2.8
草閒が穂坂と付き合い始めてから一週間が経とうとしていた。
付き合い始めてから、これといって二人の関係が劇的に変わるようなことはなく、朝と放課後の登下校と昼休みを一緒に過ごすようになったくらいで、それ以上に何かをするといったことはなかった。
以前に彼女自身が言っていた通り、穂坂にとって付き合うということは互いのことを知り合っていくための段階であり手段にすぎず、彼女が草閒に対する態度を変えることはなかった。
そのことについて草閒は何の不満もない。むしろそれを好ましく思っていた。
付き合い始めた途端に態度を変えたり、急に距離を詰めてきたり。もしそんなことをされていたら、これまで見てきた彼女はうわべだけの姿だったのかと思いかねない。
そうした穂坂のスタンスのおかげもあり、草閒もこれまでと変わらない態度で彼女に接することができた。
四時間目の授業が終わり昼休みになると、草閒は弁当を持って席を立つ。昼休みは学校の共有スペースで一緒に昼食を取ると、二人の間でそう決めていた。
教室を出る直前、教室の内から視線を感じて足を止める。確かめるまでもなく、それは中村からのものだと分かった。
結局、あれ以降未だに二人は話の場を設けていない。
二週間近くが経ち、もはや張るような意地など無くなっていたのだが、今は互いに声を掛けるタイミングを探り合っている状態を続けていた。互いの態度から怒っていないことは分かるのだが、どうやって声を掛けようかと何か話題を探している。そんな状態だった。
けれど、それこそ時間が解決してくれるだろうと、草閒は視線を振り切り教室を後にした。
一日の半分が終わった開放感からか騒がしい教室の前を歩いて、穂坂との待ち合わせ場所に向かう。草閒が着く頃には、すでに何組かの生徒達が集まって食事や談笑を楽しんでいた。
共有スペースと言っても、校舎内の使わなくなった空間にテーブルと椅子を並べただけの簡素なもので、他には飲み物の自動販売機が置かれている程度の場所だ。ただ学年を問わず二人が集まれそうなのがここしかなかったというだけの話だ。
スペース内を見渡すが、まだ穂坂は来ていないようだった。
草閒は自動販売機でペットボトルのお茶を買うと、適当な椅子に腰掛けた。穂坂を待たずに弁当を食べ始めるわけにもいかず、座りながら共有スペースの前を通り過ぎる人を眺めていると、ほどなくして穂坂が姿を見せた。彼女は草閒の正面の席に座るなり、「すみません。四時間目が移動教室で」と言った。
「気にしてないよ――じゃあ、いただきます」
穂坂が弁当を開くのを待つと、そう言って草閒は自分の弁当に手を付けた。四時間目の途中から腹が空いて仕方がなかった。穂坂も小ぶりの弁当を食べ始める。
それから食事を終え、お茶を飲んで口直しをしていると穂坂が言った。
「明日、土曜は暇ですか?」
「明日?」
「はい。明日じゃなくて日曜でもいいんですけど」
一瞬考える。
「――いや、ないな。土日とも特に予定はない」
「ほんとうですか。それならどこかに出かけませんか?」
「いいけど、どこに行くんだ? ……この天気だから、行ける場所はだいぶ限られるとおもうけど」
もはや日常のものと成りつつある雨が、我が物で外の世界を蹂躙している。
「雨が止んでくれれば良いんですけど、予報を見た限りだとそれはなさそうですからね。ほんと梅雨って迷惑ですね。傘を持ち歩かないといけないのが面倒臭くて」
「……ああそうだな」
『雨』という言葉に草閒は一瞬言葉が詰まる。それを聞くとどうしても稲田のことを思い出さずにはいられない。
目の前の穂坂を見て、頭の中に浮かんだ稲田の像を消し去ろうとする。
「――で、どこに行くかなんですけど。実はまだ決めてません。いっそのこと決めなくてもいいんじゃないかなって」
「というと?」
「特に目的血も決めずただ電車に乗って、それでどこか行きたい場所があったらそこで下りる、ぶらり途中下車の旅ってやつです。一回やってみたいと思ってたんですよ。あ、でも先輩がどこか行きたいところがあれば、そこに行ってもいいですよ」
「うーん……」
穂坂が眼を輝かせてこちらを見る。しかし、対面に座る草閒の顔は明るくない。
穂坂の提案自体は悪いとは思わない。だが、草閒はその提案に首を縦に振るのを渋った。
何がネックなのかというと、目的地が決まっていない以上、どれくらいお金が必要になるのか分からないという事だった。本音を言えばあまりお金を使いたくはないが、穂坂と付き合い初めてから最初のデートということもある。けちけちした男だと思われるのは――
「――っ」
瞬間、巡っていた草閒の思考が凍り付いて止まった。
視界の端に、共有スペースの前を歩く、長い黒髪の女性徒を捉えたその瞬間、草閒の思考は全て吹き飛んだ。
先週金曜の一件以来、草閒は稲田の姿を見ていなかった。そもそも彼女が学校に来ているのかも知らない、彼女の登校を確かめにも行っていない。言うなれば彼女を避けていた。
あんなことがあった後だ、顔を合わせたくはなかった。
穂坂には言っていないが、そもそもこの共有スペースで食事をする事もあまり乗り気ではなかった。他の女子と顔を合わせて食事をする草閒を見て彼女がどう思うかは分からないが、草閒は彼女にその姿を見られたくなかった。
顔は動かさず、目だけでその女性徒を見る。
草閒の位置からは死角となって女性徒の顔は見えない。だからといって顔を向ける訳にはいかない。その動きで彼女はこちらに気がついてしまう恐れがある。気づかれたくはないが、彼女の様子が気になる。一見矛盾した思いが、草閒の目だけを黒髪の彼女に向けさせる。
「先輩? どうかしました?」
その女性徒は草閒に気づく素振りを見せずにそのまま歩いて行く。
そして、共有スペースの前からその女性徒が目無くなる直前、草閒は気がついた。
その黒髪の女性徒は草閒と同じ青のラインが入った上履きを履いていた。つまりそれは、彼女が草閒と同じ二年生の生徒であり、稲田姫乃その人ではないことを意味していた。
「っ、はぁぁぁ~……」
知らずのうちに止めていた息を肺から絞り出す。背中には脂汗が流れていた。
テーブルの上に置いたお茶で乾いた喉を潤す。
「……先輩?」
お茶を飲みながら、こちらを見る穂坂に気がついた。
「あ、ああ悪い、明日の話な。うん、それでいいよ。そうしよう」
草閒は咄嗟にそう答えた。ついさっきまで何を悩んでいたのか、すっかりと頭から抜け落ちていた。そのことに気がついたのは考え無しに答えた後だった。
「じゃあ、それで決まりですね」
「あっ」
「? なんですか?」
「……いや、やっぱりなんでもない」
「そうですか?」
そう言うと、穂坂は怪訝な顔をする。
「……それより先輩今の」
「――あ、次の時間は俺が移動教室だった。そろそろ戻らないと、間に合わない」
草閒は空になった弁当を持つと、唐突に席を立った。穂坂が何かを言いかけていたが、無理やりに話を打ち切った。
穂坂に断りを入れ、草閒は一足先に共有スペースを後にする。彼女はより一層険しい顔を見せるが今は構わない。これ以上稲田の眼に触れる可能性のあるこの場所にいたくなかった。いつ何時、稲田がここを通るか分からない。急にそんなことが思考を埋め尽くした。
草閒は穂坂を残して足早に教室に戻った。
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