1.9

「この雨、どう考える?」


 男の前に座る和服の老人が言った。


「はい。雲の動きから見て、世間で言われているところの梅雨ではなく、別の要因によるものかと」


 答える男が着る服も甚平と、昨今では日常的には着られることの少なくなった服装をしている。二人が座って話すその場も、床には畳が敷かれ、老人の背後の壁を除いた三面は障子といった和の様式。しかし、張られた障子も今は湿気で伸びてしまいたゆんでいた。


「周囲の雨雲が何かに引き寄せられるかのようにしてここに集まってきています。その動きは明らかに自然のものではありません」



 山陰地方に位置する島根県のとある山中。人の里から離れた山奥に居を構える須佐家代々の家の仏間にて、78代目、当代当主須佐武男と、その祖父にあたる76代目当主須佐光男は顔を合わせていた。議題はつい数日前から降り始めた雨に関して。二人の見解は、この雨は超常の力が作用したものだというものだった。


「それに、雨が降り出してからというもののどうにも気が急いてなりません。どこにいても、こう息苦しいさというか、何物かからの圧迫感のような圧を感じてなりません」

「そうか……」


 服の上から胸のあたりを抑える須佐を見て、祖父は言った。


「実は儂もそうなのだ。最初は歳から来る動悸かとも思ったのだが……」

「そんな、じいはまだ」

「儂はもうすぐ八十寿を迎える。もう随分と歳をとったものだよ」

「まだまだこれからですよ。八十と言わずに、米寿、卒寿、白寿と、じいにはいつまでも健康でいてほしい」

「はは、老体に無茶を言う。……けれども、天からの迎えが来るまではこの世を謳歌するつもりだ。だからそんな顔をするものではない」


 祖父は孫に向かって相好を崩す。が、すぐに表情を引き締めて、


「違和感を覚えたのがわたしひとりではないとすると、この突然な降雨、もしかするかもしれん。――武男、外に出るぞ」

「はい。祠、ですね」

「そうだ。祠に何かあったのやもしれぬ」


 言って、二人は傘を手に外へと出た。

 外へ出ると、途端に、叩きつけるような雨風が二人を襲う。傘でなんとか凌ぎつつ二人は山の奥に造られた祠に向かって足を進める。雨でぬかるんだ足元と山の傾斜が、ただ歩くだけだというのにジワジワと体力を奪っていく。

 山道を抜けると開けた場所に出る。二人は無事に山中の祠へとたどり着いた。

 二人を除いて、祠の辺りに人の気配はない。いるはずがなかった。間違って人がたどり着いてしまうことがないようにわざわざ山奥の、人が寄り付かない場所を選んで造られた祠なのだから。


 祠の入り口まで来ると二人が感じる息苦しさは増す。中の闇に一歩足を踏み入れると、呼吸を意識しないといけないほどだった。


「入るぞ」


 祖父は懐中電灯を手に祠の中に入っていく。須佐もそのあとに続いた。

 中に入ると、肌が粟立つ。祠の中の空気はしんと冷えていた。だが、それだけでなく祠の奥から何か気配を感じた。明らかに外とは空気が違う。一歩足を踏み出すのが嫌だ。近づいてはいけない。触れてはいけない。頭の中でもう一人の自分がそう言っていた。


 ――何を弱気になってるんだ、俺は。須佐家の当主がこんなんでどうする。


 須佐は自分にそう言い聞かせ、前を進む祖父の後に続いた。

 祠の奥は外からの光は届かず、昼間だというのに真っ暗な闇。足元に何があるのかすら懐中電灯の光が無いと分からない。

 祠の奥を照らす。何かスルスルと動く黒いモノが見えた。耳を澄ますと雨音に混じって、シュルシュル、と音が聞こえる。目を凝らす。

 蛇だった。一匹ではない、何匹もの蛇が祠の奥に集まり、それで一つの大きな群体だというかのように何匹も折り重なっていた。

 ぎょっとして身体を仰け反らした須佐の足元を、外から入ってきた蛇がまた一匹、横波を打ちながら祠の奥へと這っていく。


「じい」


 祖父に向かって言った。


「これはただ事じゃないぞ。この瘴気、まさか封印が――」

「ああ、わかっとる。わかっとる。すぐに他の者を呼び戻さねばならん。一旦家に戻るぞ」


 二人は祠を出た。祠を出る際、祖父は懐から札のようなものを取り出すと、それを祠の入り口の壁に貼り付けた。


「武男」


 来た道を戻りながら、祖父が言った。


「皆が集まったら、お前は関東の稲田家を尋ねろ。そしてこのことを伝え、あちらの様子も見てくるんだ」

「稲田家……確かあちらの当主は」

「そうだ。ついこの前、母から子へ引き継がれたばかりでまだうら若い」


 須佐は、稲田家新当主の姿を思い浮かべる。須佐家と稲田家は年に数回顔を合わせる機会があり、その場で見た少女の姿を思い出す。あの子が当主。早すぎる。須佐は思った。


「行って、有事の際にはお前が手伝え。こちらで事が起こったということは、あっちでも何か起こるやもしれん。ひとまずは向こうで経過を見ろ。そしていざという時には……」

「はい。承知しています」


 家に着くと、二人は手分けして須佐家の身内に連絡をして回った。連絡を受けた者は皆、一度言葉を失い、それからすぐに向かうと言った。

 一通りの連絡を済ませ、祖父は仏間に腰をおろした。庭先からは大地を打つ雨音が聞こえる。そして仏間の奥に祀られた、十束ほどの長さの刀剣を見やる。


「まさか、今更になって目を覚ますのか……?」


 言って、鞘の上から刀身に触れた。

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