2.7
「よかったのか?」
稲田が草閒に別れを告げ校門を出ると、そこで彼女を待っていた須佐が言った。
「……何がでしょうか?」
稲田は校門を出てから歩く足を止めることなく、前を見ながら須佐の問いに答える。
「あの少年、草閒君のことさ。姫乃ちゃんが彼のことを儀式に呼んだんだろう? それなのにあんなことを言って……」
「聞いていたんですか」
稲田は足を止め、横を歩く須佐を見た。
「聞こうと思って聞いたわけじゃない、聞こえてしまったんだ。知ってるだろ。オレは感覚が鋭いんだ」
稲田たちは周りを歩く人に聞こえるほど声を大きくしていたわけではない。けれど、校門の外にいた須佐は雨音に混ざる二人の会話を耳にしていた。聞きたくないものまで聞こえてくるから困ったものだよと、さして悪びれた様子もなく須佐は言う。
「あれでよかったのか?」
「……いいんです。ああするのが私にとって、草閒さんにとってもいいことなんです……」
「……本当にそう思ってるんだったら、どうしてそんな顔をしてるんだ?」
傘が落とす影で暗い印象を与える稲田の顔を須佐は見つめる。
「良いことをした人の顔には見えないな。自分が正しいって思うなら、もっとそれらしい顔をしたらどうだ?」
「……正しいことが、常に気分のいいものとは限りません」
「――そうか」
そして二人は再び歩き始める。
しかし、歩き始めてから少しも歩かないうちに稲田は息を切らし始めた。
「……はぁっ、はぁ――」
須佐は稲田に合わせて歩調を緩める。
「大丈夫か?」
「は、はい……はぁっ――」
行きも絶え絶えに稲田が答える。足元はふらつき、彼女は放っておいたらまた倒れてしまいそうだった。
「やっぱりまだ外を出歩くには早すぎたんだ。……ほら」
「……すみません」
須佐が稲田を支える。相当無理をしていたのか、遠慮する余裕もなく稲田は須佐に寄りかかるようにして身体の半分を預けた。壊れ物を扱うように須佐は慎重に彼女の身体を支える。
制服越しに伝わってくる彼女の身体は平常ではない熱を帯びていた。
「……きっとこの空気のせいだ。あれから少しずつ空気が悪くなってるんだ」
「…………」
声を出すのも堪えるのか、稲田は静かに頷いたのみだった。
雨の中二人はゆっくりと、須佐が稲田の身体を支えながら歩いて行く。彼女の身体を支えながら傘を差して歩くのは難儀した。
「それにしても、オレ達は運が悪い」
稲田の家の近く、田園地帯に入った辺りで須佐がそう言い出した。
道の両脇に広がる田は、絶え間なく降り続ける雨に排水が追い付かず今にも水が溢れんとしていた。その様子を稲田は悲しそうな顔で眺めている。
ここまで来る頃には稲田の調子も話を出来る程度には回復していた。彼女はゆっくりと口を開く。
「運が悪い、ですか……」
「だってそうだろ? これまで2000年以上もの間、封印は保たれたままだったんだ。オレの親父やじいだって当主としてやったことと言えば、祠の監視と封印の更新くらいだ。それなのに、オレたちの代に変わってからすぐにこれだ。不公平にもほどがあると思わないか?」
最初何を言い出したのかと思ったが、須佐の口調や表情から本気で言っているのではない気がつき、稲田も「それは……ええそうですね」と、軽い口調で応じた。
「それなのに親父達は、もう自分の役割じゃないからってことある毎に『代々受け継いできた使命を果たせ!』だなんて言ってくるんだ。言われなくても分かってるってのに、嫌になってくるよな」
「ふふふ」
似ていない須佐之父親の物真似に、稲田の口から思わず笑い声が洩れる。
「――けど」
稲田が笑うのを見て、須佐は一瞬表情を和らげたが、
「もうそんなことも言ってられない。封印が解かれた以上、やるべきことをやらなければいけない」
一転して真剣な顔を見せる。
「――今なら親父達の気持ちが分かる。こうなって初めて、今このタイミングで運がよかったと、オレはそう思ったんだ」
「……どうしてですか?」
「子どもが生まれたからだ。息子が生まれて、初めて『オレでよかった』って思えたんだ。息子じゃなくてオレでよかったって。きっと親父たちもこんな気持ちだったんだな、オレはそう思ったよ」
須佐は心の底からホッとしたような顔を見せた。。
稲田にその感情は分からない。言葉の上では理解出来ても、その感覚は稲田の中には無いものだった。
「けど、姫乃ちゃんはそうじゃないだろ? 当主になったとはいっても、それは形としてのものだ。使命だなんて言われてもまだ覚悟だなんてできていなくて当然なんだ」
「そんなことは……私だって私なりに……」
「無理はしなくていい。オレだってそうだった。たぶん皆そうだった。……ただ違うのは、ことが起こり始めてしまっているということだけだ。自分の意思に関係無く、周りがそうさせる」
「でも私には、責任が……儀式が失敗してしまったのは私のせいで……私が気を抜いていたから……」
「違う。何度も言ったように、アレは姫乃ちゃんのせいなんかじゃない。たまたま封印が綻んでいただけだ。君が気にする必要なんてないんだ」
「……ですが――」
須佐はそう言うが、稲田はあれは自分の未熟さが招いたことと思ってやまなかった。家の皆も「あれはどうしようもないことだ」と言ってくれるが、それがかえって稲田を苦しめる。必死に庇われている気がして、それが尚更こんなことになってしまった責任を感じさせた。
須佐が切り出す。
「――もうしばらくしたら一度、オレは家に戻ろうと思う」
「ここでの事を伝えに、ですか?」
「ああ。それが終わったらまたここに戻ってきて――」
「――それから、ということですね」
「……そうだ」
須佐が頷く。
「分かりました。心に留めておきます」
「……本当にいいのか?」
「今更、ですよ。儀式を行うと決める前から、こうなることを考えなかったわけじゃありません。それでも決めたんです」
「……そうか、わかった」
諦めとも取れる表情を見せながら須佐は、稲田の言葉を受け止める。これ以上自分が何を言ってもそれは彼女を追い詰めるものにしかならない。
稲田は視線を左右に広がる田んぼに移した。
「――私、ここから見る夕方の景色が好きなんです。夕陽に照らされて空を映し出す光景が、とても幻想的で、自分が空にいるような、そんな気になれて。――今はもう見る事は出来ませんが……」
「それは見ておきたかったな」
「はい……」
稲田の周りに広がる世界は今はすっかり雲に覆われ灰色だった。
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