1.14
「明日の儀、稲田家今代当主として私、稲田姫乃が謹んで執り行わさせて頂きます」
田園地帯への散歩から帰った稲田は、茶の間に家人を集め、姿勢を正して仰々しく宣誓した。茶の間には、稲田の祖母、母、父、そして数日前から客人として稲田家に滞在している須佐武男が集められていた。
稲田は正面に座る祖母の目を正面から見据える。茶の間には重々しい空気が下りていた。その空気を破るかのように、稲田の父親は、「ああそうか。よかったよかった……」と言った。その顔には安堵の表情が浮かんでいた。
しかし、父親を除く他の面々は思うところがあるのか、口を閉ざしたままだった。その様子を見、父は笑顔を引っ込め、母と祖母の顔色を窺うように正座する足を組み直し、居住まいを正した。
「…………いいんだね?」
しばしの沈黙の後、祖母が訊いた。
「はい。それが私の、稲田家当主としての役回りですから」
「……そうかい」
祖母はどこか浮かない顔をしていた。
18の齢を迎え稲田家当主の座を継いだ孫娘が当主としての初仕事への覚悟を表明したというのにも関わらず、本来ならそれを喜ぶべき立場の祖母は手放しにそれを祝することができなかった。
「……今回は今までとは少し状況が異なる。須佐家の当主様がこうしていらっしゃったのも、不穏な気配を感じたからのこと」
祖母の言葉に、部屋の隅に腰を下ろしていた須佐が小さく頭を下げる。
「こちらでも何かが起きるやもしれない。今のところは無事だが……それこそ、その時にならなければ誰にも分からない。それは理解しているね?」
「……はい」
稲田は応えたが、今度はわずかな間があった。覚悟、と言うには大げさだが、心を決めたはずの稲田だったが、祖母の口ぶりに少し臆してしまう。明日の儀式を執り行うということは、正式に稲田家の当主としてその先に起こる事への責を負うということを意味していた。
「覚悟の上です」
稲田は自分に言い聞かせるかのように、そう言い加えた。
「……わかった。これ以上何かを言うのは野暮だね。だけど、くれぐれも気を抜くことのないように」
祖母がそう言ったのを最後に、稲田家の会合は終わった。祖母が部屋を出て、それから母、父と続き、部屋の中には稲田と須佐だけが残された。
稲田は須佐に会釈をして、自室に戻ろうとしたところを須佐の声が彼女の足を止めた。
「本当に、いいのか?」
「須佐さん」
稲田が振り返る。
「お婆様も言っておられたがこれまでとは状況が異なる。危険がないとも言い切れない。それでも?」
「はい。それが稲田家に生を受けた私の役目ですから」
須佐は目を細めた。
「何かあったのか? ついさっき、外の空気を吸うと言って外に出て行った時とは様子が違うみたいだが、外で何か?」
「いえ、何かというほどでは。ただ……」
「ただ?」
「少し気負いすぎていたのかなと、そう思い直したんです」
稲田は微笑んだ。
「須佐家の守る祠で異常があり、雨雲が異常な動きを見せていることはもちろん存じています。ですが、あくまでそれは一時的なものであり、封印の綻びのようなものなのではないかと、そう考えることにしたんです。病は気からと言うように、何事も悪い方に考えていては上手くいかないものです。少しでも良い方向に考えていれば、物事も自ずと好転していくんじゃないでしょうか?」
「……随分と気楽な考えなんだな」
「いけないことでしょうか?」
須佐はふっと表情を和らげる。
「いや、そうじゃない。オレもそんな風に考えられたらって、そう思っただけだよ。確かに姫乃ちゃんの言う通り、そうなってくれるのが一番だ。だけど、オレたちみたいに歳をとってくるとなかなかそうにもいかないんだ」
言いながら須佐は、茶の間の障子の扉を開けて縁側に出る。すっかりと日の暮れた夜の空には、青白い光を返す月が浮かんでいた。
稲田は須佐の後に続いた。
「須佐さんだってまだまだお若いでしょう」
「あと数年もすればもう30だ。君からみれば十分おじさんだろ」
「そんな。――あ、そういえば」
思い出したように稲田が言う。
「母から聞いたんですが、先日お子さんが生まれたとか」
「ああ、そうなんだよ」
須佐の声の調子が上がる。
「ほんの一ヶ月も前に生まれてね。これがまたかわいいんだ。オレが指を向けると、必死に手でそれを握ってなかなか離してくれなくてね。そのまま寝てしまうこともあって。……これが息子なんだが」
須佐は懐から携帯電話と取り出し稲田に我が子の写真を見せようとする。だが、ニコニコと笑みを浮かべた稲田に気がつくと、顔を赤らめ携帯を懐に戻した。
「見せていただけないんですか?」
「……また今度な」
それから一つ咳払いをすると、
「今日は早めに寝ておけ。明日のため、しっかりと身体を休めておくんだ。万が一……いや、億が一に備えてな」
「はい。そうですね、そうします。――それでは、おやすみなさい」
笑みをたたえたままそう言うと、稲田は自室へと戻っていった。
ひとりになった須佐は、雲一つない快晴の夜空に浮かぶ月を見上げる。
「さて、何も起きず無事に終わってくれればいいんだが……」
須佐の呟きは夜の静けさに溶けて消える。
普段なら聞こえるはずの蛙の鳴き声も、その夜は不思議と聞こえてこなかった。
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