2.5
金曜の朝、今週に入ってから朝の登校の際に途中で穂坂と合流するのが当たり前のようになっていた。二人で時間を示し合わせたわけではない。この日も、信号が変わるのを待っているとそれを見計らったように草閒の隣に穂坂が姿を現した。
「先輩、おはようございます。今週はずっと雨ですね」
傘の下から空を見上げながら彼女はそう言った。
「そうだな……」
草閒もまた、空を見上げながら心ここにあらずといった様子で答えた。
今日も稲田が学校に来なかったら、この一週間彼女はずっと学校を休んだことになる。それほどまでに彼女の容態は芳しくないのだろうか。彼女のクラスの誰に聞いても事情は分からず、その事が草閒の想像を悪い方へと傾かせていた。もしやこのまま稲田の顔を見ることはないのではないか。そんな根拠も何もあったものではない突飛のない妄想までもが草閒の中に芽生え始めていた。
あれから雨は一度も止むことはなく、関東の大地を濡らしつづけている。雨脚も日を重ねる度にますます強くなってきていた。このまま雨が降り続ければ日本列島の大部分は水の下に沈む。そんな終末論までもがネットの世界で飛び交う程だった。一部のクリスチャンは「罪を重ね続ける人間に主が業を煮やした。これはノアの大洪水の再来だ!」などとのたまっていた。
本当のところはどうなのだろう。世間で多く言われているように温暖化による異常気象なのか、ただの偶然なのか、神が下した神罰なのか、それとも――。
「――――先輩? 先輩、聞いてますか?」
走り続けていた思考の回路が穂坂の呼びかけで中断され、現実の通学路に引き戻される。思考の世界に居ながらも足はひとりでに動いていたようで、前を見れば学校の校舎が視界に入った。
「昨日のドラマの話ですよ。見ましたか?」
「ドラマ? 見てないな。……面白かったのか?」
「はい。今放送している中ではいちばんだと思います」
「そうなのか。じゃあ来週は見て見ようかな。途中から見ても話分かるかな?」
「私はこれまでの話を覚えてるのでどんな話か教えてあげます!」
「そうか。じゃあお願いしようかな」
昇降口に入る前に二人は別れた。一年生と二年生の教室は別の棟にあるため昇降口も別れていた。雨に触れた傘を傘立てに差し、靴を履き替えると草閒は教室へ。中に入ると、無意識に中村が座る席を見てしまう。
中村とはこれで一週間話をしていないことになる。中村から言われたことは今でも草閒の心に突き刺さったままだが、今はもうあのときほどの怒りはない。あのときは自分の言い方も悪かったのだから中村が怒るのも当然だと、今では思っている。それでも、なかなか自分から謝りにいくことができずにいた。
ここまで来ると意地の張り合いだった。相手から謝りに来るまでこっちからは行かない。草閒と中村は互いに、そんな子供じみた意地の張り合いをしていた。
昼休みになると草閒は三年の稲田の教室に向かった。三年E組の教室に辿り着くと、草閒が誰かに尋ねるよりも早く、草閒に気がついた三年E組の女生徒が言った。
「稲田さんなら今日も来てないよ」
毎日のように稲田の有無を確かめに来る後輩ということで、草閒は三年E組の生徒たちにいつの間にかに認知されていた。
「そうですか……ありがとうございます」
少し戸惑いはしたが手間が省けて助かる。それだけ言って自分の教室に戻ろうとすると、教えてくれた女性徒が訊ねた。
「――ねえ、君は稲田さんと付合ってるの?」
足を止め、振り返る。
「今週に入ってから毎日来てるし、そうなんじゃないかってクラスで話題になってるんだけど。本当のところどうなのかなって」
女性徒の言葉にからかいの色はない。本当に、ただ純粋に好奇心から知りたがっている風だった。周りを見れば、稲田のクラスメイト達は「よくぞ聞いてくれた」と好奇の視線を向けていた。草閒は答えた。
「……いえ。俺は……ただの後輩ですよ。付合ってなんかいません。ただ、ちょっと稲田先輩に聞きたいことがあっただけで、それだけですよ……」
それは紛れもない真実だったが、それは草閒の内に秘める心とは相反するものだった。ただの後輩ではいたくはない、以前に増して草閒はそう思っていた。
周りの反応は様々だった。予想が外れたと残念がる女子や、あからさまにホッとした表情を見せる男子、疑り深い視線を飛ばす男子と。目の前の女性徒が言う。
「なーんだそっか。ごめんね、引き留めちゃって」
「いえ、それじゃあ俺は……」
草閒は逃げるようにその場を去った。
あんな風に聞かれれば他に選択肢はなかった。ありもしない関係を匂わせるようなことを口走れば、それはたちまち噂となって広まりやがては稲田の耳に入る。自分の関わり知らぬところで、誰かと付合っていると噂されれば気分が良いものではない。だから草閒はああ答えるしかなかった。
言葉を口にするということは、心の中で思っていること以上に心を侵食する。放った言葉は言霊として心に作用する。
草閒は自分で言った言葉に心を犯され、昼休みの後の五時間目の授業中、沈んだ気分で頬杖を突きながら教室の窓の外の校門をぼんやりと見つめていた。視界に写るのは雨と、それに濡れる街だけ。
そう思っていると、道路を動く二つの傘が現れた。
二つの傘はゆっくりと学校の校門に近づいていき、一つは校門の手前で停止し、そしてもう一つは校門をくぐり学校の敷地内に進入した。
こんな時間に一体誰だろうかと二つの傘を視界に捉え続けていると、校門の前で止まった傘が傾いてその下の人物が姿を見せた。
遠目でその傘の持ち主の顔ははっきりとは見えなかったが、その人の纏った服装でそれが誰であるかは一目で見当がついた。その人物は甚平を着ていた。
須佐だ。あの儀式の場で見た男。思わず心の中で叫んだ。
とすると、もう一人の、校門をくぐった方は……。
「……稲田先輩、良かった……」
ホッとするあまり、口に出して独りごちる。
校門前に立つ須佐が、草閒に向かって傘を持っていない方の手を上げた。
この距離で制服を着た人間の顔を認識出来るのか。須佐の目の良さに驚きながら、草閒はつい手を上げてそれに応えた。
「はい。じゃあ草閒くん」
「――はい?」
教室の中から草閒を呼ぶ声がした。見れば、英語の教員の山田先生が教壇の上から草閒を見ていた。
「ここの英文を訳してください」
「え、どうして」
「どうしてって、君が手を上げたんじゃないか」
気がついて草閒は上げていた右手をさっと下げた。
「いや、これはそうじゃなくて……」
「じゃあどうして手を上げたんだ? ……まあいい。外ばっかり見てないでしっかり授業を聞くこと」
「……はい」
クラスの中から小さく笑い声が上がる。
もう一度窓の外を見るが、そこにもう須佐の姿はなかった。
だが、そんなことは今はどうでもいい。草閒の関心は、須佐と一緒に着たもう一人の傘の持ち主のことだった。傘に隠れて顔を見ることは叶わなかったが、須佐と一緒に着たということはそれが稲田だと思って間違いなかった。
稲田が学校に着た。たったそれだけのことだが、それは雲の隙間から刺し込む一条の光のように思えた。
「稲田先輩!」
放課後、授業が終わり生徒達が次々と学校を出て行く中、草閒は昇降口と校門を結ぶ通路の途中に傘を差しながら立っていた。そして、昇降口から出てきた稲田が近づくとそう声を掛けた。
「草閒さん……」
稲田は歩く足を止める。そして二人は向き合った。一週間ぶりに見る彼女は、以前より少し痩せ細ったように思えた。
他の生徒の邪魔にならないように道の端に移動すると、草閒は訊いた。
「身体は大丈夫なんですか? あれから学校を休んでいたみたいですが……」
「ええ。ただ大事を取って休んでいただけですから。大した事はないんですよ」
「……本当ですか?」
「はい。だから、そんな心配そうな顔をしないでください」
しかし、そう言って微笑む彼女はどこか無理をしているように見える。
……大した事ではないわけがない。月曜から数えて四日間も休んでいる上に、今日も昼過ぎに登校してきたのだ。心配して当然だ。
「それで、その……草閒さんは私に何かお話があるんでしょうか?」
彼女は、話を変えるようにそう切り出した。
「クラスメイトの方々が、毎日昼休みになると二年生の男の子が私を訪ねて来たっておっしゃっていて……それで草閒さんじゃないかと思ったのですが、私の思い違いでしょうか?」
思わず草閒は顔を赤らめる。
「いえ、はい。それは俺で間違いないです」
「そうですか……それで、その話というのは?」
稲田も、少し顔を赤らめながら言った。
頬を赤らめながら草閒は拳を握る。ここからは真面目な話だ。
大きく息を吸い、ゆっくりと吐く。傘の持ち手を握る手に力を込めた。
「先輩に、謝りたかったんです」
「謝る? ……私にですか?」
首を傾げる稲田に、頷いて答える。
「その……何についてでしょうか? 草閒さんが私に謝らなければいけないことに思い辺りがないのですが……」
彼女の整った顔は怪訝そうに眉をひそめていた。けれど、次の草閒の言葉を聞いて彼女の表情は一変する。
「日曜日の、儀式のことです」
その言葉を耳にした瞬間、稲田は一目で分かる程あらからさまに表情を硬くした。そして言った。
「……そのことと、草閒さんが謝ることは何か関係があるんですか?」
「あれは、雨乞いの儀式じゃないんですよね?」
「――っ」
「あれは雨乞いではなくて、善くない神を封印するための儀式だったんじゃないんですか? あの注連縄が切れて、封印されていた邪悪な何かが解き放たれて、雨が降って、それでその善くないもののせいで先輩は倒れてしまったんじゃないんですか?」
「……」
稲田は答えない。しかし、その顔は驚きに満ちていた。
「だとしたら、俺は謝らないといけない。いや、そうじゃなくても謝らなくちゃならない。何も知らないのに、無責任にあなたの背中を押すような事を言った責任を取らないといけない」
「…………違います」
10秒に近い間を置いて稲田が言った。
「アレは、雨乞いの儀式です。注連縄が切れてしまったのはそれ自体に不備があったからで、雨が降ったのも全部偶然です。私が倒れてしまったのも……そうですね、初めからあまり体調が良くなかったんです。ただそれは私の自己管理がなっていなかっただけのことで――」
「そんなことが聞きたいんじゃないんです」
稲田が語ったことが真実ではないということは明白だった。話す彼女の目は泳ぎ、声も軽く重みがない。彼女の言葉以外のその全てが、嘘を吐いていると言っていた。
「俺は知りたいんです。あれがなんだったのか、それが先輩とどう関係しているのか。だから教えてください。本当のことを」
「――知って、どうなるんですか?」
「え」
稲田が言う。
「……もし、仮にあなたの言ったことが全て本当だったとして……それが正しいと私が言ったとして、それでどうなりますか?」
「それは……」
「知って、あなたは何をするんですか?」
稲田の言うとおり、もし中村が語った仮説が本当だとして、ただの高校生に過ぎない草閒に何が出来るというのだろうか。この雨を神様が降らせているのだとして、知ったところで何かが変わるのだろうか。
「け、けど! それを言ったら稲田先輩だって! あなただって何も出来ないでしょう!? 儀式をするのだって、ただ縄を付け替えるだけなんだから誰にだってできた。そうでしょう? それこそ俺がやったって――」
草閒に何も出来ないのなら、同じただの高校生である稲田も違わないじゃないか。そんな当然だと思えることを草閒は必至に訴える。が、稲田は言った。
「違うって言ったら……」
悲しい声だった。
「私は他の人とは違う、特別な血を引く家の人間だとしたら……」
草閒は何も言えなかった。稲田もそれきり口を閉じてしまった。
遠くで稲妻の走る音がする。道路を走る車が水をはねる音が聞こえる。地面にぶつかり砕ける雨の音がする。傘にぶつかる雨の音がする。
それから、彼女の声が聞こえた。
「――これは私の問題なんです。私がやらなければいけないことなんです。だから、あなたには何の関係もない、知る必要すらない。私にしかできないことなんです」
「俺には、関係無い……?」
それは、死刑宣告にひとしかった。
密かに思いを寄せる相手からの拒絶。関係無い、知る必要のない。それは、これ以上関わってくるなという彼女の意志の表われだった。
どうして稲田がそんなことを言うのか。思い当たるのは「先輩はお前のことをただの後輩としか思っていない」という中村が言った言葉。
これまで、そんなことはないと、自分に言い聞かせてきた。自分にそう思い込ませてきた。心の中で何度も何度も繰り返すことで、湧き上がる疑念を押し殺してきた。
「だから、さようなら」
けれど、稲田本人から言われてしまっては否定のしようがない。彼女にとって自分はその程度の存在だったんだ。何の関係もない、ただ同じ学校に通っているというだけのただの後輩にすぎないんだ。どうしようもないその事実が、草閒に重くのしかかった。
稲田が校門に向かって歩いて行く。歩き去って行く彼女を、草閒は滲んでいく視界の中に捉えることしか出来なかった。
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