2.2
階段を昇りきると、小山の上に設けられた儀式の場が見えてくる。
そこには、小さな木造の小屋が一棟、階段から見て右手側に建っていた。それ以外には、小屋の脇に墓石のようにも思える膝くらいの高さの石が七つと、注連縄を巻かれた人の背丈ほどの大岩が小屋とは反対の側に置かれているのみ。その他には地面を覆う背の低い雑草や、周囲を囲む木々しか特筆するものはない。小屋の向かい側の岩が、儀式で使用されるものだということは一目で分かった。
いかに知名度の低い催し事だとは言っても見物客が皆無ということはなかった。草閒と中村を含めて10人にも満たないものだったが、それでも見物客はいる。集まっていたのはほとんどが年寄りで、その服装から農業従事者であろうと想像がつく。
しかし、その中に一人、甚平を着た20代中頃から後半くらいの背の高い男の姿があった。その服装と、背の曲がった老人達に混じって背筋を正してまっすぐに立つその姿に草閒は目を奪われる。草閒の視線を感じとったのか、男が顔を向ける。草閒は咄嗟に視線を外すと、ふたりは注連縄を巻かれた岩と小屋を結ぶ道のように並ぶ見物客の列に加わった。
それからほどなくして儀式が始まった。
木造の小屋の扉が開かれ、中から白装束に身を包んだ人が七人姿を現す。その全員が女性のようだ。草閒はその中に稲田がいないかと目を走らせるが、七人の内に彼女の姿は見つけられなかった。
彼女らは縦に並び、大岩に新しく巻き付けるのであろう注連縄を地面に着かないようにして見物客の間を通って慎重に運んでいく。彼女らが大岩の前に辿り着き、その周りをぐるりと取り囲むようにして立つと小屋の中からもう一人、上半身は七人と同じ白装束で下半身は緋色の袴を履いた女性が姿を現す。その女性が稲田であることはすぐに分かった。
「あれ? あの人って、三年の稲田先輩じゃないか?」
中村がそっと草閒に耳打ちをした。
白と緋に身を染めた稲田は長い黒髪を後ろで一本に束ね、頭頂部に櫛を髪飾りとして付けている。左手には、頭上から指す太陽光を反射して鈍く光る抜き身の小刀が握られている。
彼女は小屋の前の段差を下りると、草閒たち見物客の間を歩いて行く。緊張しているのか、顔が強ばっているように思えた。草閒の前を通っていく際、彼女が横目でちらりとこちらを見た気がした。彼女は草閒の前を通り過ぎると、そのまま岩の方へ歩みを進める。
「それにしてもどうして稲田先輩が?」
その様子を目で追いながら中村が疑問の声を漏らした。
「知らなかったのか?」
「知らないよ。去年は全然違う女の人だったし。……というか、お前は知ってたのか?」
「まあ……」
「さてはお前、今日来たのは先輩目当てだろ?」
「…………」
中村の最後の言葉に草閒は聞こえないフリをした。
そうこうしている間に、稲田が岩の前まで辿りつく。
岩の前に立った彼女はゆっくりと、前振りなしにその手に握った小刀を持ち上げた。
草閒は稲田が言っていた言葉を思い出す。
「何か手違いがあれば、大変なことになってしまうかもしれない」
彼女はそんなことを言った。
それを聞いた草閒は、例え彼女が何かミスをしてしまっても彼女の言うところの「大変なこと」なんて到底起こりやしない。不安が彼女の中で膨れ上がってしまっているだけだと思った。だから、「大丈夫」だと言った。そして今、岩の前に立ち小刀を握る稲田を見て同じことを思う。だから、草閒は声に出さずに心の中で彼女に応援の声を送る。
儀式にいる誰もがその様子を固唾を呑んで見守っていた。彼女の握る小刀が小刻みに震えていた。一度大きく息を吸うと、持ち上げた小刀をスッと岩に巻かれた注連縄に走らせ、縄を断ち切った。縄はストンと岩肌を滑って地面に落ちる。
稲田は小さく息を吐き、肩に入れていた力を抜いた。
岩の周りを囲んでいた7人がすぐさま、手に持った替えの注連縄を岩に巻き付けていき、最後に稲田が縄の端と端を結んだ。結び目を何度か確かめ、それで注連縄の付け替えが終わる。稲田が心配していたような、手違いも大変なことも起こることはなかった。草閒もホッと息を吐いた。昨日あんな自信満々に言ったのだ、これで何かあってはこちらが困る。
その後、古い注連縄を焚き上げるためのかがり火の準備が始まった。
儀式の場には先程とはうって変わり、弛緩した空気が漂っていた。稲田は緊張もすっかり解けたのか、かがり火の準備を進めながら白装束を着た人と何かを話し微笑みを浮かべている。中村は「蛇神信仰」の自説をより固いものにするため、それを想起させる何かがないかと小屋の周辺を散策している。集まった他の見物客たちも「これで今年も安泰だ」などと儀式の成功を喜んでいる。その中で一人、甚平を着た男だけが一人険しい表情で注連縄が付け替えられたばかりの岩を見ていた。
それがどうしても気になり、草閒は中村を置いてその男に近づくと、
「あの……どうかしたんですか?」
草閒の言葉に、男が振り返る。
「その岩に何かあるんですか?」
「待て」
岩がどうかしたのかと、様子を見ようとして近づいた草閒を男が制した。
「あまり近づかない方がいい」
「はあ」
「いや、なに。妙な気配がしてね。少し様子を見ていたんだ」
男は、草閒を岩から遠ざけるようにして言った。
「……それで、君は姫乃ちゃんの知り合いなのかな?」
「姫乃ちゃん……そういうあなたは?」
この男は稲田とどういう関係なのかと訝しむ顔を向ける草閒を見て、男は笑った。
「ああ、そうだな。素性を聞くならまずは自分からだよな。
オレは須佐武男という者だ。姫乃ちゃんとは親戚みたいなものでね。君は彼女のクラスメイトかな?」
「あ、いえ。すみません。クラスメイトじゃなくて一個下の後輩で、草閒稔といいます」
「そうか、後輩か。姫乃ちゃんは慕われてるんだな」
須佐は嬉しそうに言った。自分に兄がいたらこんな感じなのかなと草閒はそこはかとなく思った。
「それで草閒くん、君はどうしてこの儀式に? 言っちゃあ何だか、君みたいに若い子には面白くもなんともないだろう? 見たところ農業従事者といった風でもないようだが……」
「ええと……その、稲田先輩に誘われて」
「姫乃ちゃんに?」
須佐は大仰に驚くと、それから顔を寄せて草閒を見る。
「……なるほど。それじゃあ君が――」
その時だった。
岩の前に立つ須佐の後ろ、稲田がしっかりと結んだはずの、岩に巻かれていたはずの注連縄がスルリと地面に落ちた。突然のことだった。
最初に気がついたのは草閒だった。落ちた注連縄を見て「あっ」と声を上げ、その声で須佐が気がついた。振り返り、地面に落ちた注連縄を認めると須佐は血相を変えて落ちた縄を手に取る。
結び目がほどけてしまったのかと思ったが違った。須佐の肩越しに縄を見ると、結び目ではなく他の箇所が、引きちぎられたかのようにバラバラになっていた。
その時、草閒は寒気を覚えた。先程まで地面にあった草閒の影が今は見えない。何事かと上を見れば、太陽が分厚い雲に隠されていた。予報では今日一日中晴れだと言っていた。それに、家を出たときも雲の姿など見当たらなかった。それだというのに今、草閒が見上げる空には仄暗い雲が立ちこめていた。
おかしい。
思いながら空を見上げていると、草閒の頬に冷たい感触。雨だ。
ぽつりぽつりと降り始めた雨。その場に居た皆が草閒と同じように空を見上げる。
「おお、恵みの雨だ!」
見物客の老人の誰かが言った。老人達はこの雨を儀式の賜物だと考えた。けれど、草閒はそうは思わなかった。
雲が空を覆い雨を降らす直前、岩に巻かれた注連縄が不自然に切れたことのを見ていたからだ。その事と何か関係しているのでは。そう思わずにはいられなかった。
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