2.3

 焚き上げは中止になった。

 雨が降ってしまっては火は起こせない。草閒と中村を除いた見物客は早々に階段を下りて儀式の場を後にした。

 注連縄が切れたことを須佐が伝えると、稲田たち儀式の関係者は顔の色を失った。それは、傍から見ていた草閒が気の毒になるほどで、とりわけ稲田の反応は大きかった。縄が切れたのは自分のせいだと考えているのかもしれない。

 彼女の顔から血の気が引き足元がふらついている。そのまま倒れてしまうんじゃないかと思うほどだった。


「どうしたんだ?」


 辺りを散策していた中村がただことじゃない雰囲気を感じ取って近寄ってくる。


「それにこの雨……」

「――なあ、注連縄って大切なものなのか?」

「ん、注連縄?」


 草閒は訊いた。


「ああ。神社にあるのはよく見るけど、いまいちどんなものか分からなくて」

「なるどほな。注連縄ってのはな――」


 二人が話している間にも雨は降り続けている。雨脚はどんどんその勢いを増していた。傘など持ってきていない二人は、帰り道にどうせ濡れるのだからと雨に濡れるの気にしていなかった。


「――まあ要するに、人の世界を、神様の世界や良くないものものと切り離す結界みたいなものだ」

「それが無いと何かマズいのか?」


 そうだな、と中村が答える。


「どちらにしても人によって影響の強すぎるものだから、それを隔てておかないとって……ん?」


 話ながら中村は、白装束たちが小屋からまた別の新しい注連縄と運び出すのを見た。不測の事態に備えて余分に作っておいたものだった。


「どうしてまた別の注連縄を?」

「ああ、それなんだけど。さっきの注連縄が切れちゃったんだよ。ほら」


 草閒は岩の方を指し示す。岩の前には稲田が注連縄が運ばれてくるのを待っていた。そのすぐ傍には須佐が立っている。


「切れたって――結び目がほどけたのか?」

「それがそうじゃなくて。結び目じゃなく、全然別のところがな――」


 そのとき、ドサッという質量体が地面に落ちたような音が草閒たちの耳に届いた。それから須佐の声が聞こえた。


「姫乃ちゃん!?」

「?」


 目の前の中村から視線を外す。音のした方を見ると、岩の前、須佐の立つ横で稲田が倒れ伏していた。


「稲田先輩!」


 草閒は地に伏せ、泥しぶきで全身を汚す稲田に駆け寄ろうとする。だが、それよりも早く、須佐が彼女を抱き上げた。そして、駆け寄ろうとした草閒の横を通り過ぎて階段に向かった。


「君たちも早くここから離れるんだ」


 すれ違った際に須佐は草閒に向かってそう言った。それから凄い早さで階段を飛び降りるかのように下っていった。


「……今の人は?」


 呆然とした様子で中村が訊いた


「……先輩の親戚の人、らしい……」


 二人とも何が起こったのか理解出来なかった。分かっているのは稲田が倒れた、ただそれだけだった。

 稲田が倒れたことに白装束の彼らも動揺を押さえられずにいた。突然のことに対応が分からず、七人全員右往左往としている。草閒と中村の間にもそれきり言葉はない。

 空気が重かった。淀んだ空気を肌に感じる。その場にいるだけで不快感がこみ上げてくるような、得体の知れない気持ち悪さがあった。横を見れば中村もそれを感じているようで、二人は青ざめた顔を見合わせて山を下りる事を示し合わせた。

 二人は逃げるようにして階段を下りた。転ばないよう足元に注意しながら階段を下っていく。なぜだか分からないが、そうしないといけない気がした。幸い階段の上は木で覆われていたおかげで、転ぶことはなかった。

 途中でまた蛇の姿を見た。それも一匹ではなく複数。階段脇の緑の中を山の頂上に向かって這っていた。草閒も中村も目を向けただけで、足を止めることはなかった。

 下りきり、小山の入り口まで辿り着いても謎の不快感は消えてくれなかった。上にいたときと比べればマシになったが、それでも腹の虫はざわついたままだった。


「……どうなってるんだ」


 膝に手を突いて乱れた息を整えながら草閒が言った。


「予報にない雨に、注連縄。それにこの変な感じ……どうして稲田先輩が……」


 地面に倒れ、泥で身体を汚した稲田の姿が脳裏に浮かぶ。彼女の身にいったい何があったというのだろうか。須佐に抱えられた彼女は額に汗をかき、息苦しそうに見えた。


「やっぱりあの注連縄のせいなのか? あれが切れたから? いやでも、ただ縄が切れただけでそんなわけ……でも、それじゃあどうして……」


 草閒なりに色々と推論を立てる。だが、そういった方面の知識が乏しいため思考は堂々巡りするだけ。そこで、先程から中村が何も言わないことに気がついた。


「なあ、どうしたんだよ?」


 気分でも悪いのかと少し心配になりそう訊ねる。


「……違ったのかもしれない。あれは雨乞いの儀式なんかじゃなかったのかもしれない……」


 中村はそんなことを言った。


「雨乞いじゃない? じゃあ一体なんだってんだよ」


 雨乞いでないとしたら何だというのか。

 儀式のせいかは分からないが雨が降った。老人達も「恵みの雨」だと言った。それに、以前に中村が言ったことも概ね筋が通っているように思えた。だから草閒は儀式は雨を願うものだと疑っていなかった。

 中村は言った。


「あれから色々調べたが……雨乞いはやっぱり祭り事なんだ。神に雨を願うんだからそれなりの姿勢で臨まないといけない。けど今日のは違った。アレが祭りであるわけがない。お前はアレを見てどう思った?」

「いいから結論だけ話せよ」


 中村の回りくどい言い方に、つい口調がキツくなる。今は中村の講義に付合ってられる余裕がなかった。いち早く稲田の身に起こったことが知りたかった。

 草閒の物言いに中村は顔をしかめるが、話を続けた。


「アレは祭りなんかじゃない。言葉の通り儀式なんだ。それも神様を祀るものではなく、閉じ込めておくための。……封印といったほうが分かりやすいか」

「封印? なんでそんなことを」

「それが人に害をなす存在だからだ」


 神様が害をなす? 


「なんで神様がそんなことをするんだよ」


 神というのは人を助ける存在じゃないのか?


「神様だって全員が全員友好的なわけじゃない。色んな人間がいるように神様も多種多様だ」

「じゃあ、今日の儀式の対象となった神は、悪い神だってことか? 人に害をなす」

「結果を見ればそういうことになるだろうな」

「どうしてそんな…………お前はそのことを前から知ってたのか?」

「仮説の一つとしてな。……それに今言ったのは俺が考えたものじゃなくて、父さんが言ってたことだ。目立った証拠もないし聞いた時はあまり考えなかったけど――」

「なんでそれを教えてくれなかったんだよ」


 なじるような草閒の物言いに中村は腹が立ってきた。


「なんでって……それを裏付ける根拠が無かったからだよ」

「でも、今ではそれが正しいって思ってるんだろ」

「……まあ」

「最初からその事を話してくれてれば、俺は稲田先輩にあんなことは言わなかったのに。何も知らずに大丈夫だなんて言わなかったのに……」


 今、草閒の頭の中は稲田のことしかなかった。自分が昨日何も知らずに無責任に背中を押すようなことを言ってしまったから、そのせいで稲田は無理をして倒れてしまったのではないのかと。そう思えてならなかった。


「……なんだよ、言わなかった俺が悪いってのか?」


 先程からの、草閒の責めるかのような八つ当たりとも思える態度に中村はこれ以上我慢ならなかった。


「お前だって、俺が話したときぜんぜん興味なさそうにしてただろ。それなのに今更。どうして俺が責められなきゃいけないんだ。……言っちゃ悪いけど、草閒、お前が思ってるほど稲田先輩はお前のことを気にしてないよ」

「……なんだって」


 草閒が目を細める。


「お前自身は先輩のことを特別に思ってるかも知れないけど、先輩はお前のことただの後輩程度にしか思ってないってことだ」


 その言葉が、草閒の心に突き刺さった。

 中村の言うような事を考えなかったわけではない。自分は思いを寄せているが、相手はただの知り合い程度としか思っていない。そんなことは誰が開いただろうと往々にしてあり得る話だ。考えなかったわけではない。だが、考えたところで自分で答えを出せる物ではないから考えないようにしてきた。けれど、改めて第三者である中村に指摘されたことで、考えないようにしていたそのことが表層に浮かんできた。


「お前には関係ないだろ!」


 神経を逆なでするような言葉に草閒の声が粗々しいものになる。売り言葉に買い言葉。中村ももう冷静ではいられなかった。


「ああそうか。だったら関係のない俺はもう何も言わないよ!」


 中村は階段横に駐めた自転車のスタンドを荒々しく蹴り上げると、荒々しくペダルを踏み込んだ。

 あっという間に中村が小さくなり、視界から消えた。最後まで彼が後ろを振り返ることはなかった。

 一人残された草閒は一度階段の上を見上げると、小山の前を後にした。

 どうしてこんなにイライラしているのか自分でも分からなかった。稲田のことで気が動転したというのも関係しているだろうが、普段の草閒なら中村に対してあんな態度で接することはなかったはずだ。

 小山に続く森の小道を抜け、木の屋根を抜けて田園地帯に辿り着いた頃には乱れた心もだいぶ落ち着いていた。もしかすると、あの小山の周辺で感じた妙な空気のせいかもしれない。寝起きや空腹時や蒸すような暑さの人同じように、そのせいで平静を失っていたのかもしれない。雨で冷えた頭で、草閒はそう思った。

 空を覆う雲が落とす雨で草閒の前身はすっかり濡れていた。途中でコンビニに入ってビニール傘でも買おうと思ったが、今更傘を差したところで意味はないと止めた。水塗れた服が身体に張り付いて不快だった。

 身体が重く感じる。

 降りしきる雨の中、草閒は声を漏らす。


「稲田先輩……」


 彼女は無事なのだろうか。あの儀式とは一体何だったのか。……彼女は自分の事をどう思っているか。家に帰り風呂に入っても、夜になり布団に入っても、草閒の頭の中にはその事しかなかった。

 なにあはともあれ、彼女の安否の確認が今の草閒にとっての最優先事項だった。


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