1.6

 鼻血も無事に止まり、いつまでも保健室に居座っていては保険の先生が戻ってきたときに面倒だと思い扉に近づくと、草間の手が触れる前に扉が開いた。保険の先生が戻ってきたのかと思ったが,、違った。

 扉を挟んで廊下側、ドアを開けて草間の目の前に現れたのは稲田姫乃だった。


「怪我は大丈夫ですか?」


 稲田はドアを開けてすぐ目の前に立っていた人影に一瞬驚くが、それが草閒だと分かるとすぐにそう言って怪我の具合を訊ねた。

草閒は不意打ちを食らったように固まっていた。まさか彼女がここを訪れるとは思っておらず、驚きで声が出ない。

 問いに答えず固まったままの草閒を見て、それを悪い意味に捉えたのか、


「大丈夫、ですか……?」


 稲田はもう一度、こんどは気遣わしげな声で訊ねた。草閒はやっとのことで正気を取り戻した。


「は、はい。ただの鼻血だったので。もう大丈夫です」

「そうですか。それはよかったです」


 稲田は声を和らげる。だが、すぐに表情を引き締めて真剣な顔で言った。


「でも、あんな風に自分の身体でボールを止めようとするのは危険です。当たり所が悪かったり、ふらついて倒れて、頭でも打ったりしたら大変な事になってましたよ」

「そう、ですよね。すみません。余計な心配をさせてしまって……」


 草閒はつい、頭を下げた。それを見て、稲田は慌てて「あっ、いえ、そんなつもりではなくて。こちらこそ偉そうにすみません……」と、頭を下げた。


 二人して頭を下げている奇妙な光景だった。

 互いに頭を下げたまま目だけで相手の様子を窺い、互いに頭を下げていることに気がつき、草閒は思わず噴き出した。稲田も口元を押さえて笑った。二人の笑い声が人の気配のない廊下に響いた。



「――すみません」


 ひとしきり笑い合うと、静かに稲田が言った。


「最初に自己紹介するべきでしたね。――私は、三年の稲田姫乃といいます。先ほどはありがとうございました」


 そう言ってもう一度、稲田は腰を折った。その所作は綺麗なもので稲田の育ちの良さを感じさせた。そんなふうにかしこまった挨拶を受けたことがない草間は妙に緊張してきた。


「あ、いえそんな。こちらこそ、どういたしまして。先輩に怪我がなくてよかったです」

「あなたにも大きな怪我がなくてよかったです」


 稲田が上半身を起こす。それから顔に掛かった髪を耳にかけた。それから彼女は、何かを待っているかのように草閒を見た。稲田に見つめられ、草閒の胸が早鐘を打つ。数秒にも満たない沈黙と稲田からの視線に耐えきれず、草閒の口が動く。


「あの、試合はあれからどうなりましたか?」


 本当は試合に勝とうが負けようがどうでも良かったが、他に思いつく話題もなかった。


「試合ですか? あなたのおかげで勝てました。あの後みんな、『仇討ちだ!』ってやる気を出して。すごかったんですよ」

「そうですか」

「はい。それはもう」

「…………」


 そしてまた沈黙。変わらず稲田は草閒のことを見ていた。話し相手の目を見ないことは失礼だと教えられてきたのだろう、彼女の目はまっすぐと草閒の目を捉えている。堪らず草閒は目をそらしてしまう。

 すると、今度は稲田が、少し言いだしずらそうにしながらも言った。


「その……もしよかったら、あなたのお名前を教えて頂けませんか?」


 稲田は草閒の名前を求めた。言われて、草間は自分の名前を彼女に教えていないことに気がついた。なぜだか分からないが、てっきり彼女は自分の名前を知っていると思い込んでいた。そんなことはないのに。

 草閒は慌てて自己紹介をした。


「ああ、すみません。草間稔です」

「草間稔さん。ですね」


 稲田は、声に出して草閒の名前を確かめた。そうやって人の口から自分のフルネームが呼ばれるのを聞くと、なんだか少しだけ気恥ずかしかった。

 そうしている間に、校庭の方から次の試合の開始を告げるアナウンスが聞こえた。静かな廊下に機械で増幅された声が反響する。それが鳴り止んでしまう前に言った。


「もうすぐ次の試合ですか?」

「そうですね……あと五分くらいでしょうか」

「それじゃあそろそろ行った方がいいですね」


 草間は廊下に出ると後ろ手に保健室の扉を閉めた。


「この後の試合に出るんですか?」


 稲田が訊ねた。


「はい。もう血も止まっ――」


 言って、草閒は穂坂が言っていたことを思い出す。今戻って、試合に出ようとすればきっと彼女が止めるだろう。


「――たから、思ったんですけど、日陰で休みながらもう少し様子をみようと思います」

「それがいいですね」


 それから二人は校庭に戻った。戻ってから数戦はおとなしく見学して、少ししてから草閒は試合に戻った。

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