂は息をひそめて彼女達の背後を付いて歩く。


「なに、それ?」

「知らない? 先週の金曜日に大雨の中、傘を差さずにぼーっと突っ立ってた人がいたんだってさ」

「あ~それね」

「傘を忘れたとか、傘が壊れたとかじゃなくって?」

「うちは見てないんだけど、見た人の話によると、自分で傘を差すの止めたらしいよ」

「え~、何それ~」


 名前を聞くまでもなく、その男子生徒は草閒のことだと穂坂には分かった。他にそんなことをする人がいたとは思えない。

 ――まあ、そりゃあんな人目の付くところであんなことしてたら噂にもなるよね。

 以前とは違った形で話題になっていると話をしたら、彼はどんな反応を見せるだろうか。わずかに穂坂の頬が緩む。


 いつまでも盗み聞きをしているのは趣味が悪い。今度こそ彼女たちの通り過ぎようとして再び足を早め、


「なんでその人はそんなことしたのさ?」

「それがね、聞いた話によると痴情のもつれ、ってやつらしいよ」

「え~、それ本当~? ドラマの見過ぎじゃない~?」


 そして、また足を緩めた。


「あくまで噂だけどね。なんでもその男子は、傘を手放す前まで女の人と二人で話をしてたみたいで。たまたま2人の近くを通り掛かった人によると、なんだか喧嘩でもしてるようなピリピリした雰囲気を感じたから、きっとそうなんじゃないかって」

「え、ヤバ~」

「――あの、すみません!」


 花を咲かせる彼女達3人の会話に、思わず穂坂は後ろから割り込んだ。


「その男子生徒が話していた相手の女性徒って、誰だか知ってますか?」


 思わぬ闖入者に、彼女達は面を食らった。

 ……この子誰?

 声には出さないが、彼女達は互いに顔を見合わせて視線を交し合った。3人は戸惑いの表情を浮かべていたが、それでも親切心からなのか1人がおずおずと答えた。


「あっ……ええと、私は見てないんですけど……直接見た人の話によると、3年の稲田先輩じゃないかって。あくまで噂話だから本当かどうかはわからないんですけど。あの綺麗な黒髪はそうじゃないかって皆が……」


 稲田。その名前には聞き覚えがあった。

 確かスポーツ祭のときに同じチームになったあの……。

 穂坂の脳裏に、体操服姿の稲田が浮かんだ。


「ありがとうございます。突然失礼しました」


 しっかりと礼を述べ、今度こそ彼女達の脇をすり抜け空中廊下の先へ進んでいく。

 歩き去って行く穂坂の背後で、彼女達は思わぬ闖入者を種に再び話に花を咲かせた。


「ねえ、今の子誰? 知ってる?」

「わかんない」

「……たしか、E組の穂坂優菜だよ」

「え、穂坂って……あの?」

「だれ?」

「あの子、この学校に来てたんだ」

「ねえ、誰なの? 私知らないんだけど」

「ええと、穂坂さんと同じ中学出身で他の学校に通ってる友達から聞いた話なんだけど――」


 ――はぁ。

 背後から聞こえる彼女達の話に、穂坂は小さく息を吐いた。


 始業5分前を知らせるチャイムが空中廊下を駆け抜ける。チャイムに紛れて、彼女のたちの会話はそれ以上穂坂には届かなかった。




 それから放課後になって、穂坂は話に聞いた3年の稲田の教室を訪れていた。一緒に帰る予定だった草閒には「予定ができた」と言っておいた。

 3年E組の教室に辿り着き中を窺っていると、声がかかった。


「誰かを探しているのかい?」


 聞いたことのある声だと思った。声の主を見て思い出す。

 ――ああ、スポーツ祭の集まりの時にチームを先導していた三年の先輩だ。


「はい。稲田先輩を探してまして。もう帰られてしまいましたか?」

「稲田さん? 君も彼女を探しているのか? 彼女は後輩にとても人気があるんだなぁ」


 その男は羨ましそうにそう言った。


「……君もって、私の他に稲田先輩を探している人がいるんですか?」

「ああ、うん。つい先週のことだけどね。二年生の男子が毎日のように昼休みになると彼女が学校に来ているかどうかを確認しに来てたんだよ。もう用とやらが済んだのか、今週になってからは一度も彼を見ていないけどね」


 ――草閒先輩だ。

 確たる証拠はないが、穂坂はそう思った。 


「……それで、稲田先輩は?」

「ああそうだったね。稲田さんね。……彼女、先週の金曜の昼過ぎに来たと思ったら、それきりまた学校に来ていないんだ。また風邪がぶり返したのかと、皆心配しているんだよ。君は何か知ってるかい?」

「いえ……その、もし先輩が学校にまた来たら、私に教えては頂けませんか?」

「ああ、いいよ」

「そうですか、ありがとうございます。」


 それから名前と学年とクラスを告げると、穂坂は三年の教室を後にした。

 ――草閒先輩と稲田先輩の間には何かがあったんだ。

 人の気の少ない放課後の廊下を歩きながら、穂坂はそう確信した。

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