1.5
保健室に着くまでの間に二人は簡単な自己紹介を済ませた。栗色髪の後輩は、穂坂優菜と名乗った。
保健室に着くが、中に保険の先生はいないようでドアの前に「出ています」と書かれた札がかけられていた。先生がいないのでは来た意味がないと、草閒は廊下を引き返そうとするが、
「草間先輩?」
と、すでに保健室の中に入っていた穂坂が呼んだ。ここまで来てしまったのではもう素直に従うしかないと保健室の扉をくぐった。中に入ると消毒液の匂いが鼻をついた。
「座ってください」
穂坂は草間に椅子を勧め、自分は備え付けの水面台の前で手を洗っていた。勧められるまま椅子に腰をおろすと、草間は近くにあったティッシュで血を拭った。
「付き添ってくれてありがとう、穂坂さん。でもあとはひとりで大丈夫だから」
そう言ってティッシュで詰め物を作ろうとすると草間の手を、穂坂の細い手が掴んで止めた。
「ダメですよ」
その理由を訊くよりも早く、穂坂のもう一方の手が草間の小鼻を摘まんだ。突然鼻を摘ままれ、慌てて口呼吸に切り替える。
「こうやって鼻を摘まんでいてください。ティッシュは鼻の内側を傷つけちゃうからから良くないんです」
穂坂の手が離れる。草間は言われた通り自分で自分の鼻を摘まんだ。
それから穂坂は蛇口から流れる水を止めると、水で冷やしたハンカチを草間の鼻筋に当てた。
「これも一緒に押さえてください」
草閒はハンカチの上から鼻を摘まみ直した。
「これで、あとは治まるのを待つだけです」
「ありがとう」
「いえ、大したことじゃありませんから」
穂坂は少し照れながらそう言った。
必要な処置をすべて終え、彼女は椅子をもう一脚持ってくると草間から少し離れたところに置いて座った。草間は初めて彼女を正面から見た。
少し赤みの入った栗色の髪と同年代の女子よりも小さな背丈が相まって、穂坂はどこかリスのような小動物を思わせた。
「先輩」
そんなことを思っていると、穂坂がふたたび口を開いた。
「さっきはありがとうございました」
「何のこと?」と聞き返そうとするが、鼻を摘まんでいるせいで呼吸のタイミングを掴めず声を出すのが遅れた。
「私のこと守ろうとしてくれたんですよね」
草間が聞き返すよりも早く、穂坂が言う。
そういえばあの時、稲田の傍にこの子がいたかもしれない。草間は思い出した。
けれど穂坂は勘違いをしていた。草間は彼女を守ろうとしたわけではない。
訂正しなければ。
「いや、それはそうじゃなくって」
「わかってます。わたしが当てられたら試合に負けるからですよね」
息が苦しかった。慣れない口呼吸のせいで息を吸うの意識しなければならず、思うように喋ることができない。そんなことは知らずに穂坂は続けた。
「それでもありがとうございました」
そして椅子から立ち上がり、
「それじゃあ私はもう戻りますね。あ、先輩はまだダメですよ。もう少しここで安静にしていてください。身体を動かしたらまた鼻血が出るかもしれませんから」
そう言って保健室を出て行ってしまった。あっという間のことで草閒が呼び止める間もなかった。結局彼女の勘違いを正すことはできなかった。
草閒は彼女が出て行った保健室の扉に目をやる。
穂坂の外見は小動物のようだが、その中身は小動物のそれではなかった。小さな身体の中に芯を持ち、それが穂坂という少女を内側から形作っている。口調や態度は決して高圧的というわけではないが、彼女の強い意志が感じられた。
穂坂が保健室を出て行ってから10分ほどで鼻血は止まった。鼻筋を冷やすのに使っていたのが穂坂のハンカチだということにあとから気がつく。後日洗濯してから返すことにして、ハンカチを丁寧に折るとそれをポケットにしまい込んだ。
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