1.8
スポーツ祭が終わり、土日を挟んで訪れた月曜。
二日間しっかりと休息を取った草閒はいつもと変わらず教室で授業を受けていた。彼を取り巻く環境もさして変わることはなく、今日も関東地方は晴れを続けていた。
午前の授業が終わり昼休みになると、草間と中村は机の上に弁当を広げて昼食を摂る。
「そういえば、中国地方はもう梅雨入りだってな」
弁当のおかずを口に運びながら、ふいに草間が言った。
今朝のテレビで「中国地方梅雨入り。異例の早さ」と報じられていた。例年は6月に入ってからなのだが、今年はそれより二週間ほど早いとテレビの中の気象予報士が言っていた。つい先日、中村と雨に関する話題に触れたこともあり、リビングで朝飯を食べながらタイムリーな話題だと、そのことがどうにも気になってしまったのだ。
中村もたいそう関心を払っているだろうと話を振ったが、帰ってきた中村の反応は冷めたものだった。
「そうらしいな」
中村はそう言ったきりで、それ以上言及しようとはせずに淡々と弁当に箸を伸ばす。その薄い反応に草間は違和感を覚えた。
「それだけか? お前が言ったんだろ、梅雨だの雨乞いだのって。関心があったんじゃないのかよ?」
「たしかに言ったけど……たまたま梅雨入りが早くなったからって、それだけを見てそんな騒ぎ立てるものでもないだろ」
中村は言う。
「今の時代、天気なんて雨雲の動きを見ればなんとなく予測できるんだから、雨が降った降らないで一喜一憂するなんて、そんなわけないだろ。梅雨が早まったのだって大方、地球温暖化だとかそういうことのしわ寄せだろ。……まあ全くの無関心ってわけでもないけどさ」
せっかくの話題が空振りに終わったことに落胆するが中村の言い分ももっともだ、と草閒は思った。中途半端に知識を得たことで変に期待して興奮していたのは自分の方だったと、少ししてから気がついた。それが子ども染みていて少し恥ずかしかった。
それから少しして弁当を食べ終えると草閒はおもむろに立ち上がる。昼休みの間に済ませておかなければいけない事がひとつあった。
「どこか行くのか?」
まだ弁当を食べていた中村が訊く。
「ああ、ちょっとな。たぶんすぐ戻る」
弁当を鞄にしまうと草間は教室を出た。
二、三年の教室がある棟と一年生の教室と特別教室がある棟を結んだ空中廊下を渡ると、一年生たちの話声が聞こえてくる。今年の三月までは我が物顔で歩いていた一年生のフロアを草閒は進んで行く。草閒の思い過ごしなのだろうが、どうにもすれ違う一年生から見られているような気がしてくる。上級生が一年生のフロアで何をしているのか、すれ違う一年生が皆そう思っているような気がしてくる。たった一学年違うだけなのに、それだけで住んでいる世界が全く違うように思えてならなかった。
さっさと用事を済ませて帰ろうと、草閒は歩く足を速める。目的の一年E組の教室はすぐに見つかった。教室前方のドアから顔を覗かせ、中の様子をこっそりと窺う。
昼休みで教室内の人が少ないのもあったが、ほんのりと赤みの入った栗色髪は目立った。すぐに穂坂の姿を見つけることができた。彼女は、友人と談笑しながら昼食を楽しんでいる。
どうやって呼び出そうかと思っていると、教室の中からちょうど男子生徒が出てきた。
「あの、ちょっといいかな」
草間はその男子生徒を呼び止めた。男子生徒は突然声を掛けられたことに少し驚いていた。
「はい、なんですか?」
上履きの色を見て、草間が上級生であると認識した彼は、わずかに緊張の色を見せた。
「穂坂さんを呼んでもらってもいいかな」
彼は一瞬怪訝な表情を見せたが何も言わずにコクリと首を立てに振ると教室に戻り、友人たちとの会話に花を咲かせている穂坂に声を掛けた。2、3言葉を交すと、穂坂がこちらを振り返り、扉の近くに立つ草間の姿に気がついた。それから穂坂は友人たちに断りを入れると、教室に並べられた机の間を縫ってこちらに駆け寄ってきた。
穂坂は草閒の前まで来ると足を止める。彼女の栗色の髪が揺れた。
草間はそれほど背が高い方ではない。だが、こうして穂坂と並んで立つといつもより背が高く見せた。穂坂の背が低いのだ。目測で150センチ前後といったところか。
「どうしたんですか先輩? 一年生の教室に来て、私を呼んで」
そんなことを考えていると、目の前に立つ穂坂が言った。目線の高さが違うせいで、彼女が自然と上目遣いで草閒を見ることになる。
「ああ、いやほらこないだ保健室で手当してもらっただろ。その時にこれ、借りたままだったからさ。ありがとう」
そう言うと草閒は上着のポケットからハンカチを取り出した。スポーツ祭の二日目、保健室で穂坂から借りたハンカチ。草閒はそれを穂坂に返した。
「わ、ありがとうございます」
穂坂はハンカチを受け取った。そしてそれを手に持ったまま彼女は言った。
「そのためにわざわざ?」
「そうだけど?」
借りたモノを返す。人としてあたりまえのことだ。誇るようなことではない。
「そうですか……」
穂坂はそう言って目を伏せた。草閒は、彼女がなぜそんな顔をするのか分からなかった。
気がつけば、教室の中にいる穂坂の友人達がこちらを見ていた。向かい合ったままの草閒と穂坂を見て何やらヒソヒソと話している。年頃の高校生が、二人で話す男女を見て話すことなんてきっとろくなものではない。
「――それじゃあ、俺はこれで……」
良からぬ噂を立てられないうちに退散しようと身体の向きを変えたところで「待って下さい!」と、穂坂が呼び止めた。彼女の方に向き直ると、先ほどより近い距離に彼女の姿があった。
「先輩は、一年生の間ではちょっとした有名人なんですよ」
穂坂はそんなことを言った。草閒は一瞬、彼女が言ったことを理解出来なかった。言われたことを頭の中で反芻して、ようやくその言葉の意味を理解する。
「俺が、有名? なんで?」
理解すると同時にそんな疑問が草閒の口から出た。理解出来ても意味が分からない。人に注目されるようなことをした憶えはない。そう思っていると、穂坂が言った。
「自分を犠牲にしてチームを勝利に導いたスポーツ祭ガチ勢の二年生って。皆そう言ってます」
「一体誰がそんなことを……」
根も葉もない真っ赤な嘘で草閒は頭を抱えた。別にチームのために鼻血を出した訳じゃないし、スポーツ祭に対する熱意も人並みかそれ以下のものしか持っていなかった。そして気がつく。ここに来るまでの間、すれ違う一年生から感じた視線は勘違いではなかったのか。
穂坂はニコニコと笑っていた。それを見て、もしかしたら目の間の穂坂がそんな噂を流したんじゃないか、根拠など何も無いが草閒はなんとなしにそう思った。
「あれから、どうしてか先輩のことが気になるんです」
ふいに穂坂が言った。穂坂の吐息が草閒の前髪を揺らす。
「先輩がどうしてあのときあんなことをしたのか。あのときは試合に勝つためなのかなって思ったんですけど、やっぱりそれは違うのかなって、そんなふうに思えてきたんです。だって先輩、あのあと何が気が抜けた感じだったので。じゃあなんであんなことをしたのか、考えても分からなくって」
穂坂が一度言葉を句切った。そして大きく息を吸うと、「先輩にお願いがあるんですけど」と言い出した。
「……お願い?」
彼女が次に何を言い出すのか、草閒は身構える。そして彼女はこう言った。
「今週の土曜日、どこか学校の外で会ってお話できませんか?」
その後、何度か問答が繰り返され、ついに草閒は了承した。
「何か予定があるんですか?」
そう聞かれて草閒は答えに窮してしまったのだ。予定など何もなかった。何と答えようかと考えていると「ダメですか?」追い打ちのようにそう聞かれて「ダメ」とは言えず、草閒は首を縦に振った。それから「土曜の午後一時に学校近くの駅に集合」とだけ決めて草閒は教室に戻った。
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