1.10

 穂坂とのデート――というのが正確かはわからないが――を翌日に控えた金曜のこと。草閒は稲田の姿を見かけた。次の時間の授業のため、校内を移動しているときのことだった。

 同じ学校に通っているのだから稲田の姿を見かけることはさほど珍しいことではないのだが、この日の彼女はいつもと様子が違っていた。


 彼女はひとりで廊下を歩いていた。次の授業のために特別教室に向かっているのか、それとも前の授業が終わり教室に戻っているのか。教科書とノート、それと筆記用具を胸の間で抱えて、何やら物憂げな表情をして目も伏せがちだった。姿勢も、背中に棒を入れているような直立ではなく、下を向いているせいか背中が丸まっていた。

 何か様子が明らかに違う。前から歩いてこちらに向かってくる稲田を一目見て、そう思う草閒。彼女は正面をよく見ていないのか、廊下の先に立つ草閒の存在には気づいていないようだった。


 彼女との距離が縮まる。彼我の距離は歩幅にして4歩程度。草閒は声を掛けようとする。が、出来なかった。稲田の「い」を口に出しかけて、それから口を閉ざした。

 なぜだか声を掛けてはいけない、そんな気がした。


 彼女はそれから草閒の横を通り過ぎ、そのまま振り返ることなく歩き去って行った。草閒は、遠ざかっていく彼女の背を見つめていた。





 そして、土曜日が訪れる。


 草閒は家を出ると天を仰いだ。雲は浮かんでいるが、関東地方は相変わらずの晴れ予想。雨が降る心配はない。

 雨といえば、先週の梅雨入りから今日まで、山陰地方を中心とした西日本で雨が降り続けているとテレビで報道されていた。このまま雨が止まなければ、ダムの排水が追い付かず河川が氾濫する恐れがあるとも言っていた。いくら雨が天からの恵みだと言っても限度がある。早く落ち着けばいいのだが、青々とした空を見ながら草閒は思った。


 待ち合わせ場所に指定された駅へと向かう途中、駅前に並ぶ店を眺めていると急に財布の中身が心配になった。

 アルバイトをしていない草閒にとって月々のお小遣いとお年玉の残りだけが頼り。穂坂がどこに行こうというのかは分からないが、あまりお金を使うところでなければいいのだけれど……。

 財布の中に入った数枚の紙幣を、不安げな顔で草閒は見た。


 それから少しして駅に着く。駅前に穂坂らしき姿は見えなかった。時刻は12時50分。待ち合わせの13時までは、まだ10分ある。穂坂が来たらすぐ分かるように改札の近く、外からくる人が見える場所に移動した。

 51分、52分、53分……。

 構内に設置された時計を見ていると、刻々と時間が過ぎていくのが分かる。時間を気にしているわけではないが、どうしてか時計から目を離すことができなかった。そして、長針が57分を指したところで、草閒の背後から声が掛かった。


「こんにちは」


 声の方に振り返る。

 声の主はクリーム色のシャツと青みがかったデニムを着こなす私服姿の穂坂だった。


「お待たせしちゃいました?」

「あれ」


 彼女の姿を認め、草閒は言った。


「午前の間、どこかに出てたの?」

「? どこにも出かけてませんよ?」


 穂坂は首を傾げる。


「でも、ほら、後ろから来たってことは駅の中から来たんじゃ?」


 草閒は、穂坂がてっきり駅の外から来るのだと思って改札に背を向けて待っていたのだ。それなのに彼女は背後から声を掛けてきた。どうしてか。

 草閒の素朴な疑問は、穂坂の口からすぐに解き明かされた。


「電車通学なんです、私。隣の県から電車で通ってるんです」

「へぇ、そうだったのか。てっきり学校の近くに住んでるんだと」


 穂坂が駅内から現れたことは府に落ちた。


「でも、それだと毎日大変そうだな」


 二人が待ち合わせ場所にしたこの駅は花島高校から最も近い駅なのだが、そこから隣の県まではどのルートを使っても少なくとも30分は掛かる。毎日の様に通う上でそれは大きな負担となり、他県から通っている生徒は少なかった。同程度の学力の高校なら他の県にもあるはずだが。そこまでして隣の県まで通う理由が花島高校にあるのだろうか。

 そんなことを考えていると、「それじゃあ行きましょうか」と穂坂は駅の外に向かっていく。


「電車に乗るんじゃないのか?」


 先を行こうとする穂坂に、改札を指さしながら草閒が言った。彼女は足を止め振り返る。


「いえ。ただ駅のほうが待ち合わせ場所として良いかなと思っただけで。……電車に乗ってどこかに行きますか? 私はそれでも構いませんが――」

「い、いや、いいよいいよ。外に出ようか」


 引き返そうとする穂坂を押しとどめ、草閒は駅の構内を出た。電車賃も安くはない。出費を抑えられるのならそれにこしたことはない。

 駅を出ると、穂坂はすでに行き先が決まっているのか迷うことなく進んで行く。

 

「で、どこに行くんだ?」


 最初はおとなしく後に続いていたが、歩く間に自分たちはどこに向かっているのかと少し不安になりそう尋ねた。すると彼女は言った。


「学校近くのファミレスです」

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