1.12

「先輩、私と付き合ってくれませんか?」

「……は?」


 そろそろ店を出ようかという時に切り出された穂坂の言葉に、草間は身体を硬直させて呆けたような顔で座席に座りながら目の前の穂坂を見つめた。しかし、すこしして身体は柔らかさを取り戻した。止まっていた思考も動きだし、どうにかして彼女の言葉の意味を理解しようとする。


「あ、ああ、この後のことね。ど、どこか行きたいところがあるのか? あまり遠くじゃなければ――」

「いえ、違います」

 

 穂坂はもう一度、同じ言葉を繰り返した。


「私と、付き合ってくれませんか」

「…………それは、一緒にどこかに出かけるという意味、じゃなくて?」

「はい。違います」

「……つまり、男女として付き合いたい、と?」

「そうです」


 彼女の表情や声の冗談の気配はなく、真剣そのものだった。

 穂坂はまっすぐに、答えを待つようにして草閒のことを見つめている。

 一度頭を冷やして冷静になろう。そう思い、コップに手を伸ばすが、すでに空になっていたことを思い出し手を引っ込める。

 腔内に分泌された唾を飲み込み、数度深呼吸をして、


「あ、その、気持ちはうれしいんだけど……まだお互いにほら、知り合ったばかりだろ?……付き合うってのは、その、少し早いんじゃないかな? そういうことは、もうすこしお互いのことをよく知ってからで……」


 しどろもどろになりながらも草閒はそう言った。

 穂坂に告白され、嫌な気はしなかった。嫌どころか、好いてもらえること自体はうれしかった。これが少し前だったら、戸惑いはしたものの照れながら首を縦に振っていただろう。

 しかし、今の草閒の中には別の女性の影があった。

 穂坂から告白され、それから考えたのは穂坂ではなく稲田のことだった。今ここで告白を受け入れたら……。頭の中ではそんなことを考えてしまっていた。草閒が口に出したのは、答えを先延ばしにするための建前にすぎなかった。


「先輩、」


 穂坂が言う。


「知らないなら、付き合ってから知っていけばいいんです。……今日、先輩とお話して、先輩のことを、少しですが知ることができました。それで思いました。先輩のことをもっと知りたいって。私はもっと先輩を知りたいんです。だから付き合いたいんです」

「……知りたいから付き合う?」


 穂坂の言葉に、草閒は引っかかりを覚えた。


「……それは、違うんじゃないか……普通、男女が付き合うっていうのは、ちょっとずつ時間をかけて互いのことを知っていって、それから付き合い始めるってものじゃないのか? 穂坂のその言い方だと、とりあえず付き合ってみて、それから考える。そんな感じがするんだけど……」

「それじゃあ先輩は、相手のことをどれくらい知ったら、『さあ付き合おう』って思うんですか?」


 穂坂は言った。


「4割ですか? 5割ですか? 6割ですか? ……それとも相手の全てを知ったときですか?」

「――っ……それは……」


 答えられなかった。

 相手のことをどれだけ知ったら付き合う、そんなこと考えたこともなかった。

 穂坂は言う。


「どんなに時間をかけても、相手の全てを知ることなんてできません。どれだけ距離が近くなっても、どれだけ相手のことを知っても結局は他人なんですから。……だけど、それでも相手のことを知りたいと思うから付き合う。人との付き合いって、そういうものじゃないですか?」

「……」


 穂坂は息を吐いた。


「……でも、これは私の考えです。分かってます。他の人が、先輩がそうは思わないってことは。私の考えですから、自分以外の誰かにこの価値観を押しつけようとは思っていません。理解してもらえなくても構いません。だけど――」


 穂坂の綺麗な瞳がまっすぐに草間を見据える。


「――こんなこと誰にでも言うことでありません。そのことだけでも分かってもらえれば、私は……」

「あ、ああ……」


 そう言うと穂坂は荷物を持って席を立った。そして、つとめて明るい声で言った。


「それじゃあ、そろそろ出ましょうか」





 店を出ると二人は駅に向かって歩いた。穂坂は本当に他に行きたいところはないようで、草閒は彼女を駅まで送り届けることになった。

 店を出てから二人はしばらく黙って歩き続けた。

 ふいに、穂坂が言った。


「あまり気にしないでくださいね」


 彼女は笑ってみせた。草閒もそれに微笑み返そうとするが、上手く笑えたか分からなかった。

 気にするなと言われても無理な話だ。


「そんなこと言われても、な……」

「顔を合わせるのが気まずいから避ける、なんてことはやめてくださいね? 私、気にしてませんから」

「でも、」

「いいんです。先輩は先輩のタイミングで答えを出して下さい。私はそれを待ちますから」


 草閒の心中をどこまで察しているのか、穂坂はそんなことを言った。

 駅に着き、穂坂は改札を通り抜けていく。ホームに続く階段を上り姿が見えなくなる直前、穂坂は一度だけ草間の方を振り返ると手を振った。草間もそれに小さく手を挙げて応えた。

 それから彼女の姿が完全に見えなくなると、草間はひとり駅を出た。


 ひとりになると、頭の中でファミレスでの出来事が何度も繰り返される。

 穂坂は魅力的な女子だった。愛嬌があり、話していて楽しい。きっと、付き合ってもっと彼女のことを知ればすぐに好きになるだろう。だが、草閒にそれを思い止まらせるのは稲田の存在であり、そして何より大きいのは穂坂との出会いのことだった。


 穂坂は勘違いしている。草閒が彼女をかばったのだと。


 そして、草閒もその勘違いに気づきながらも、それを正そうとしていない。それは嘘をついているも同然のことだ。穂坂が自分に好意を抱いたきっかけがそれであるならば……

 そこまで分かっていながら行動に移せない自分に、あのとき本当のことを穂坂に言わなかった自分に、草閒は嫌気が差した。


 鬱々とした気分を抱えたまま家に帰る気が起こらず、駅の近くに建つ大型のショッピングセンターに足を向けた。それからそこで時間を潰した。歩きながら店に並ぶ商品を眺めていると、少しの間気を紛らわせることができた。ついに見るものがなくなり外に出ると、空が赤くなり始めていた。

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