1.13

 夕刻の、赤みが掛かり始めた空の下を草閒は歩いていた。


 帰っても夕飯はまだできていないだろう。草閒はもう少し適当に辺りをぶらついて腹を空かしてから家に帰ることを決めた。


 駅前を離れ、家がある住宅街の外に広がる田園地帯に足先を向ける。国道沿いの大通りを抜け、車通りの少ない道に入る。そのまま道なりに進んでいくと、しだいに辺りの景色が様相を変えた。

 大通りを離れるに連れて背の高い建物は姿を消し、車の音も遠ざかる。代わりに姿を現すのは、石垣で囲まれた瓦葺きの屋根をした平屋といった古めかしい建物。そこに住む住民は普段から浴衣でも来ているんじゃないかと思えてくる。平屋の前に駐められた軽自動車が、辺りの景色に浮いていた。


 そこから先へ進むと、家屋もまばらになり、その代わりに田んぼが見え始める。そして更にその先に家はもう見えず、ただ田んぼが広がるのみだった。草閒は田の間に作られた農道を歩く。道の脇には「農耕車優先」と書かれた看板が立てられていた。


 草閒は空を見上げる。


 田園地帯には農作物の生育ために街灯が設置されておらず、心なしか空が綺麗な気がした。朱に染まる西の空を見て、ああ明日も晴れなんだ、と思った。

 地上に目を戻せば、そこにも空が広がっていた。


 一面に広がる田はすでに田植えが済み、水が張られている。水を張った田は、朱と紺が混ざった紫の空を地上に映し出していた。草閒は二つの空の狭間に立っていた。

 いつだったかは忘れたが、以前に中村が言っていたことを思い出す。

「稲作は神がおわす天の世界からもたらされた神事で、それを行う田は神界に通ずる神聖な場だ」とか。

 聞いた時は、そんなわけ、と笑って聞き流したが、今この光景を見ているとなんだかそれもあり得ない話ではないと思えてくる。地上に映し出された紫空に、植えられたばかりの幼稲が整然と並ぶ光景はそう思わせるほど幻想的だった。


 ふと、前から歩いてくる人影に気がついた。


 周りの景色に気をとられて気づくのが遅れた。今この瞬間、できるなら人と会いたくなかった。もうしばらくの間、自然が織りなす幻想的な空間に心奪われていたかった。そんな草閒の思惑とは無関係に、その人影はどんどんとこちらに近づいてくる。人影のシルエットから、その人影が女性であることが分かった。そして、彼女が誰か気づいた。


「稲田先輩?」


 その人影とは、稲田姫乃だった。西日のせいで充分に近づくまでは分からなかったが、それは間違いなく稲田姫乃だった。

 彼女もまた、周りの風景に気を取られ草閒の存在に気がついていなかった。名前を呼ばれたことで初めて、自分以外の存在に気がつき前を見、「……草閒、さん?」と声を漏らし、歩く足を止めた。学校のない休日だから当然なのだが、稲田は制服ではなく、飾り気の少ない白いワンピースに、足元は白いサンダルといったラフな格好に身を包んでいた。

 彼女の顔は、気のせいだろうか、青白く見えた。そして、それが昨日学校で見かけた彼女の姿を思い出させた。


「……どうかしたんですか?」


 だから、草閒は聞かずにはいられなかった。


「なんだか顔色が良くなさそうに見えます。……俺の、思い過ごしならいいんですけど」

「……そう見えますか?」

「はい。風邪、ですか? それだったら外に出ないで、家で休んでいたほうが――」

「いえ、風邪では、病気の類いではないんです。体調が悪いわけではなくて、ただ少し……」


 そう話す稲田の声はしだいに弱々しくなり、最後は何と言ったのか聞こえないほどに小さかった。たった一度話をしただけに過ぎなかったが、それでも今の彼女の様子が普通ではないことは明らかだった。


「病気でないなら、何か悩み事ですか?」

「そう、ですね……悩みといえば、そうなのかもしれません」

「先輩でも、悩むことがあるんですね」


 草閒は親近感を抱く。学校で見る稲田はいつも堂々と胸を張って歩き、気品に満ちているように思えた。そんな彼女が、自分と同じように何かについて悩むことがあると分かり、それが少し嬉しかった。そしてつい、それを口に出してしまった。


「おかしいですか?」

「あ、すみません。そんなつもりじゃ」

「いいんです」


 失言をしてしまったと焦る草閒に、稲田は言った。


「本当なら、私がこんなことで悩むことそれ自体があってはいけないことなんですから。ええ、いけないことなんです」


 彼女の声は、どこか自嘲するようだった。


「ただ、明日のことを考えると身体が勝手に竦んでしまう。頭ではいけないと分かっていても、どこかでそれを拒む自分がいる。どうしてって、なんでって」


 草閒は何を言えば分からなかった。彼女が何を言っているか、何を悩んでいるのかは分からない。ただ、彼女が口にした「明日」という言葉に、引っかかりを覚えた。


「そんなこと思ってはダメだって分かってる。それが自分に与えられた役割で、それをこなすのが当然ことなんだって。今までも皆そうやって来たんだって。でも……っ!」


 そこで稲田は言葉を止めた。家の誰にも話すことができずにいた心の中のわだかまりを、たった一度話をしただけの、それも後輩の男子に愚痴のようにぶつけていることに気がつき、そんな自分を恥じるように口を閉じた。


「……ごめんなさい」


 稲田は頭を下げた。


「突然、こんなことを言われても困りますよね。訳が分かりませんよね。本当にごめんなさい。誰かに、家の者ではない誰かに聞いてもらいたかったのかもしれません。家の者なら、きっと弱音を吐く私を叱るでしょうから、逃げ場が欲しかったのかもしれません。あ、すみません。私、また……」

「いえ、俺は別にそんな」


 謝りつつも、また自分が愚痴を漏らしていることに気がつき、今度こそ稲田は口をつむいだ。青白かった彼女の顔は、溜め込んだ不満を外に吐き出したからか、少しましになっているような気がした。そして、今は赤裸々に愚痴を語ってしまった自分の軽率さと、未熟さを恥じ、少し赤くなっていた。


「それで、あの」


 一方で、稲田の話を訊いている間、草閒の頭の中では彼女の言った「明日」という言葉が、ある一つのことと結びつきつつあった。そしてそれを確かめるべく、草閒は頭の中の疑問を口に出す。


「稲田先輩が悩んでいるのって、もしかして、この先の小山で明日行われる儀式のこと、ですか?」


 なぜそう思ったのか、自分でもよく分からない。ただ、今辺りに広がる田んぼが作り出す神秘的な光景と、中村の語った話がきれいに符合するように思えた。そして、それを稲田の反応が肯定した。


「……知っているんですか?」

「あ、いえ。実際にその儀式を見たことはないんですけど。そんな話を聞いたことがあって。それで、もしかしたらって思っただけで」


 稲田は驚きの表情で見ていた。まさか草閒が知っているとは思わなかったと、そんな顔をしていた。


「……その、大変な儀式なんですか?」


 明日の儀式で何が行われるのかは分からず、草閒は聞いた。雨乞いの儀式なんて見たこともない。雨乞いというのだから、水を使って何かをするのだろうか。


「大したことはないんです。ただ、白装束を着て、ちょっとした一連の動作をするだけなんです。それだけのことなのに、怖いんです。私がちょっとでも手違いをしたら、大変なことになってしまうんじゃないかって。そう思ってしまって」


 稲田は自分が儀式で何か失敗する姿を思い浮かべたのか、身震いした。


「大丈夫ですよ」


 草閒は言った。


「先輩ならきっと上手くできますよ」


 それは気休めの言葉だった。

 草閒は儀式のことも、稲田自身のこともろくに知らない。ほぼ赤の他人と言ってもいい。そんな相手から「君なら大丈夫」と言われても、なんの説得力もない。そんなことは分かりながらも草閒は言った。何も言わないよりは良いと思った。


「……そうでしょうか?」


 案の定、稲田は信じられないといった目を向けた。けれど、それでも草閒は言った。


「先輩なら、大丈夫ですよ」


 自信たっぷりに言った。

 気がつけば、紫色だった空はすっかりと夜の帳を下ろしていた。暗幕の上に垂らされた白い絵の具のように、星々が燦然と輝いている。街灯のない田園地帯では星がよく見えた。


「そろそろ帰りましょうか」


 稲田が言った。彼女の声に自嘲の色はもうなかった。


「そうですね」


 草閒の言葉が届いたのかは分からない。胸の内を吐き出し、勝手に立ち直ったのかもしれない。だが、どちらでも良かった。稲田が元気を取り戻せたのならそれでいいと草閒は思った。


「そうだ」


 稲田が切り出した。


「もし良かったら、明日、儀式を見に来ませんか?」

「いいんですか?」

「ええ、もちろん。草閒さんが良ければですが」

「それじゃあ、ぜひ」


 草閒は首を縦に振った。


「ふふ、それでは明日、お待ちしていますね。儀式は十時から執り行われますので」


 それから二人は互いに元来た道を引き返した。途中、草閒は背後を振り返るが、辺りは暗く、見えたのは稲田が歩きながら自分の足元を照らす懐中電灯の光だけ。

 それでも稲田は見続ける。視界の端に写る、水面上の月が風に揺らいだ。

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