2.6

 稲田が去り、一人になった草閒の手から力が抜ける。支えを失った傘がコロリと地面に転がり、野晒しになった草閒の身体に容赦なく雨が打ち付ける。

 今この瞬間は、身体を濡らす雨がどうしようもなく心地良かった。周りからの奇異の視線も今は気にならなかった。両手を身体の脇にだらんと垂らし、顔を上に向けて天を仰ぐ。空は相も変わらず分厚い雲に覆われて灰黒だった。


 いつまでそうしていたのだろう。

 服はびっしょりと水に濡れ、髪は額に張り付き、地面に転がる傘には水が溜まっていた。

 その時、ふいに草閒の見る空が水色に変わり身体を打ち付ける雨が止まる。

 いや、違う。空が色を変えたのではなく、草閒の見る視界が水色に染まったのだ。よく見れば金属の細い骨が見える。草閒の頭上の空を水色の傘が覆っていた。


「何やってるんですか、先輩」

「穂坂……」

「傘も差さずに、風引いちゃいますよ?」


 草閒の傍に、水色の傘を手にした穂坂が立っていた。

 呆然として立ち尽す草閒の手に自分の傘を握らせると、彼女は地面に転がったままの草閒の傘を拾い上げようとする。


「うわっ、重っ!」


 傘に溜まった雨水を足に掛からないようにしながら、彼女はなんとかして草閒の傘を拾い上げると自分の頭上に広げる。傘の骨を伝って傘の内側から水が滴り落ちた。それから穂坂は笑った。


「雨の中傘も差さないで棒立ちしてる変な人がいるなーって思ったら、まさか草閒先輩だったなんて。わたし、びっくりしちゃいましたよ」


 言って、彼女は手に持った傘を差しだす。

 それを見て一瞬何かと思ったが、穂坂に手渡された傘を差していることに気がつき二人は互いに傘を返し合った。穂坂の手に水色の傘が、草閒の手に黒地の傘が戻った。


「――それで、何やってたんですか?」


 彼女は当然の疑問を口にした。


「あんなことするからには……やんちゃな子どもじゃないんですから、何か理由があるんですよね?」

「それは……」


 理由を聞かないからには納得できない。まっすぐと草閒を見据える穂坂の大きな目がそう言っていた。

 ……言えるわけがない。密かに思いを寄せていた相手に突き放すようなことを言われ、その悲しさから感傷に浸っていただなんて。男友達ならまだしも、後輩の女子、ましてや自分に多少なりとも好意を寄せてくれている相手にそんなことを言えるはずもなかった。

 すると、


「……へっ、くしゅん!」


 草閒の口から盛大なくしゃみが洩れた。雨に濡れたことで草閒の体温が下がったことが原因だった。一度ではなく、二度三度とくしゃみが続いた。


「ほら、先輩。これで身体を拭いて下さい。そのままだと風邪を引いちゃいます」

「ああ、ありがとう……」


 穂坂が鞄の中から取り出したタオルを取り出し、草閒がそれを受け取る。手足と、首から上についた水を乱雑に拭う。草閒の家とは違う柔軟剤の良い香りがした。

 拭き終わると、以前のハンカチど同様に家で選択してから返そうと、タオルを自分の鞄にしまいかけた。すると、


「ちょっと、先輩」


 穂坂がタオルを奪い取った。


「私も使うんですから」


 それから草閒が使ったタオルで、穂坂は身体を拭く。草閒の傘を拾い上げる際に、わずかだけれど彼女も雨に濡れていた。

 穂坂は頭についた水滴を拭い、手足を拭い、顔を拭い、そして首元を拭った。その仕草が妙に扇情的で草閒は彼女から目を離すことができなかった。

 ……なんだか身体が熱い。もしかしたら本当に風邪を引いたのかもしれない。


「――よし。じゃあ先輩とりあえず行きましょう。歩けば少しは身体が温まりますから」

「あ、ああ。そうだな」


 穂坂に言われるがまま、二人は歩き始めた。穂坂が前を行き、そのすぐ後ろに草閒が続く。本来なら逆の立場なのだろうが、穂坂といるときはこの立ち位置が妙に落ち着いた。

 学校を離れてからしばらくは互いに何も言わなかったのだが、とうとう穂坂が口を開いた。

 


「――それで先輩、何かあったんですか?」


 穂坂は忘れていなかった。あのくしゃみのお陰でうやむやになったものかと思ったが、どうしても気になるようで再びそう訊ねた。

 それに対し「何でもない」の一点張りで何も語らないことも草閒には出来た。何を言われようと無言を貫くことも出来た。けれど、草閒はそうしなかった。そうすることは不義理に思えた。


「ちょっと……いやちょっとじゃないか。かなりなことがあったんだ。後頭部を金槌で殴られたような、っていうのかな」

「嫌なことですか?」

「嫌、というよりはキツイというか、耐えがたいというか……」

「それは、傍目を気にせず雨に打たれたくなるほどの?」

「まあ、そうだな」

「じゃあ――だから先輩は泣いていたんですか?」

「っ――」


 驚いて穂坂の顔を見る。


「俺は、泣いてなんかっ――」

「でも、だって先輩の目、赤くなってます」

「違っ……あれは、雨が目に入って、手でこすったからそう見えただけでっ! だから俺は泣いてなんか――」


 涙を流した事を隠そうと、必至に言い訳を考える草閒に、


「いいじゃないですか」


 穂坂がそう言った。


「泣いたっていいじゃないですか。それの何を恥ずかしがることがあるんですか?」

「何をって……そんなのみっともないからに決まってるだろ」


 草閒はそれが当然のことのように言った。


「高校生にもなって人前で泣くなんて、そんなの感情のコントロールが上手く出来ない子どもだった言ってるようなものだ。恥ずかしがって当然のことだろ」

「そうでしょうか」


 しかし、穂坂にとってはそれはあたりまえではなかった。


「ツラいことや悲しいことがあって泣いてしまうのが当然のことです。それが当然の反応です。なのに、それを恥ずかしがって隠すことが当然だなんて、そんなのおかしくないですか?」

「おかしいとかそういう問題じゃない。大人だったらそうするのが普通なんだ。大人だったら周りの目を気にしないといけない。……だから俺は、ああするべきじゃなかった。あんな姿を穂坂に見られちゃいけなかった……」


 草閒は歯ぎしりする。

 どうしてあんなことをしたのかと少し前の自分のなじる。

 それでも穂坂は食い下がった。


「我慢なんてする必要ないんです。泣きたいときには泣けば良いんです。周りの人なんて気にしないで、自分の心に従って泣いていいんです。それのどこがいけないんですか」

「そうじゃない。俺はただ、泣いている姿を、弱い自分を人に見せたくないだけで――」


 人の前で泣くのは恥ずかしいことだ。それはどんな理由があろうとも恥ずかしいことだ。草閒はそう思ってきた。小さい頃はそれこそことある毎に泣いていたが、小学校、中学校と歳を重ねるうちに自然と泣くことは少なくなっていた。そうしていくうちに、誰に言われたわけでもないのに自然とそう思うようになった。

 友達と映画を見に行って感動して泣いてしまいそうになるのを我慢したし、飼っていたペットが死んでしまった時も家族の前では涙を必死に堪えた。泣かないわけじゃない。人に見られないように泣いた。

 理由を聞かれても答えられない。ただ恥ずかしいから、そうとしか答えようがなかった。


「――それで、先輩はどうするんですか?」

「え」


 穂坂が言った。


「誰にも弱音を吐かず、隠し続けて、一人で背負い続けて、先輩はそれでどうするんですか?」

「どうするって、それは――」


 ――どうもしない。誰にも涙を見せず、感情を一人で溜め込んで、どうもしない。自分の中で時間がそれを解決してくれるのを待つだけだ。自分のことなのだから、人を巻き込むのはお門違いだ。草閒はそう思っていた。

 彼女は言う。


「そんなのいつかパンクします。限界が来ます。破綻します。自分のことだからって、一人で全てどうにかしようっていうのはどだい無理な話なんです」

「けど――」


 そして言った。


「だから先輩、いいんですよ。わたしがいますから、泣いていいんです。話せなくても、泣けばいいんです。泣いてスッキリすればいいんです。そのために人は泣くんですから。大丈夫、わたしが傘で隠してあげます。そうすればわたしいがいの誰にも見られないでしょう。……だからいいんです。泣いていいんです」


 優しい声だった。それがきっかけとなり、草閒の両目からは溜め込んでいた涙が溢れ、決壊した。

 みっともないと思う。穂坂が何と言おうが、後輩の、女の子の前で涙を流すなんて。どうしようもなく格好悪い。けれど、そう思っていても、溢れ出した涙はもう自分の意思では止めることができなかった。


 それからしばらく、やっと涙が止まった。その間穂坂はずっと黙って見守ってくれていた。静かにソッと差し出された彼女のタオルで、草閒は涙に濡れた顔を拭った。

 そして、草閒は言った。


「――穂坂。この前の土曜日の返事、今ここでするよ…………付き合おう。お互いをもっと知るために」

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